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蓮巳敬人のあれやそれ
にゃあ。
足元から可愛らしい声がした。それと同時に、何かを押し付けられるような感覚に足が襲われる。
なるほどな、これがあいつらの言ってたやつか。
衣更真緒の場合
最近、学院に猫が迷い込んできたらしい。実際にこの目で見たのは今日が初めてだった。黒というか茶色というか、形容し難い色をした子猫。人懐っこいのだろう。先程から足にすりすりと頭を擦り付けてくる。
逃げる素振りも見せないので思う存分頭を撫でる。挙句の果てに喉まで鳴らし始めた猫を見て、よくここまで野生で生きてこられたな。とも思った。
「おい」と後ろの方から声が聞こえた。この声は、もしかして。「いないのか」また聞こえる。よもや自分を探しているのではあるまいな。とも思ったが、どうやらそれは杞憂だったらしい。
声に反応してか、猫が俊敏な動きで声の主の元へ行く。
「なんだ、いたのか」
安堵するような声色だった。
「おい、やめろ。制服に毛がつく。」
ああ、とんでもない場面に遭遇してしまったかもしれない。
「全く……よくここまで野生で生きてこられたな。」
副会長、猫が好きなのか。
「ねえねえあの猫さ! チョコっていう名前なんだって!」
「そうなのか?」
「確かに、ミルクチョコレートとビターチョコレートを半分ぐらい混ぜて終わりにしたみたいな色してるもんね!」
「そういえば、チョコあげてる子がいたなぁ。ネクタイが一年生カラーだったと思うんだけど……」
「明星、それは本当か?」
「ええっ、疑うのホッケ〜!」
「そういう訳じゃない。知らないのか? おばあちゃんが言っていた。猫にチョコレートを食べさせてはいけないんだ。」
そっと物陰から覗いてみると、どうやらキャットフードか何かをあげているらしい。副会長は近くに座ってそれをじっと見ていた。
食べ終えたのか腹が膨れたのか、子猫はすいと顔をあげた。微動だにしない。
それを見て、副会長が目を見開いた。
刹那、子猫の苦しげな声が聞こえた。否、正確には声ではなく、吐いたときに喉から出る生理的なものだろうか。
「……どうして、」
副会長の声が耳に留まる。今まで聞いたことの無いような、動揺と悲哀をごちゃまぜにしたような声だった。
ここからずっと覗くわけにはいかない。物陰から飛び出した。猫が苦しんでいるのを放っておける程自分は野暮じゃない。それくらい知ってる。
「副会長!」
「衣更か。」
「あの、その猫、」
「……ああ」
副会長が立ち上がったかと思うと、おもむろに猫の首を摘み上げた。
子猫は痙攣している。「どうするんですか、そいつ」副会長は何も言わなかった。
制服に毛がつくこと、更に吐瀉物がつくことすら厭わず子猫を抱き抱えると、副会長は迷わず歩みを進める。先刻の副会長の言葉を思い出した。胸が痛む。どこへ行くのだろう。
予鈴が鳴った。昼休みが終わる。「副会長!」まるで聞こえていないかのように、副会長は只管歩いていた。
「ここって……」
行き着いた先はプールだった。この時期だからか、コケだらけ藻だらけでグロテスクな緑色をしている。お世辞にも綺麗とは言えない場所だ。まるで、人間の心に潜む闇を具現化したかのような。
それにしても、
「あの副会長が不法侵入するだなんて……」
「煩いぞ衣更。」
「あ、す、すみません」
プールサイドに立った。何をするんだろう。まず子猫をどうにかすることが先決なんじゃないのか?
心の中でもやもやと、答えの出ない自問を繰り返す。
顎に手を添え、どうすればよいのか考えた。しかしそんなことは副会長の行動を見て、見事に消え去る。
「ちょ、待ってください!病院に」
じゃぼん。水飛沫が上がった。状況の理解が、できない。
喉の奥から絞り出すような鳴き声が耳を劈く。じゃぼじゃぼと、まるで蟻地獄に吸い込まれる蟻のような抵抗をする子猫が目に入る。聞いていたくない。見ていたくない。思わず耳を塞いで、目を逸らした。暫くしてから恐る恐る顔をあげ、目を開く。副会長がブレザーを脱いで腕にかけていた。振り返ってこちらを見る。少しだけ、眉間に皺が寄っていた。
「……この近くに動物病院は無い。」
「……はい」
「あの様子では、助かる見込みも無かった。」
「……」
何も返せない。
何秒、何分経っただろう。プールからは何の音もしなくなった。子猫が最期に残した波紋だけが広がり、その存在を証明してくる。
「吐いたものを見るに、チョコレート、それから多分玉ねぎもあったな。もしかしたら他にもなにか食べさせていたかもしれない」
ぽつりぽつりと、普段からは想像もできないような喋り方だった。大切なものを一つ一つ丁寧に転がして、底のない沼にそっと沈ませるような、そんな感覚に囚われる。
「俺が勝手に埋めても、納得しない奴も出てくるだろう。もしかしたら、自分がチョコレートやら何やらをあげたことに気が付いて、自己嫌悪に陥る奴もいるかもしれない。」
「こいつは変なものを食べたせいで死んだんじゃない。誰のせいでもない。強いて言うなら、ここでどうにかして生かしてやることのできなかった俺のせいだ。」
「だから、こいつは。『誤ってプールに落ちて、溺死してしまった』んだ。」
凛とした声だった。
何もすることのできない俺に、なぜついてきたんだ。とでも言わんばかりの声色だった。きっと、俺が付いていかなければ、副会長はこれを一人で抱え込むつもりだったのだろう。
副会長が猫を投げ入れる瞬間が、瞼の裏に張り付いて離れない。
治まらない痙攣、運んでいる時にまた吐いたのかもしれない。口の周りは汚れていた。
両手で、まるで包み込むかのように子猫を持って。横顔が見えた。一瞬止まって、深呼吸をしていた。形の整った唇はこれでもかと言う程歪められていた。ぐ、と体を捻らせて、反動をつけると、また一瞬止まった。狼狽えているかのように見えた。ぎりりと音が聞こえるくらい歯を食いしばって、そのすぐあとだった。じゃぼん。俺の、病院へ、と言う台詞は遮られる。
副会長はどんな思いでそれを行なったんだろう。
子猫は副会長の声に反応して出ていった。
子猫が出てきて副会長が発したのは安堵したかのような声で、だって、今まで聞いたことのない声で、それで、
「……別に、広めても構わない。」
「え、」
「『蓮巳がやった。』『まるで鬼のような奴だ』何と言っても良い。俺が殺したのは事実だ。まだ息がある猫を、プールに投げ入れたのはこの俺なのだから。」
「そんなこと、する訳ないじゃないですか……」
ああなんて情けない! 声が震える。汗が頬を伝う。副会長と目を合わせることができない。副会長はきっと目を逸らしていない。俺の方を見てる。視線が刺さる。
「……俺は、兄に同じことをさせた。」
「お兄さん、ですか」目は合わせない。否。合わせられない。
「ああ。最近になって漸く気付いた。きっと兄も同じような、いや、これ以上に悲しい感情を抱いていただろう。それをひた隠しにして」
止まった。いくら待ってもそれから先の言葉が発せられることはなかった。
副会長は、深く深く息を吐いて、少しだけ呼吸を止めた。見なくともそれはわかった。意を決して副会長の目を見る。顔を、表情を視覚で捉える。
眉が歪んだ。何か言いたいのか。口が開く。その口は何も機能することなくまた閉じられる。「忘れろ、衣更。」不意に言葉が落ちた。……忘れられる訳が無い。
「さて、途中から授業に参加する、というのは些か面倒だ。このままばっくれてしまおう。……俺は、図書室にでも行くとしよう。」
そう言って、そのまますたすたとプールサイドを後にする。フェンスを揺らす音が虚しく響く。
「ああ、そうだ衣更。子猫を探すやつを見つけたら、それとなくここに誘導してやってくれ。そのままではそいつが」
報われない。
そう言われて、返事をすることすら忘れてプールの水面を見る。
子猫の遺した波紋はもう、少しばかりのものになっていた。
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