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 蓮巳はため息を吐いた。天祥院はじ、と蓮巳を見つめている。

「鉛筆も、ノートも、使い切ったことがないまま、どこかへなくしてしまった。中学高校と、六年間学んできたことを、全ては覚えていない。……読めることは出来ても、書けない漢字が、たくさんある。」

 二人の距離は変わらない。蓮巳は変わらず言葉を続けた。
 「知っているはずなのに、どちらが右で、左なのかを、時々、そう、時々考えてしまうことがある。全部……貴様の言うとおりだ」
 無言。蓮巳はここでようやく天祥院に目を向けた。二人の視線が交錯する。「いつかは」蓮巳がぽつりと零した。

「いつかは克服できるだろうと思っていることを、克服できないまま、俺は消えてなくなっていくのだろうか……」

 視線をついと自らの手に向ける。目を伏せた天祥院は窓際に行った。風が頬を撫ぜる。

「僕の家に、こんな家訓がある。──『“学習”とは“愚かなギャンブラー”だ。どちらも最後は、すべてを失う』」

 なんだその家訓。蓮巳は眉間に皺を寄せた。全てを失う、だと? むっとした表情を見せる蓮巳に、天祥院はほんの少しだけ口角を上げる。その表情にすら、苛立ちを感じた。蓮巳は口を開く。

「しかしだな、人生を豊かにするために、学習することは」
「身の程をわきまえなよ」
「ッ」

 鋭い声が部屋の中に響いた。こんなにも厳しい、張り詰めたような声を聞くのは久しぶりだった。英智、唇だけがその言葉をかたどっていた。窓の桟に僅かばかり体重を預ける天祥院の目は、変わらず蓮巳を捉えている。

「この世界にある長い長い時間の中で。今までいなかった君という存在が現れて、今、僕の目の前にいて、そしてまた……いなくなっていく。まあ、僕の方が早くいなくなるだろうけどね」
「……」
「なにもなかったかのように、完全に消えるんだ。僕を含め、人間の存在とは、ただ、それだけのことなんだよ」

 まるで芸術品のような笑みだった。儚げな雰囲気のそれに、蓮巳の眼光が余計鋭くなる。歯を噛み締める音が聞こえるようだ。

「だったら!」
「悔いのないように生きる──かい?」

 蓮巳の言葉は、天祥院の冷たい声色に遮られた。──消えてなくなれば、その“悔い”を感じる君自身が存在しなくなるんだよ。先刻の冷たい声とは違う、諭すような、優しい声だった。部屋の中に風が流れ込む。爽やかな流れだ。

「この広い広い宇宙の中で、敬人の存在など、もはや“ない”んだ」
「……理解、しがたいな」

 いや、もはや恐ろしいのかもしれない。天祥院の耳にかろうじて留まった言葉は、普段の蓮巳からは感じられない弱々しいものだった。
 一転、天祥院の雰囲気が変わる。蓮巳は思わず後退りをした。なんだ、あいつは。なんで。

「申し訳ないけど、今は君の感情を察してあげられないよ。怖いのかもしれないけれどね、理解、するんだ」

 沈黙がその場を包み込む。随分と放恣なことだ。ひとつ深呼吸をする。息を止めた。瞳を閉じて、緩慢に開ける。

「……わかった」

 蓮巳の視線は天祥院に向けられている。天祥院はそれを受け止めていた。「本当かい?」「本当だ」「本当だね?」「ああ、本当だ」
 すらすらと禅問答のようなやり取りをして、そしてまた沈黙が二人の間に落ちる。

「なら、改めて聞くよ」

 蓮巳は何も言わない。天祥院は頷いて、ついと視線を逸らしある物をみた。

「僕が、君の使用済み体操服を無断で持ち帰ろうとしたことを、許すね?」


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