「っおまえ、」
残念ながら、タイムアップですよ。柳くん。
口の動きだけでその用件を伝えると、彼ははっとして時計の方を見た。それと同時に、部室の扉が音を立てて開かれる。
「ぬ、早いな二人とも。おはよう。」
「おはようございます、真田くん。」
先程の笑みとは違う、普段通りの表情を浮かべながら真田くんの方へと視線を向けた。真田くんはこちらを気に掛けることもなく自分のロッカーへと直行する。
柳くんはというと、まるで何事もなかったかのようにすました顔をして「おはよう」と真田くんに云った。
今 角さ更ながらに気付いたけれど自分、まだ着替えてすらいないじゃないか。これはまずい。普段ならば最低でも丸井くんが来る時点で着替えが終わっているのだ。彼は意外にも時間をきっちり守るタイプの人間で、大体幸村くんと同じか少し前に来る。もうそろそろだろう。急がなければ。
せかせかとロッカーを開け、着替えを取り出す。
「柳生、」
呼ばれた。柳くんに。「はい」と返事をして振り返る。全く、先刻話していたばかりだというのに、何の話があるというのだ。
そう考えていたのが伝わってしまったのかもしれない。心なしか柳くんが申し訳の無さそうな顔をした。
「なんでしょう柳くん。」
にこりと形ばかりの笑顔を浮べれば、無意識だろうか。柳くんが眉間に皺を浮かべた。
「先程の話は、また改めてしよう。」
とでも、そう言いたかったのだろうか。しかし柳くんはいわなかった。否、云わなかったのではない。自分が云わせなかったのだ。
何故かと問われれば、それは自分が柳くんに睨みを効かせたから、という答えしか出てこない。
「……」
「……」
お互い、無言の時間が続く。まるで部室には二人しかいないかのような感覚に、思わず笑みを浮かべてしまった。
真田くんが視界の端に映る。向こうもこちらの会話を気にする素振りは見せていない。今日は褌ではないのか。少しがっかりした、ああほらまた思考が逸れた。
そんな自分に、緊張感が足りない。と喝を入れて、気持ちを切り替える。また意識を柳くんに向ければ、ぱちりと視線が合った。
「……わかりました。」
一つ溜め息を吐いて視線を外す。柳くんの顔が見えなくとも、彼がどんな表情を浮かべているのが手に取るようにわかる。安堵だ。大方、こちらが話をはぐらかすとでも思っていたのだろう。口角を多少なりとも上げている様子を思い浮かべて苦笑する。
「そうですね、いつ頃が良いでしょうか。」
にこりと取って付けたような笑みを浮べれば、柳くんは「そうだな……」と顎に手を添えて思考を始めた。もう、頭の中でシナリオは完璧に出来ている。彼が思った通りの反応をしてくれれば、の話だが。
「今週の土曜はどうだろう。午前練だから、そのまま二人で昼食を兼ねて話すのも良いだろう。」
顔を上げ、こちらへと視線を向けてくる柳くん。正直、ここまではどんな解答が返ってきても構わない。問題は、これからだ。
「そうですね。それが良いかと。込み入った話もありますし、私の家で昼食を食べられては如何です?」
首を傾げて、問う。「柳くんもご存知の通り、うちは両親とも不定期な休みですので、土曜はいませんよ。」そう付け足して柳くんの返答を待つ。
柳くんはというと、幾許か思案した後、「構わない」と口にした。
「昼食を持っていった方が良いかな?」
「そんな、私が腕によりを込めて作ります。少々お待ち頂くことになりますが宜しいですか?」
「では、お言葉に甘えてご馳走になろう。」
微かに口許に笑みを浮かべる柳くんを尻目に、こちらも内心ほくそ笑む。さて、彼は気づくかな。
「最近、オリジナルの紅茶を淹れることに凝っていまして。飲んでいただけますか?」
「それは楽しみだ。勿論頂こう。」
柳くんは薄味のものがお好きでしたよね。ほう、覚えていたのか。勿論。あの合宿でのことは忘れられるわけがありません。
談笑に花を咲かせる。もうそろそろ幸村くんかジャッカルくんが来る頃だろうか。
ちらりと横目で時計を確認すれば、なかなか良い時間だった。
さて、一つ、たった一つだけ、爆弾を落とそう。彼程聡明ならば気付かない訳が無い。
シナリオの幕を閉じよう。
もう一度だけ頭の中で云うべき台詞を反芻する。
「そう云えば、」
ふと思い出した風を装い、柳くんへと視線を向ける。視線に気付いたのか否かはわからないけれど、少なくともこちらを向いているので問題は無いだろう。にこりと今自分にできる最上級の作り笑いを浮かべて、云った。
「最近、庭に夏水仙が咲いていてとても綺麗なんです。良かったら見ていかれませんか?」
笑みが深まるのが分かる。
目の前の柳くんの表情は──心無しか顔色が悪いように見えた。
ああ、意味がわかったのか。なんて、心の隅で考える。
そして自分は、更に顔を歪めた。
模倣とペルソナ 秘密なんて、ばらすものか。