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反射的に、否、少なからず恐怖の念から、目を瞑ってしまった。いくら好いていても、顔面を、しかも拳で殴られるのだから、それはしょうのないことなのだろう。胸倉が守沢の手で掴まれていることで、ワイシャツの襟が首にくい込んでぎちぎちと悲鳴を上げている。肘に食い込むコンクリートの突起の感触と、風の音だけが鮮明だった。
一体何秒程、目を瞑って衝撃を待ったのだろうか。来るであろう顔面への衝撃を、感じることはなかった。
恐る恐る目を開ける。目の前には、あれほど焦がれて、愛して、そして見つめた顔。ああなんて端正で、綺麗なのだろう。守沢は顔を歪め、心做しか目に涙を浮かべている。これは、相当シリアスな場面だろうに。そんな状況に見合わない感情を抱くことに、我ながら相当毒されているな、と苦笑した。
「できるわけ、ないだろう……」
ぼそりと呟かれた言葉。出来る訳が無い、だなんて。何をだろうか、人を殴ることか、確かに正義の味方が人を殴ることは良くないな。勝手に自己完結して、この状況について細かく思案し始める。いつの間にやら、胸倉を掴んでいた手の力は緩み、形だけの物となっていた。
「お前の、蓮巳の顔を殴るだなんて、できるわけが」
少しだけ、胸が痛んだ気がした。
守沢が殴らないのは、あくまでも正義の為で、そしてアイドルの商売道具でもある顔に傷を付けないためなのだ。決して自分の、蓮巳敬人という人間のために殴らないのではないのだ。
そこまで考えて、こんな状況になっても想い続ける自分が馬鹿らしくなってきた。周りの空気が重くなったように感じる。
「蓮巳、お前は勘違いしているんだ。」
先刻と違って、はっきりと言われた言葉。一体何を勘違いしているというのか。言いたいことは山程あるが、この状況で平然としていられるほど神経が太い訳ではない。辛うじて返事をする。「……なんだと?」自分はいつも通りの接し方が出来ているだろうか。
「俺が、好きなのは他でもない……蓮巳なんだ。蓮巳に、心の底から、惚れていて、それで、」
言葉を重ねる毎に守沢の顔が紅潮していく。耳まで赤くなったところで、漸く今の言葉を少しずつ、少しずつ受け入れ始めた。
守沢が、誰に、惚れている?
状況の把握ができない。動揺からか喜びからか、或いは信じられないという疑心からか、守沢の瞳を見つめることしか出来なかった。どういうことだ。自分は守沢に嫌われていて、それで、守沢は英智のことが好きなんじゃ、ないのか。
ぐるんぐるんと色々なことが頭の中を駆け巡る。
「す、まなかった、蓮巳。すまない。ほんとうに。」
何に対しての謝罪なんだ。何故守沢が謝る。謝るのはこちらの方で、などではない。謝る必要なんて無いんだ。お前がすきなのだから。好きだ。好きなんだ。
言葉を伝えることが出来ない。
守沢の小さな声で繰り返される謝罪と、自分の呼吸だけがこの世界に存在しているかのような感覚に囚われた。少なくとも今は、この世界に二人だけ。
「敬人!」
びくり、と、守沢の肩が震えた。英智と、日々樹の姿が目に留まる。「すまない。」守沢の言葉には、どんな意味が込められているのか、本当にわからない。現代文の授業で、作者や登場人物の心情を表すことは簡単なのに、目の前にいるただひとりの想い人の心情を思い描くことが、到底出来なかった。
それからの記憶は曖昧で、ずっと地面がふわふわとしていて、まるで宙に浮いているかのようだった。