ensemble | ナノ
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机の上には蓮巳の体操服があった。几帳面に畳まれたそれに、天祥院は手を添えた。
何分何秒経ったことだろう。短いようにも長いようにも感じるその間、二人がお互いから視線を外すことは無かった。
「……それは……いや、えぇ……」
「どうして分かってくれないんだ!」
体操服が置かれている机を、力の限りに叩く。だあん、大きな音がした。
その音にびくりと肩を震わせながら「すまんが、どうしても理解出来ん」と呟く。声は震えていた。眼鏡のブリッジを上げる手は不自然な動きをしている。蓮巳敬人は紛れもなく動揺していた。
「いいかい。この世界に敬人という存在があって、そして、消えてなくなっていく。」
沈黙。心做しか蓮巳が距離をとる。
「敬人の使用済み体操服がこの更衣室にあって、そして消えてなくなって、新品の体操服になるんだ。ただ、それだけのことだよ」
「そこなんだが、俺の体操服は消えてなくなっていない。今現在、この部屋、その机の上、貴様の手の下に……下? 貴様! 手をどけないか英智!」
憤慨している様子を隠すことなく叫ぶ。喉がやられてしまいそうだ。どこか他人事のように今の出来事を認識している自分がいて、蓮巳は驚いた。
「どうして敬人は物事を物質的にしか考えられないんだい。“ない”んだよ」
「いや、だが見えてるしな」
「“ない”んだ」
「はあ……」
天祥院は曇りなき眼を輝かせながら力説した。いやそんな力強い目を向けられても、こちらはなんとも言えない。
「僕の家の家訓に、こんな言葉がある。『“物質”とは“遠い景色”だ。どちらも、何もないからこそ目に見える』」
「舐めてるのか貴様」
今の今までそんな家訓、聞いたことすらないぞ。首の後ろがぞわぞわしている。蓮巳は悪寒が走るということを生まれて初めて体験した。
少しずつ距離を取りながら天祥院に声をかける。
「いや、貴様の言ってることは一つひとつだが、何となく、そう、何となくわかるんだ。だが、それとこれとは話が違うんじゃないか……?」
はあ、大きなため息が漏れた。「違わない、何一つ違わないよ敬人」まだわからないのかい。
天祥院の言葉はするりと耳に入るが、噛み砕いて飲み込むまでに時間がかかった。結局味は分からない。
「人間はね、何も克服できないままに消えていくんだよ。君にとっての大豆みたいなものさ。だからね、僕も君への、敬人への欲求を抑えきれないまま──克服出来ないまま消えていく。」
「よっきゅう」
「うんうん。想定外の事態が起こった時の敬人も相変わらず可愛いね。そう。ただ、それだけのことなんだ。それだけのことだよ? それだけのことに対して、なんでそんなに怒っているの?」
怒るも何もない。なんなんだ欲求って。今まで以上に困惑の感情が乗った視線を、天祥院は一身に受け止めた。恍惚の笑みを浮かべている。怖い。蓮巳は思わず口に出した。
「……その、あまり聞きたくはない、というか俺の勘違いであって欲しいんだが、まさか、ちょくちょく俺の指定衣装や靴下とか、し、下着が新しくなっていたのは」
「僕だね」
食い気味の肯定に絶句した。文字の通りに。蓮巳が口を開いて声を出そうにも出ない。
その姿を見て、何を勘違いしたのか天祥院は「料金なら気にしなくて良いよ。win-winだからね」と爽やかな笑みを浮かべながら言った。
ようやっと出た蓮巳の声は色んな感情が凝縮された「怖い」の一言である。濃縮還元された百パーセントオレンジジュースの原液並みだった。
「き、さまも、天祥院家の人間として、重圧があるのだろう……その、人の私物を盗むのはいただけたものではないが、そうならざるを得ない環境に、俺を含めた周りが……追い詰めてしまったんだな。すまない」
天祥院は笑っている。目を細めながら、ひたすらに蓮巳を見つめていた。所在無さげに視線を彷徨わせる蓮巳はその事に気付かない。
「だからせめてこんなことをしている理由を教えてくれないか。気に触ることがあるなら言ってほしい。俺も、極力直す努力をしよう」
目が合った。普段からは想像出来ないような蓮巳の表情に天祥院の目は一層細められる。かと思えば、ついと視線を逸らし、一つため息を吐く。随分と大仰だった。
「敬人もそうやって、僕のことを天祥院の人間だと言うんだね」
「っ」
「肩書きという浅はかな価値観で、人間を、僕を縛るのはやめてくれないかな」
「すまん、そんなつもりは」
「僕の家の、天祥院家の家訓にこんな言葉がある」
「家訓ってそんなあるものなのか」
真顔でツッコミをする蓮巳を気にかけることもなく天祥院は窓の桟から背を離した。外へ体を向ける。
「『“肩書き”とは“部分的なピノキオ”だ。どちらも“肩書き”……“肩が、木”』」
「舐めてるのか貴様」
二回目である。蓮巳の表情から困惑の色が抜けることは無い。
「権力なんて、つまらないエゴイズムだよ。……分かって、くれるよね?」
「……ああ」気の乗らなそうな返事だ。「本当に?」「あ、ああ……」つう、と背中を汗が伝ったような気がした。ぞわりとした粟立つ感覚に眉を顰める。
「流石だよ敬人。なら改めて聞こう。君の私物を新品に取り替えたこと、許してくれるね?」
どうしてそれで許されると思ったんだ。思わず頭に手を添えた。頭痛が痛い。蓮巳の私物を新品に取り替えた。字面だけ見れば良いことをしているような気がする。これは悪いことではないのだろうか。蓮巳は混乱していた。
「分かってくれないの?」
「す、すま……って何故俺が謝らなければならないんだ!」
「敬人は怒りんぼさんだなあ。良いじゃないか。新品になってるんだから。指定衣装の数着や下着の一枚や十枚くらい」
「じゅっ」
知らぬ間に、どれだけのことが起きていたんだ。己の注意力が散漫だったのだろうか。蓮巳は目の前が真っ白になった感覚に陥った。俺の私物、英智の家にいくつくらいあるのだろう。考えたくない。
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