ensemble | ナノ
4
あれから、幾許かの暇を見つけてはあの教室に行くようになっていた。あの時と同じ扉に背を向けて座り込む。暫くの間そうしていると、時折あいつが話しかけてくるのだ。
「最近寒くなってきたな」
「そうだな。喉の乾燥と風邪には気を付けろよ」
二言三言で終わることもあれば、十数分も話す時もある。どれほど話すのかは、まちまちだった。
不思議なことに、教室から出るときに鉢合わせにはならない。向こうが気をつかっているのか、はたまた本当に偶然なのか。あの時以来、声以外を交えたことは無かった。それがなんだかもどかしくもむず痒くもあった。けれど、その距離が心地よくもある。と、いうよりかは、その距離感だからこそ今もこうして扉越しでも話を続けているのだろう。
「なあ、蓮巳」
「なんだ」
「お前、俺のことをどう思ってる?」
まるで「今日の夕飯何?」とでも聞くような軽い言い方だった。声の調子と内容にあまりにも差がありすぎる。何と返せば良いのか分からなくて「あー」だの「ええと」だの、自分らしからぬ言葉を沢山発していた。
「それは、アイドルとしてか?」
至極ありきたりな返答だった。否、こうとしか返せなかった。心の臓が煩いくらいに脈打っている。これ以上、自分に期待をさせないで欲しかった。あのとき――鬼龍と日々樹の会話のことだ――を思い出す。あの言葉は本当だったんだろうか。
「いいや、そうだな。人間として。――恋愛対象として」
どきりとした。
恋愛対象という言葉に、思わず顔が赤くなる。薄々感じていた、いや。淡い淡い希望のような、こうだったら良いな、というお願いに似た何かが心の内で膨らんでいく。
万が一、お互いに好いていたら――?
「好きだ」
声は聞こえただろうか。
「貴様のことが」
好きだ。二度目に言おうとしたその単語は、らしくもない足音にかき消される。「おい!」と声を出しても、その音は変わらずに廊下を走り、そして遠くなっていった。廊下を走るんじゃない、と呟くと扉を開ける。
今までここにいて、話をしていたのかと思うと感慨深かった。けれど今はそんな場合ではない。はやく、はやく追いかけなければ。
「っくそ、」
こちらの方へ来ていたと思ったのに、一体どこへ行ったのだろう。B組の教室に向かうと、人影を見つけた。
「……日々樹」
「おや、何かありましたか?」
「探している奴がいてな」
「……? ああ! 彼なら今さっきこの廊下を走って――」
そうして、日々樹が廊下の先をついと指差す。
瞬間的に、鬼龍と日々樹の会話が脳裏に浮かんだ。ああ、嗚呼。こいつは、日々樹は。こんなにも不器用なのか。自然と口角があがる。日々樹の顔に目をやると、些か慌てているように見えた。
「日々樹」と名前を呼びながら、廊下の先を指していた指に触れる。日々樹のポケットの中から、白い手袋を取り出した。
「……日々樹」。また名前を呼びながら、手袋を日々樹の手にはめる。そのまま日々樹の手を自分の目元へ持っていった。
「俺は日々樹渉が好きだ」
日々樹の手をなぞる。布越しの暖かさは、あの時のものと同じか、いや。前よりも少しだけ暖かいような気がする。
「貴様はどうだ?」
手はそのままに問いかけた。表情は見えない。ただ布越しの暖かさだけが目の前の人間が日々樹渉ということを証明している。
「敬人は、本当に私が好きなんですか?」
珍しく震えていた。その声に思わず苦笑する。
「勿論だ。さっき言っただろう?」
扉越しの告白はノーカウントか? そう付け加えると、目元から日々樹の手が外された。世界が明るい。
「敬人、好きです。愛しています」
「ああ」
「声を、偽って話していたことを許してください」
「勿論だ」
手を握られる。ぎゅうと握られて痛いくらいだった。よくよく見ると耳まで赤いではないか。
あの時に、気付いていない訳がないだろう。
「俺が好きなのは、好意を抱いているのは日々樹だけだ。鬼龍のことは好きだけれど、それは仕事仲間としてであって、恋慕ではない」
「……はい」
「好きなやつの香りがしたんだ。あの時、キスをされた時。すぐにわかった」
「……そう、ですか」
表情が見えない。こんな状況を英智や北斗がみたら騒ぎになりそうだ。と、どこか他人行儀に考える。
ゆるゆると日々樹が顔を上げたとき、薄く膜が張っているように見える瞳を見つめた。なんて愛しいのだろう。笑みが零れる。視界が滲む。
「……貴様の愛で目を塞いで。周りが見えなくなるくらいの愛をおれに」
「も、ちろん、勿論です!」
あの時のように。あの、扉の向こうから声をかけた時のように。
「もう一度、キスをして」
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