入間銃兎の殺人計画
車を走らせていると、ぽつりぽつりとフロントに雫が当たる。雨だ。森にいる二人は大丈夫だろうか、なんて頭の片隅で考えながら家に向かった。家が近くなにつれて強くなる雨に、ラジオから聞こえる声が暫く雨が続くと言っていたことを思い出した。
「どうも」
「こんばんは」
軽い会釈をしてきたのは、初めて見る警備員だった。しとしとと雨の降る中で、その存在はなんだか妙に馴染んでいる。「──今日」
「はい?」
「今日、あなたと話した職員が熱中症で倒れてしまって、代わりに俺が来た」
「そうだったんですか」
「心配していた」
「……そうですか」
「元気が無さそうに見えるが」
「気の所為ですよ」
「そうか」
会話が終わる。奇妙な沈黙の中、とりあえず引き上げようと昼に話した警備員への見舞いの言葉を伝えて背を向けた。
治まらない吐き気と戦いながら部屋へ向かう。ようやっと見えてきた我が家に安堵の息を吐いた。部屋の鍵を開けて、ノブを回す。家主を歓迎するかのような空気の動きを感じた。ただいま、とだけ言って、少しだけ雨に濡れた靴をおざなりに土間へ脱ぎ捨てた。スーツを脱ぐのさえも面倒で、そのままベッドに雪崩込む。
感傷に浸っている場合ではないのだ。計画の日はもうすぐそこにまで迫っている。界隈で有名な殺し屋に連絡をして、上司を呼び出す手筈を整えなければならない。だから、こんな、あんな手紙で揺さぶられている場合では、ないのだ。
理鶯には悪いことをしてしまった。左馬刻にもだ。今日は両親の命日だということを知って、それで食事の予定を入れてくれたのだろうことは直ぐにわかった。だって、俺が好きだと言った料理ばかりが並べられていたのだ。それを、俺は。あんな最低な形であの二人の好意を無下にしたのである。到底許されるものではない。嗚呼、嫌だなあ。と漠然と思った。二人に嫌われるのは、嫌だ。
治まらない吐き気はそのままに、船に揺られるように少しずつ意識がふわふわとしてきた。これではまるで船酔いではないか、とまで考えて、思考の渦は海の中へ深く深く沈んでいった。
そして目が覚めた。なんだか落ちるような感覚とともに目を覚ましたので、あまり良くない夢を見たのだろうとは思うけれど覚えていないのであれば問題無い。勝手にそう結論づけて、ふとあたりを見渡した。恐らく朝なのだろうが、空は灰色の雲で覆われていて陽の光が当たらないし、窓に打ち付ける雨がうるさい。部屋の中にあるデジタル時計を確認して、ずいぶんと早い時間であることに気が付いた。出勤までもうしばらく余裕があるので、とりあえずシャワーを浴びてしまおうと体を起こす。なんだか心做しかスッキリした寝覚めである。
それからは普段と変わらない一日だった。パソコンと向き合って、外を歩いて、またパソコンと向き合う。定期的に目に入るストーカーも込みで。いやもちろん多少のいざこざはあったのだが、それも含めて普段と変わらない。何事もない一日なんてこの街じゃ有り得ないから。
「どうも」
「こんばんは」
昨夜と同じような挨拶をしてマンションのエントランスを歩く。この警備員、今朝もいたのだがどういったシフトなのだろう。まさか昨夜からずっと? ふわりと生まれたシャボン玉のような疑問はすぐにパチリと弾け飛んだ。電話が来たからだ。仕事用でも私用でも無い、ただ一人(もしくは複数人)と連絡を取り合うためだけに用意された携帯の画面には非通知と言う文字が浮かんでいた。電話口の相手は、依頼した殺し屋だ。
こんな所で電話をとる訳にもいかないので、エントランスを足早に抜けてエレベーターに乗り込む。すると機械音が小さな箱の中で早く電話をとれとより主張してきた。うるせえな、俺が一番わかってるよンなこと。内心は舌打ちという形で外側に漏れ出していく。
家に着いてからは早かった。乱雑に靴を放り脱いで部屋の奥へ進み電話をとる。「はい」「日にちは決まったか」落ち着いた声だ。「いえ。それがまだ。また詳細を連絡します。他になにかありますか?」「いや。問題無い」
随分簡素な内容で、そしてそのまま通話は切れた。どっと疲れが込み上げる。明日には上司と接触して、日にちと時間を決めなければならない。長らく失墜させたいと思っていた上司だ。何を隠そうシャブの取引に関わってる。それも随分と長く太く。シノギじゃねんだぞ、畜生。
そう、それから。後任のリストアップもしなくてはならない。俺はいなくなるから。
この期に及んでやることは多かった。なんでこんなことをしているんだろうとまで考えて、煙草に火をつける。ああ、そうだ。俺は、この真っ暗な闇のような世界で、何か少しでも誰かの道灯りになることが出来れば。……なんて、偽善も甚だしいところだが。それでも、俺は。短くとも、細くとも、直ぐにまた消えてしまうのだとしても。その蝋燭に火を灯す。もう決めたことだ。
白い煙が空を漂う。室内だからかそれは外のようにすぐに霧散することは無かった。俺はそれを、ただじっと見た。