ensemble | ナノ
月明かりで影鬼を 後
 ほうと息を吐き出した。
 空気の流れがわかる。白くなった息を見て、ああ自分は生きているんだと再認識をしたのは何度目だろうか。

 「月が綺麗だな」と、隣を歩く鬼龍が言った。その言葉にびくりと反応してしまう自分がどうにも恨めしい。ああでも、今では夏目漱石の訳した意味があるのだから、鬼龍も気が付くことだろう。

「月が綺麗だ。」

 ふと脳裏に浮かんだのは、今と違う。戦争の情景。血に塗れながら死と生の間にいた、あの時の記録。あの日もこいつは、同じことを言っていた。

 俺、蓮巳敬人には些かおかしな知識がある。正確に言うならば記憶、なのかもしれないが、確証は得られないので、俺はそれらのことを知識と呼んでいる。
 それは、一人の男の人生そのものだった。人を愛し、人に愛され、そして愛に包まれながらしんだ。言葉はきついが、優しい男だった。あまりにも優しすぎて、だからこそ彼にとっては死ぬよりも辛いことを経験することになった。
 その男の名前は分からない。けれど、愛を捧げた男の名前は知っている。大将という地位にいながら、自身で戦地を駆け巡る。部下にも慕われた男。
鬼龍紅郎。そういう名前だった。
 俺が持つ知識は、物心ついたときからあった。それ故、小さい頃に変な子扱いをされたせいで、良い子であらねばなるまいと、少しばかり堅物になったかもしれないが。まあ致し方ない。
 けれど学院に入って、同性同名に会った。俺はとてつもなく混乱した。
 この時まで俺は、少なからずこの知識のことを小さい頃に誰かに聞かされたおとぎ話だとか、そのようにしか思っていなかった。
 ぐるぐると頭の中を疑問が巡る。沢山の可能性を考慮した。あの時が人生で一番頭のおかしい考え方をしていた時だと思う。
 とりあえず俺はネットで「鬼龍紅郎」と検索した。まあどうせアイドルの情報しか出てこないだろうとタカをくくっていたら、明治頃の軍にそのような名前の人間が属していたとウィキ先生が教えてくれた。
 俺はとうとう頭がいかれてしまったのかもしれない。当時は本気でそんなことを考えていた。

もしかしたら、俺の持つこの知識が、俺の前世の記憶だなんて。

 けれど今更そんな風に捉えられるわけが無かった。今まで全くの別人の物語だと思って認識していたのに、いきなりそれが自分の前世だなんて、許容範囲外だ。
 ただ、もし俺の前世だというのなら。……鬼龍と俺は、恋仲だった。
 愛を誓っていた。知識の中の鬼龍がこちらへと笑いかける。
 その瞬間、俺の胸がどきりと脈打った。容姿背格好は本人と言っても差し支えない程似ている。だからこそ、俺の思考がどこか斜め上に行ってしまうのだ。
 もしこの知識が、記憶が、前世の俺のものならば。俺と鬼龍が学院で逢うのは、運命だったんじゃないかと。その考え方はあながち間違っていなかったと思う。今、俺と鬼龍は所謂恋人という関係にあった。
 すっぽりと、まるでパズルのピースがはまるかのような心地に、苦笑する。

 「すまねえ。」そう言って鬼龍は携帯をとった。ぽつりぽつりと相槌を打つその姿を横目で見ながら、はあと白い綿菓子を吐く。

「妹が待ってんだ、先に帰らせて貰うな。」

 鬼龍が言った。その言葉を聞いて、背中がぞわりと粟立つのを感じる。
 どこかで聞いたことのある台詞だった。そして、もう聞きたくないと無意識の内に思っていた台詞でもあった。
 走り去る鬼龍の背中が知識の中のものと重なる。はためく外套、こちらへ向けて微笑んで、そうしてあいつはいった。

「鬼龍!」

 思わず口から出ていた声は、鬼龍の足を止めるには充分な大きさだったらしい。「なんだ!」と、鬼龍もこちらへ向かって声を上げた。引き止めたは良いものの、流石に知識のことを言う訳にはいかなかった。せめて知識の中の鬼龍と重ならないように、あいつがいってしまわないように、「また、明日!」と叫んだ。

「……おう。また明日。」

 そうやって微笑んだ鬼龍の表情に、胸をぎゅうと締め付けられた。
 そうして、鬼龍の背中が消える。


「妹が待ってんだ」
 その言葉を聞いた時に、どくりと心臓が脈打つのがわかった。原因は知っていた。これが、知識の中で聞いた鬼龍の最期の言葉だったから。

 あの時の戦いで、鬼龍は妹を亡くしていた。病気だったらしい。あいつの頬に一筋の涙が伝うのを見て、胸が痛んだ。どうしたって妹には適わなかった。それでもしょうがないと知っていたから、妹が亡くなって良かっただなんて考えは塵ほど無かったのだけれど。

 少し意識をすれば鮮明に思い浮かべられるほんの少しの時間が、脳内でぐるぐるとループして、先程の情景に否が応でも重なる。何がしたいんだ。自分の脳は、海馬は何が目的なんだ。そう考えて歩き始めたところで、ふと思い出した。

 ああ、そうだ。初めて聞いたからだ。妹を待たせている、ならば耳にたこができそうな程聞いた。だが、妹が待っているというのは、自分自身聞いたことがなかった。知識の中の、言葉だけだ。
 知識の中でだって、逝った妹が待っている、の意味で使っていた。
 そう考えた瞬間、ぶわりと厭な汗が全身から噴き出した。ということは、何か、あいつが危ない目に遭うのではないか。つうと背中を汗が伝う。冬だというのに、夏と変わらずに流れ続ける汗に嫌悪感を抱いた。呼吸が荒くなる。急ぎ足になりながら携帯を取り出した。電話をかけるべき相手は、決まっている。

「俺にとって、貴様等は太陽だ。」

 鬼龍ははにかみ乍ら笑った。神崎も頬を染めて居る。其の通りだった。
 元々此れは、鬼龍が巫山戯てか何かは知らないが、此方へ向かって「お前は月みてえだな。何か、一緒に居て安心するっつうかよ」と云った事が始まりだった。其れを聞いた神崎が笑った。だから此方も反射的に然う言葉を発して居た。
 仕合せだった。戦いに身を投じて居ても、ボウフラがうじゃうじゃしている水しか口に出来なくとも、彼の頃は確かに仕合せだったのだ。

「太陽が居なくては、月は光る事が出来ないのだから。」
 更にそう続けた時の、彼奴らの笑顔を忘れる事は無いだろう。此れからも走って行こう。肩を並べて、支え合って。然う話をしたばかりだった。だからこそ、此の様な事が、有って堪るか。

「お前は、俺の事を太陽だと云ったな。」

云った。何時も俺の事を照らして呉れた。其れが俺にとって何れだけ救いに成った事か。

「太陽は、月にとって無くちゃ成らねえ存在だけどよ、近過ぎても駄目何だ。」

何が云いたいんだ、貴様は。

「だから、俺が居なくとも、やって行けるだろう?神崎も、居るんだ。」

 顔が強ばった。眉間に皺が寄るのが分かる。分かっている。鬼龍が考えて居る事は。

「俺が行く。行かなきゃ成らない。」
「……もう、全滅は決まって居ると云うのにか。」
「其れでも行くのが将で、俺だ。」

 下唇を噛んだ。如何にも成らない。鬼龍が行くと云って居る。鬼龍は意志を貫く男だ。其れは俺が一番知って居る。

「悪いな、お前に何時も、迷惑ばっか掛けてよ。」
「ならば偶には自重すべきでは無いのか。」
「今回は、無理だ。悪い。……向こうで、妹が待ってんだ。」
「……俺も、待って居る。此処で。貴様の帰りを。」
「辞めてくれ。俺は人を待たせるよりも待つ方が性に合ってんだ。俺は何時迄も待ってるから。お前は絶対に、ゆっくり来いよ。」
あいしてる。

 然う云った鬼龍は、爽やかな笑みを浮かべて居た。屹度、爽やかな笑顔だ。泪で霞んで見えないが、然う断言出来る。

 次に見たのは、血に塗れた鬼龍の軍帽だった。


「そうか、ありがとう。」
 そう言って電話を切る。「お兄ちゃんと約束をしていない、待ってもいない。」妹は快く教えてくれた。そして疑念は確信に変わる。こうしてはいられない、早く行かなければ。その気持ちだけが自分の中にあった。
 先程から頭の中で流れている映像が、自分の不安を助長させる。
 家に帰ってから、友人の家に行くと伝えた。帰りは遅くなる。もしかしたら泊まりになるかもしれないとも。
 ああ、なんて恐ろしい。鬼龍は今どこで何をしているのだろう。考えたくもなかった。今脳内を占めるのは、血のついた軍帽だけだ。そんなもの見たくもない。考えを振り切るように頭を振った。

 鬼龍を探してどの位経っただろうか。念のため、と武器になるかもしれないものをコンビニで買い、袋を幾重かに重ねる。買ったそれらは、もう大分時間が経っていた。

 空はとうに暗くなっていた。宛は悉く外れ、軽く自棄になりながら電話をかけた。出る訳無いよな、そりゃあ。なんてことを思いながらコール音を聞く。
 そうして暫く待っていると、ぷつりと通話が開始した。ああなんだ。普通に出るじゃないか。ただの俺の、勘違いだったのか。確かに、言い方の違いだけで人の危険が分かるのであれば、警察も苦労はしまい。我ながら随分と知識に囚われていたんだと再認識した。安堵して、それから「すまない鬼龍。」と。そう言った。普段ならばこの時間は風呂から上がり、鬼龍にぽつぽつとラインをする時間だ。恋人なのだから「声が聞きたくなった」と言えば良いだろう。実際、今は鬼龍の声が聞きたくてたまらない。安否確認を一刻も早くしたい。

 けれど、電話口から聞こえた声は、鬼龍の声ではなくて。があん、と頭蓋の中で銅鑼が鳴り響くかのような衝撃だった。

 酸素が肺の中に充満する。今も変わらず口から二酸化炭素は出て、綿菓子のような白い息も出ているのだろうけれども、それが視界に入ってくることは無かった。場所の検討だなんて、付けられるはずもなく。ただひたすらに走り回ることになる。もどかしさを抱きながら「くそ、」とだけこぼして踵を返した。
 瞬間。視界の端になにかが映った気がした。もしかして、あの紅は。素早くスマホを弄りながら凝視する。間違いない。

「鬼龍!」

 声を上げながら駆け寄る。鬼龍を見ると、見たところ怪我を負っているようには見えなかった。良かった。これで鬼龍の顔に傷が付いていたらそれこそ今手に持っているオロナミンCとプリンで作られた簡易ブラックジャックで今ここにいる奴らを顔面整形してしまうかもしれない。

 そんなことを考えていると、リーダーらしき奴に声をかけられた。何なんだこいつ、と思い、皮肉やら何やらを軽く遠まわしに言えば男は「やったあ褒められたぜ俺!」と嬉しそうに後ろを向いた。褒めてない。

 その後、鬼龍に何かぼそぼそと呟いたかと思うと、鬼龍を手下に拘束させ、こちらへと歩み寄ってきた。お? なんだやるのか? 少し楽しくなってくると、鬼龍が言った。

「はってめえら、そんな貧弱なやつ殴って、何がおもしれえんだよ。」

 俺のことを舐めているのか鬼龍は。そう思い少しむっとした。が、鬼龍も俺を想っての発言なのだろう。
 これで鬼龍を殴ろうものなら俺は今度こそこいつの鼻っ柱を折るしかない。そう心に決めた。

「日本人に限らず自己犠牲精神が旺盛な人間のことを心の底から尊敬するよ。」

 そう言って、男はこちらを見遣る。醜悪な笑みを浮かべていた。自分の手でぶん殴ってやろうかと思ったが、なんとかそれをとどめる。今も昔も、厭な人間は居るものなのだな。
 脳裏に写るのは、軍で男のことを貧弱だの虚弱だのと言ってきた上司だ。結局その上司はその場でぶん殴った。歯が数本抜けたらしいが相応の報いである。罪悪感なんてものはほとほと無い。
 記憶の中では、その時代背景もあってか、随分とやんちゃだったらしい。だがそのやんちゃが今役に立とうとしている。

 リーダーらしき男が近寄ってきた。随分と下卑た笑みを浮かべている。嫌悪感を顕にしながら右足を踏み出す。体を少しだけ捻ると、左手に持っている袋ががさりと音を立てた。比較的好みの固めのプリンだったが、きっとこれでてろてろになってしまうだろう。プリンの未来を考えると余計に力が湧いた。

 ごづ、と鈍い音がする。綺麗に入ったためか、目の前の男がまるで瞬間移動のように視界から消えた。足元からうめき声が聞こえる。鬼龍を含む他の奴らからの視線が思い切り体に刺さる。いつも様々な視線を浴びているとはいえ、こういった驚愕の表情を一同がしている場面は少ない。
 少しばかりの優越感に浸りながら渾身のドヤ顔をする。やあい、お前のリーダー、プリンまみれ〜。……だいぶ疲れてきたみたいだ。俺の知りえない言語で何かを訴えかけてきた奴らに、ブラックジャックの中身を伝え安心させる。人畜無害だろう? な? 
 そうこう考えているうちに、鬼龍がこちらへと戻ってきた。

「……お前って、時々恐ろしいことするよな」
「胸骨を狙わなかっただけ良いだろう。」

 そうだ、胸骨をこれで狙っていたらきっと凄まじいことになっていた。惜しい。足元で寝ているリーダーにやってやれば良かった。
 他に喧嘩をする気がある奴がいるか問うてみれば、誰もなんの反応もない。貴様らのその風体はハッタリか?
 本当にハッタリなのかもしれない。リーダーの仇を取ろうとする奴すらもいないので、鬼龍に帰宅を促した。
 ちらりと袋の中を見遣る。ああ、プリンがぐちゃぐちゃになってしまった。と、感慨に浸っていると少し後ろから鬼龍の声が聞こえてきた。

「わりいな、相手してやれなくてよ」

 やだ……俺の恋人……格好良すぎ……。と、現実逃避をしていたのが良くなかったらしい。少し遅い報復だろうか。不良がこちらへと近寄ってきた。仕方が無いな。またブラックジャックの出番か。と手に力を込める。よしやるか。意気込んだ瞬間に、またしても俺は口元に両手を当て感嘆のポーズをした。心の中で。

「小指と親指どっちが良い?」

 そう聞いた鬼龍の声はどこか優美なものを匂わせた。心象を表に出さずに答える。「小指」。瞬間、鬼龍は一人の指を捻りあげた。お見事。流れるような仕草に感嘆の息が漏れる。
 
「これから鬼龍を貴様らの言う遊びに誘うのは無理だぞ。というか、させない。呼び出した瞬間に貴様ら……否、今目の前にいる下賎な輩共が幼気なアイドルに暴力を奮っている映像をすぐさま警察に届け出るからな。それまでに俺自身も身元の特定をできる限りしておくから、まあその、なんだ。要するに豚箱行きだ。楽しみだな。」

 思わず笑みが零れた。何を隠そう胸元にはペン型カメラ、そしてポケットに入っている携帯のボイスレコーダー。こちらで勝手に編集してしまえば良いしな。
 「くそ、」だとか「てめえ覚えておけよ」だとか、舌打ちだとか。在り来りな捨て台詞を残して雑然とした雰囲気で撤退していく。

「……すげえはったりだな。蓮巳の旦那。まあ相手も動揺してたんだろうけどよ」
「……そう思っているのならそれで良いんだがな」
「は?」

 まあ、良いんだそんなことは。どうだって。
 徐に歩を進めると、丁度月が見えていた。ああ、月がある。月の光がある。月を介して届けられる太陽の光を浴びていることに安心感を覚えた。太陽は、俺の太陽はすぐそばにいる。
 いても立ってもいられなかった。

「I should tell you!」

 いきなり言い出したからか、鬼龍が「あ?」と声を漏らす。そうだよな。俺だっていきなりこんなことを言われたら驚くに決まっている。
 違うんだ、鬼龍。これは、前世で関係をおおっぴらにできなかった俺達の、秘密の合言葉なんだ。ある言葉に語感が似てて、それでいて口に出しやすい。貴様に伝えたいことがあるんだ。そう。愛してる。
 困惑している鬼龍を横目に、月を見上げた。

「月は今日も、明日も輝く。今だって、こうして俺達を照らしてる」

 その根幹には、貴様がいるんだ。俺にとっての太陽。

「ずうっと続くんだ。今、それが本当に嬉しくて仕方が無い」

 今日、鬼龍は月が綺麗だと言った。知識の中では、それは俺に対する褒め言葉だった。そう言われた時、俺はいつも答えてたんだ。「貴様のおかげだ」と。
 太陽があるから月は輝く。自分の能力は理解していた。だからこそ輝きを持つ人間のサポートに回っていた。そんな、きらきらと輝いている奴らが、こうして今も、これからも続いていくんだ。こんなに嬉しいことはないだろう。
 鬼龍と視線が交錯する。まるで時間が止まったかのようだった。日が暮れて大分時間が経った今、自分たちを照らすのは微かな街灯と月の光だけだった。


「月が綺麗だな。」貴様のおかげだがな。
「……そうだな。」思わず笑みが零れる。

「本当に」

そうして二人で、月を見上げた。



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