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「……蓮巳か?」

 声がした。思わず肩をびくりとさせて後ろを振り向く。扉だ。この声は、扉の向こうからか。
「そうだが、何の用だ」
 動揺は隠せているだろうか。声は震えていないだろうか。ばくばくと心臓の音が体全体に響くような感覚に蝕まれる。

「……開けない方が良いか。」

 戸惑ったような声が聞こえた。ああそうしてくれ。今の状態を見られたくない。そして今、扉の向こう側にいる奴の顔も見たくない。見たら、いつものように振る舞えるかわからない。

「何の用だ。」
「いや、荷物はあんのに、どこにもいねえから。心配になって。」

 体が跳ねる。
 今、扉の向こう側にいる奴が、自分のことを考えていて、気にかけているのだと思うとどうにかなってしまいそうだ。
 自分の心の中で好きだとか嫌いだとか色々な感情が一緒くたになって、その混沌でいっぱいに埋め尽くされる。その感情は今つう、と頬を伝っていた。
涙が止まる気配は無かった。何故自分は涙を流しているのか、よくわからない。
 先刻、垣間見た鬼龍と日々樹の会話が脳内で何度も何度も響く。テレビのアナログ放送のようなノイズと砂嵐に塗れながらも、自分が見た情景を映し出すそれは鮮明だった。
 白い手袋、高らかな笑い声、鬼龍の不敵な笑み。たまたま見てしまった、聞いてしまった内容に度肝を抜かれたのは仕方がないだろう。
 感情の動揺と昂りは、普段ならば説教をするであろう自分の行動や思考すらも覆して、こんな空き教室に飛び込む形となって表された。

「泣いてんのか?」
「な、いていない」

 平時のように話すことが出来なかった。そのことを認識した瞬間に、ぶわりと涙の量が増える。嗚咽を堪えることが出来ない。
 「おい、大丈夫か」ほんの少しだけ慌てたような声色に、思わず笑みがこぼれた。泣きながら笑っている自分はどうにも滑稽で、ふと心のどこかで、こうやって心配されていることを嬉しく思って、また笑った。

「なんで泣いてんだ、」

 本当にその通りだ。何故泣いているのか自分でもわかっていない。わからない、とどうにか声にしたが、通じたかも定かでない。
 それから何秒経っただろうか。いや、もしかしたら秒ではなく分という単位なのかもしれないし、刹那だったのかもしれない。
 時間が綯交ぜになって、自分がどこかわからない隙間に置いていかれたのでないかと錯覚するほどだった。それほどまでに長いと感じる時間、どちらも声を発する事は無かった。

 静寂を破ったのは自分だった。
 ふと思い出したのだ。先程の鬼龍と日々樹の会話を。思い出して行くにつれて、顔が熱くなっていく。ああ、なんで思い出してしまったんだ自分。くそ、ああそうだよ。俺は、蓮巳敬人はお前のことが。

「好きだ。」

 そう呟いた瞬間、後ろから扉を開く音がした。
 音に反応して振り返る。「なぜ開けた」そう言おうとした瞬間、目の前が真っ暗になった。そして感じるのは、布越しの温もり。手袋か、これは。肌触りの良い布に、まるで自分が幼い頃親に抱かれたかのような錯覚をした。ああ、あたたかい。

 そっと、自分の目を覆う手袋に触れた。動揺したのか、その手が強ばるのがわかる。もしかしたらこいつ自身何故扉を開けたのか分かっていないのかもしれない。ひゅ、と息を呑む音が聞こえた。その音で確信する。
 嗚呼、本当に分かっていないのか。最早そのことすら愛おしかった。布越しに伝わる体温は、先程までと変わらずにその温度を保っている。上質なそれを、指の先でするりとなぞった。

「蓮巳」

 その声には、色が乗っていた。背中の産毛が粟立つような、妖艶な声。そしてそれは自分が想像していた距離よりも遥か近いところで発せられた。
 微かなリップ音が鼓膜を揺らす。
 鼻腔を擽る花のような芳しい香りに、お互いに肌が触れ合える程の近さであるために感じる、体温。
口の中では、ふんわりとした蜂蜜のような風味が、まるで今の行為を体に染み込ませるかのように主張する。
 今、目の前の男はどんな表情をしているのだろう。目は潤んでいるのだろうか、それとも常のような笑みを浮かべているのだろうか。想像が頭の中を巡る。
 触覚で、聴覚で、嗅覚で、味覚で。更には今塞がれている視覚すら。五感の全てを使って、その行為を噛み砕く。
 噛み砕いて、いつか体へ吸収されるだろう様々な情報は、まるで当たり前かのように自分の体へ受け入れられた。
 ああ、やはり。

 俺はこの男が、好きだ。

 す、と温かさが遠ざかるのが分かった。「……すまねえ、」そう言って、目に添えられた手はそのままに、体の向きを変えられる。

「このことは、無かったことにしてくれないか。」

 その声はあまりにも寂しげだった。こんなにも温かい手なのに、優しい手なのに。まるで声と手の持ち主は違う人間なのかと思ってしまう程、冷たさを纏った声色だった。
 こちらの返事を聞く前に、目元から手が離れていく。それでも瞼は閉じたままでいた。あいつと自分の間に、ふわりと風が吹き抜けるのがわかった。
人が動くことで生まれる、僅かな空気の流れを感じる。
 がらり、と扉特有のキャスターの転がる音が聞こえた。扉が閉まる。
 扉の向こうから足音は聞こえてこなかった。もしかしたらまだ扉の向こうにいるのかもしれないし、足音を立てずに立ち去ったのかもしれない。

 それを、明らかにはしなかった。
 息をついて、その場に座り込む。顔が熱い。この熱が、あの布越しに伝わってはいなかったろうか。

 今になって、また先刻の鬼龍と日々樹の会話を思い出す。はじめ耳にした言葉の応酬は、理解しがたいものではあったけれど、それでも、頭から離れないほどに印象に残っているのだ。ただ、ただひたすらに。

「嬉しかった。」

 俺のことを好きだと言った、あいつの言葉が。


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