記憶が無くなった入間銃兎の話
次の日の朝、先生は朝一で俺の部屋に来た。この人きちんと休みを取っているんだろうか。不安である。
「おはようございます」
「銃兎くん」
「どうしましたか」
「昨日、急に倒れてしまったから驚いたんだ。数値的には異常がなかったから、心因性だと思っているのだけれど」
「その節はご迷惑をおかけしました。この通りもう大丈夫ですから、ご安心ください」
「そういうことではないんだよ」
どういうことだってばよ。先生と話が通じない。こんなこと初めてだ。なんて言う表情を浮かべるだけ浮かべた。分かっている。先生は俺に倒れた理由を聞きたいんだろう。だからこうしてはぐらかしているのだ。二十九歳の俺が話しているかわからないことを、俺が簡単に話す訳にはいかない。
「話したくないことかもしれないけれど、君の嫌なことを知っておかなくては、私たちが知らずに話してしまうこともあるだろう。それで君が嫌な思いをするのは嫌なんだよ。君の意志に関係なく、『私たちが』嫌なんだ」
俺の意志は関係ないのかよ。末恐ろしい。
「先生」
「ああ」
「あの、なんで倒れたか、本当に分からないんです」
「倒れる直前に、何か考えたことはあるかい?」
「考えたこと、は、『思い出してしまった』っていう、よく分からない気持ちになりました。映像が沢山流れてきて、その、いきなり目の前が真っ暗に」
「……そうか、その『思い出してしまった』ことの内容は?」
「わかりません。家族とか、警官の制服とかがごちゃって」
これは賭けだ。先生が俺の嘘に気づくかどうか。そして先生が、俺の過去を知っているかどうか。
先生はこんなでかい病院で上の地位にいるだけあって、実力や洞察力はピカイチだ。しかも俺は先生との最初の会話で既に嘘をついて場を誤魔化そうとしていた。要するに俺には、嘘をついたという前科が、ある。
平静を装って、先生の返事を待つ。さて、どう返してくるか。
「ご家族とは、縁を切っていたんだっけ」
「はい」
「なら、もしかしたら銃兎くんの忘れている十年間の間にあった出来事かもしれないね。思い出したくないのか」
──賭けに、勝った。
先生は俺の過去を知らない。嘘かどうか見破られていようが、この際それさえ分かれば良い。
「なら、左馬刻くん達が原因ではない?」
「……わかりません。本当に急だったので」
正確にはさまときの言動が原因だけどな。んべ、と心の中で舌を出しながら答えた。先生、優しいなあ。「そっか、なら、これからも左馬刻くん達は来ても平気かい?」「多分、平気です」優しい声色の質問に、恐る恐るといった体で返事をした。
その後すぐ口を開いて何かを言おうとした先生の言葉を遮ったのは、PHSの音だった。口の形が変わる。「ごめんね」と呟いて先生は立ち上がった。幾許か会話を交わした後、ぴ、という無機質な音が響く。「行かなくちゃいけない」
「ご多忙ですからね。俺の事は気にせずに行ってください」
「すまないね。本当はもう少ししっかりと話をしておきたかったのだけれど」
部屋の扉を開けて、出ていこうとした先生が思い出したように俺の方へ向き直った。「君のチームのCD、置いてあるから好きに聞いて。ラジカセも使って良いから」CD。
CD出してるのか、俺のチーム。