煢然たるレペティール


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記憶が無くなった入間銃兎の話



 「ではね」と言って先生は部屋の外へ出た。
 今、聞かされたことは本当か、本当に、日本での出来事なのか。理解ができない、納得がいかない。たった十年強でこんなに変化するものか。
 首を動かして、窓の外を見た。ビルだ。微かに光が差している。こうして見ている分には何も変わらないように見えるのに、己の知らないところで世界が変わっている。妙な感覚だった。

 数日後には、完全に上半身を起き上がらせることが出来た。腕が動く。筋肉が随分落ちているようで、動かす度に関節が痛んだ。リハビリのことを考えると気が重い。
 先生は定期的に病室へ来てくださった。「君は十八歳に見えないね」と何度か言われたが、それはそうだ。体は二十九歳である。
 そうこうしているうちに、脳が認識している体と実際の体での違和感は無くなっていった。ものの距離感もなんのその、だ。
 ぼんやりと外を眺めていると、看護師が入ってきて今日の予定をつらつらといってきた。検査をして、採血をして、云々かんぬん。そんなに早口で言われてもなあ。と思いながら、唯々諾々と指示に従い、諸々の検査を終えた。疲労困憊である。横になってから暫くしていると、眠気が襲ってきた。瞼が重い。何か、考えなくてはいけないことが沢山あるはずだのに、何も考えられない。また意識が沈んでいく。
 ──次に起きたのは、男の怒号が聞こえてきたときだ。次いで看護師の声。「ちょっと!」刹那、がたんと大きな音を立てながら扉が開かれた。引き戸だというのに、一体どこからそんな音が出るのだろう。

「おい銃兎! 何してやがんだてめぇ!」

 あ。

「白い子」

 思わず指をさしてしまった。間髪入れずに「あァ?」とドスの効いた声が返ってくる。ヤクザかよ。何故俺がこんなに柄の悪い人間とチーム? とやらを組んでいるのだろう。俺も柄が悪いからか。どうしようもないくらい納得した。

「失礼しました。さまときさん、ですよね?」

 向けていた人差し指を下ろす。にこりと笑えば苦虫を噛み潰したような顔をされた。眉間にマッチ沢山挟めそうだな、と頭の隅で考えていたらさまときが大きな舌打ちをする。舌打ち日本選手権があれば優勝していただろう。

「すみません。僕、覚えていないみたいで」
「……みてえだな」
「ええと、初めまして。もし良ければ、二十九歳の僕のこと、教えてくれませんか? 思い出せるかもしれないですし」
「気色悪ぃ顔しやがって」

 言葉のドッジボールかよ。まともにやり取りをさせてくれ。心の中で嘆息していると、さまときが何某かを呟いた。残念ながら聞こえなかったので、笑顔はそのままに首を傾げれば、さまときはまた舌打ちをした。舌打ち選手権暫定一位の立派な舌打ちである。

「帰る」
「え」

 先生から聞いていたさまとき像と実際のさまときは大きく異なっていたが、それでも心配をしてくれていたのはよくわかっていた。だからこそ、まだ来たばかりだと言うのに帰る意味が分からない。

「せいぜいラップの練習でもしとけや、うさポリ公」

 そう言いながらさまときは部屋の外へ出ていった。俺知ってる。ああいうのって、捨て台詞って言うんだよな。それにしてもラップの練習とは。先生が言っていたヒプノシスマイクだとかの信憑性がどんどん上がっていく。信じたくない。

「銃兎くん」
「先生」

 噂をすれば影である。なんだか少し慌てた風貌で、珍しい。どうかしたのだろうか。ナースコールも何も押していないのだけれど。

「左馬刻くんが来たんだって?」

 なるほど、そういうことか。来ましたね、と先生の眉間に視線を向けながら返せば、大きなため息が聞こえてくる。「面会禁止だと言っておいたのに」そういえばそうだった。

「大丈夫だとは思うけれど、何か不調はないかい? 殴られたりとかはしていない? あ、副流煙は──」
「先生」

 随分と過保護のようにも思える。副流煙だなんて、体は二十九歳なのだから心配しなくとも良いだろうに。まさかアレルギーでもあるのだろうか。

「大丈夫です。ありがとうございます。さまときさんは煙草を吸っていませんでしたよ」

 あと、本当に白かったです。
 そう言えば先生はきょとんとしたあとにまた噴き出した。意外とよく笑う人だ。しかもツボが謎。

「そうか、良かった。なら良いんだ。じゃあ、またね」
「はい、わざわざすみません」

 多忙な人である。ここに来て一分も経っていないだろうに、踵を返して出ていってしまった。揺れる髪を視界から外れるまで見つめた。完全に見えなくってから、視線を自分の体へ向ける。歩けるようになるのは、まだ先だろうか。


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