「お岩さんもお菊さんも怖くないわ、恐いのは清十郎兄様の不実を詰る女のすすり泣きよ」
「随分一端の口をきくようになったね、誰に言われた?」
「伝七郎兄様」
あいつか…と独りごちて、清十郎兄様は可笑しくもないくせに口角を心持つり上げた。兄様と呼び習わしてはいるが、私たちは兄弟ではない。所謂幼馴染みというやつだ。吉岡流の当主であるというのに、ろくに稽古もせず、あっちへふらふらこっちへふらふらと浮き名を流す清十郎兄様に、何も言えない門下生たちに代わり、妹の顔でお小言を言うのが私の役目である。というのは勿論建前で、私だって実際のところは清十郎兄様に懸想する女の一人でしかないのが実状だった。そうでなければ彼のやることに文句など言うものか。清十郎兄様は私の気持ちに気付いて素知らぬふりをしている。それを口惜しく思うよりは安堵の溜息を吐く程度には、私は今の関係が気に入っていた。昨年、弟である伝七郎兄様が結婚したが、清十郎兄様は数多にいるであろう情婦の誰一人として妻に迎えようとはしない。今のままの浮き雲のような暮らしを望むなら、それは賢い選択と言えた。

あと一歩で色街という市井の端で、人待ち顔の清十郎兄様に出くわした。青丹の上着は彼の普段着の中では地味なものだったけれど、美丈夫が着ればパッと映えるものだと私はしみじみ感心した。
「おつかい?」
「そうよ」
「偉い偉い」
清十郎兄様は無遠慮に私の頭をわしゃわしゃと撫でた。細められた眼があんまり優しいので、私は居心地悪く首をすくめた。
「子供扱いしないでよ」
「事実、子供じゃないか」
「子供じゃないわ!」
「ほら、そうやって、むくれて見せるところが子供」
むきになって朱く色づいた私の頬を、清十郎兄様はからかい交じりにつつく。その指先があまりにも冷たいので、私は随分長いこと、彼がここに立っていることに気付いてしまう。
「子供でいてくれよ」
猫なで声で清十郎兄様は言う。私の機嫌をとろうとでもいうのか。私は途端に悲しくなった。
「お前に先に大人になられてしまったら、寂しいじゃないか…」
囁く声の毒のような甘さ。艶っぽく伏せられた目許。殿方なんてみんな子供よ。いつだか井戸端会議で長屋のおかみさんたちが口を揃えていたけれど、こんな表情が子供に赦される訳がないから、あれは間違いだったのだろう。指先ほどに冷えてはいない手の平が、柔らかく右の頬を包み込む。先程子供だと散々私をからかった唇が、もう間近に迫っていた。
「嫌だわ、若様ったら。妾というものがありながら、そんなあどけない娘さんに手を出すなんて!」
清十郎兄様の肩越しに、明らかに堅気ではない、婀娜っぽい女人が立っていた。綺麗な人には違いなかったが、私の母と同じくらいの年増に見えた。
「袖にされたかと思ってね」
色男は余裕の表情で、私から体を離す。そのまま女と行ってしまおうとする清十郎兄様の服の裾を、知らず知らずの内に私の左手が握っていた。
「ん?」
「…清十郎兄様の、すかたん」
泣きべそをかくような声になった。これでは本当に餓鬼もいいところだと我ながら飽きれる。清十郎兄様は困ったなぁと全然困ってない風で独りごちた。
「困ったなぁ…。どうやら近所の娘がおつかいに来て帰り道がわからなくなっているらしい」
清十郎兄様はふんぞり返って、どうやらそんな戯言を、女に向かって言っているらしい。こんなに手も服も冷え切るまで待っていたであろう、年嵩の女に。
「俺は優しいから、困っている子供は見捨てられないな」
そうして彼は今度こそ歩き出す。色街の方ではなく、家のある方角に向かって。唖然とした女を残して、迷子だということに仕立てあげた小娘の手を引いて。

その一件を引き合いに出すまでもなく、清十郎兄様が私の慕情に気が付いていることはやはり明白であった。嗚呼、口惜しい。叶わぬ恋に身を焦し、眠れない私は門前で、せめて愛しい人の眠る家屋を視界に留めて星でも眺めようかと夜更けに屋敷を抜け出した。吉岡家はこの近隣どこからでも目に入る程大きい。静まり返る往来に、人影があった。まずは妖しの類いだと思った。それから幻かと我が目を疑った。私が身を潜める前に、向こうがこちらに気付いてしまった。
「子供がこんな時間に外にいると危ないぞ」
清十郎兄様は至極穏やかにそう言った。灯りも持たずに星だけを頼りに、この夜道を歩いて来たのか。彼の姿をよく見ようと、暗闇に慣れてきた目を凝らす。わざと宵闇に紛れるような黒衣は華美を好む清十郎兄様にしては珍しいものだった。
「俺のまわりですすり泣きが聞こえるとすれば、それは不実を詰る女ではなく、俺に斬られた人間の怨嗟の声だ」
こちらからは影になった左手に携えた太刀から滴る闇が清十郎兄様の足許に染みを作る。俺に斬られた人間、と彼は言った。つまり、今宵もそういうことなのだろう。粘ついた闇がまた零れる。清十郎兄様が刀を構えたのだ。
「さて、どうしようか…」
清十郎兄様はやっぱり、あんまり困ってはいないようだった。綺麗な顔を傾けて、いつもみたいに優しく私を見下ろしている。
「知られたからには、生かしておくと不味いかな、流石に…」
私はまじまじと清十郎兄様を見詰めて、その顔貌が夜の底に沈んでも尚浮かび上がってくる程に見詰めて、それでも飽きたらずまだ見詰めて、懲りもせず好きだと思った。
「私は子供だから、難しいことはわからないわ」
私は考えることを放棄して、潔く目を閉じた。目の前の男が人斬りで、今まさに私を斬ろうとしているとしても。それとも向かい合った愛しい人が戯れに、私に接吻をくれるとしても。どちらにせよ、私の夢は叶わない。私はこの人とは生きられない。
「そうだったね」
頷く清十郎兄様の声があんまり優しいから、私はもう一度だけ、目を開けてその顔が見たくなる。彼を怨んですすり泣いているのは、やはり女の人だろう。
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