煢然たるレペティール


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記憶が無くなった入間銃兎の話



 目が覚めた。
 額に髪が張り付いている。汗をかいていたようだ。周りを見る。白い部屋、暗い空に、明るい電気。ああ。

「思い出した」

 煙草が吸いたい。瞬間的にそう思った。
 十八の俺、正確には記憶をなくしていた間の自分、は随分と頑張っていたらしい。変に昔のことを話されなくて良かった、と思った。流石だな俺。自分の事をよく分かっている。
 さて、思い出したのだ。要するに記憶の障害がなくなった。これは誰かに声をかけて伝えた方が良いのだろうかとも考えたが、そんなに自分に構っていられるほどここにいる人間は暇じゃないだろう。大人しく次の検診だかの時にでも伝えれば良いか。

「銃兎」

 聞きなれた声。理鶯だった。結構頻繁に見舞いに来てくれているが、獲物を捕まえたりしていなくて良いのか? 死活問題だろうに。

「こんばんは。どうかしましたか、理鶯」

 理鶯の目が見開かれる。ああ、そうか。今までは「毒島さん」だったのだ。そういったことに聡い理鶯のことだ。気が付くだろう。

「銃兎、まさか、記憶が?」
「ええ、ご迷惑をお掛けしました。頭の方は何とかなりましたよ」

 そう言った瞬間に、理鶯が病室を飛び出した。見事なダッシュだった。あそこまで感情を出すのは珍しいな、と思いながら煙草が吸いたくなる。煙草が吸いたい。
 煙草が吸いたいなあと考えていたところ、ぱたぱたと廊下から足音が聞こえてきた。病院の廊下なのだが、走っていて良いのか? 

「銃兎くん!」

 走ってきたのはなんと神宮寺だった。廊下は走ったらいけないだろう。神宮寺は比較的冷静な人間なのだと考えていたのだが、そこまででもないのか? 首を傾げながら「はあ」と返事をすれば、神宮寺は眉をぎしりと寄せている。なにか挟めそうだ。

「私に、何か言うことは?」
 
 怖い顔だ。残念ながら威圧は通じないし、今更凄まれても今までのぽやぽやした表情を見ていると、何にも感じない。
 何か言うこと、言うことなんてあるのか? 記憶が戻りました。いや、これは理鶯が既に伝えているだろう。教える必要なんてない。なら自分が言うことは一つだけだ。

「煙草を吸っても良いですか?」

 苦言を呈されてしまった。「君は腹に穴が空いていたんだ。まだ体が万全になっているわけでもないのに許す医者がどこにいる」正論である。何も言い返せなかった。煙草、吸いてえなあ。いつになったら吸えるのだろうか。

 その夜のことだ。左馬刻が病室に来た。面会時間終わってるぞ、と言っても何も聞いていないように振舞ってくる。迷惑がかかるのは病院のスタッフなんだがな。そのつぶやきも右から左へと受け流されてしまった。なんなんだこいつ。

「銃兎、おまえよ」
「んだよ。俺の目の前で煙草吸うんじゃねえこのクソダボ」
「ハッ」

 今こいつ、人のことを鼻で笑いやがったか……? 片膝をたてた。いくらリハビリ中とはいえそこそこ動けるようになってきたのだ。喧嘩なら良い値で買ってやるぞ。そんな姿勢を気にする素振りも見せずに、左馬刻は笑った。

「お前、ガキの頃はあんなに可愛かったのになァ」

 はは、と軽快に笑う左馬刻に唖然とした。そしてそのすぐあとに、安堵した。お前にはガキの頃の俺がそんなふうに見えてたんだな。「てめえのそのナリで『さまときさぁん』ってよお!」ぶん殴る。
 本当に、それだけ言って左馬刻は帰って行った。頭痛が酷い。なんだか今日は妙に疲れたなあと思い眼鏡を外した。視界がぼやける。微睡みの中で、どこからが声が聞こえてきた。

「この人殺し」

 人殺し、ねえ。
 退院してから数週間が経った。初夏のぬるい風に揺られて、紫煙が夜空に馴染んで消える。記憶が無くなっていた間、自分が奮闘していたおかげで、特になんの違和感もなく職場やらなんやらにも復帰することが出来た。精神年齢十八の自分に感謝するしかない。
 煙草の先が赤く光った。びょうと風が吹いた。唐突に、頭の中から声が響く。

「あんたなんか居なければ」

 大好きだった母の恫喝。泣き崩れた俺と、母と、そして狂ったように笑う俺を産んだ女。思い出すのは久しぶりだ。
 カン。階段を降りる。自分の足音とは別に、がん、と鈍い音が頭の奥底から聞こえる。がん、がん、がん。
 あのとき、俺を産んだ女から逃げた時。階段に足をかけたとき。大事な、大切な妹を腕に抱いていた俺は、あの女に後ろから思い切り殴られた。
 がん、がん、がん。
 この鈍い音はなんだろう。そこまで考えて、自分が階段から転がり落ちていることに気がついた。がん、がん。そして、その腕の中にぎゅうと抱いていた、妹がいないことにも。
 がん、がん、がん。
 眼鏡がずれて、どこかへ飛んで行った。必死に近くの手すりを掴んでなんとか転がらないようにした。下にいる、いもうと、淡いピンクの服を着た、かわいい妹。
 がん。
 あんなに柔らかかった、あんなにふわふわだった妹から、あんなに鈍い音が聞こえるのだ。ついさっきまできゃらきゃらと花の咲くような笑顔で笑っていた妹の顔が、血塗れなのだ。
 カン。
 階段を降りる。ポケットに突っ込んでいた手を引き抜いた。
 線香のにおい。黒い服。
 お前が死ねばよかったんだ。お前さえいなければ──は死ななかった。大好きだった家族に言われた言葉。
 薄く開いた口から、主流煙を吐き出した。

 ああ、いきぐるしいな。


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