煢然たるレペティール


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記憶が無くなった入間銃兎の話



 祖母の家に引き取られる、前の話をしようか。
 俺は非常に仕合わせな日々を過ごしていた。厳しいけれど頼りになる格好良い父に、優しくて暖かい母、それから、柔らかくって、可愛らしい妹がいた。
 仕合わせだったのだ。少しだけ使用感の出てきたランドセルを背負って、玄関の扉を開けて。「行ってきます!」「行ってらっしゃい」そんな在り来りな遣り取りをして。

「ただいま!」

 大きな声で言えば、どこからか優しい「おかえりなさい」という声が返ってくる。次いで、手を洗ってきてね、とも。手を洗って、目当てのものをランドセルから取り出して、母の元へ向かう。

「──ちゃん寝てるから、静かにね。銃兎くん」
「はあい」

 小さな小さな声で返事をして、母の後ろへ忍び寄る。洗濯物を畳んでいる母に、えいと声を出して飛びついた。銃兎くんたら。笑う母の笑顔は柔らかかった。

「お母さん聞いて、あのね、今日学校で作文書いたの。先生に褒められたんだ」
「あら、本当? 銃兎くんは凄いねえ。なんのことかいたの?」
「家族のこと!」

 にこにこと笑顔を浮かべながら言えば、母も笑みを絶やさずに「そうなの」と言った。これ、お母さんにあげる。ぼしょぼしょと母の耳元でそう言って、近くへ丁寧に作文を置いた。目に入る花丸が誇らしかった。後で読むね、という返事が嬉しくて、ぎゅうと母に抱きついた。

「ほら、今日も宿題あるんでしょう? 早くやっちゃいなさい」
「うん。また後でね、──ちゃん」

 気持ち良さげに眠る妹の柔らかい頬をつついて、自分の部屋へ向かった。ランドセルから宿題を出して、計算やら書き取りやらをしていればいつの間にか結構な時間が経っていたらしい。良い香りが鼻腔を刺激する。夕食だ。大急ぎで宿題を終わらせて台所へ向かう。夕食の準備が始まるということは、もうそろそろ父が帰ってくるということである。胸が踊る。今日の夕飯はなんだろう。お父さんにも作文の話をしたいな。

「ただいま」
「おかえりなさい!」
「ご飯、出来てるよ」

 温かくて美味しい食事。大切な家族、大好きな家族。ああ、僕はとっても仕合わせだ。
 仕合わせ、だったと思う。あの頃は。いいや、今になっても、きっといつになっても仕合わせの定義なんてものは分からないだろう。けれど確かに、あの頃は仕合わせだったのだ。

「銃兎くん」

 なんてことないいつも通りの日。母が自分の名前を呼んだ。手渡されたのは封筒。「お手紙来てたよ。誰からかわかる?」心当たりは無かった。「わかんない」無遠慮に開けた。何の変哲もない茶封筒から出てきたのは、何の変哲もない便箋だ。
 銃兎へ。元気にしていますか。お母さんです。もうすぐ会いに行くよ。待っていてね、銃兎。お母さんより。
 確かこんな内容だった。今思い返すとなかなかクレイジーである。けれど昔の、七歳の俺にはなかなか難しかった。だって母は目の前にいたのだ。

「お母さんがくれたの? このお手紙」
「お母さんにも見せて? ……なんだろうねえ、悪戯かなあ」

 そう言って母は手紙を俺の手から取り上げた。そのまま両親の部屋へ持って行って、当時の自分は何が何だかよく分からないまま、その日を過ごし、そして眠りについた。
 目が覚めたのは偶然だった。なぜだか急に水が飲みたくなって、自室から出る。普段ならば電気はとうに消えているはずの時間帯に、台所からは明かりが漏れていた。目を擦りながら覗いてみると、何やら母と父が至極真面目な表情で話し込んでいて、とても水が飲みたいとは言えない状況だった。何よりも、こういう時は邪魔をしない方が良いと学んでいた。が、幼い俺だ。好奇心に勝てるはずもなく、ぽつりぽつりと聞こえてくる会話に意識を集中させていた。

「だから、だから嫌だったの。あの子の親権を、あの女に譲っていればこんなことには」
「お前……」
「あの子さえ」
 銃兎さえいなければ。

 時間が止まったかのように感じた。今母はなんと言った。自分のことを、自分さえいなければと、そう言ったのか。
 現実を受け止めきれなかった。しかし、俺の存在に両親は気付いておらず、無情にもそのまま話は続けられる。

「言い過ぎだ」
「でも、あなただってそう思うでしょう? 銃兎さえいなければ、私達は、私は、仕合わせなのに」

 母の言葉に息を飲んだ。銃兎くん。優しげに笑う母を思い出す。……仕合わせだったのだ。

「銃兎くん」

 少なくとも、俺は仕合わせだった。
 足音を立てずに部屋へ戻った。
 僕がいるせいでお母さんが苦しんでいた。僕がいるせいで、お母さんが、泣いていた。なんで。僕はここにいてはいけないの。
 父も母の言葉を否定しなかったので、同じことを思っているんだろうということはよく分かった。分かってしまった。自分で言うのもなんだが、俺は昔から他の子どもと比べて早熟だったのだ。七歳の混乱していた頭で最終的に理解したことは、自分が必要とされていないことだった。


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