ensemble | ナノ
「あか」とは何か
 俺は入学してから二回だけ、人前で泣いたことがある。忘れようにも忘れられない、あれは、色々な意味で衝撃的な数日間だった。

「ちぇすと……!」

 その声を聞いて振り返った時にはもう遅かった。元来運動のできない俺が、神崎渾身のひと振りを避けられる訳もない。
 後ろに倒れ込みながら、咄嗟に、手の甲と額があたるような形で左手を出した。

 暫くして目を開けてみると、神崎が、あの神崎がだ。刀から手を離し、目を見開いている。
 かしゃあんと音を立てて刀が床に落ちる。
 意外と音が軽いな、もしかしたら俺にも振れるかもしれない。いや無理だ。諦めろ敬人。
 でも、神崎は刀をとても大切にしていたのに。だのに落としてしまうだなんて、そんな。

「おい神崎、貴様、刀を……」
「はっ、蓮巳殿! 我は、われはなんてこと、を、」
「蓮巳!」

 鬼龍の慌てたような声がした。
 何故こいつらはこんなにも慌てているのだろうか。少なくとも今まで鬼龍のこんな表情を見たことが無かった。珍しいな。
 なんてことを考えていると左手に、ぴり、とした感覚を感じた。それと同時に、何かが腕を伝う。

「うお、」

 不思議に思い腕を見てみれば、手首から流れ出る鮮血。血が出ているのか、と意識した瞬間、手首が今までと比べ物にならない程の痛みを訴えてきた。
 よくよく見てみれば、服にも血がぼだぼだと垂れている。

「蓮巳、歩けるか? 歩けるようなら保健室に……」
「大事無い。神崎、血曇りができたらすまないな。」

 立ち上がり、改めて左手を見た。じ、と見つめていると、いきなり。本当にいきなりだ。
 比喩ではなく、世界が開かれたように感じた。今まで白黒だった世界が、手首から流れる血の赤を起点として、そこから色が付き、広がっていくような、そんな感覚。
 こんな感覚に襲われたのは初めてだった。

「おい?」
「蓮巳殿っ!」
「……は?」

 俺は泣いていた。痛みからではない。
 目の前で俺を心配している二人は痛いから泣いたとでも思ったのだろう。確かに痛みは酷いがこんなことでは泣かん。俺を誰だと思っているんだ。
 ぶつくさと呟きたくなる台詞をどうにかして飲み込んで「保健室へ行ってくる」と言った。
 瞬間、視界が歪む。血が流れすぎたのだろうか。目が霞んでいる。前が良く見えない。

「ったく、俺が支えてやる。神崎はタオル持って来い。」
「き、鬼龍殿。であれば、我が蓮巳殿を姫抱きして行こう」
「それだけはやめろ……」
「だとよ」
「……相分かった」

 ふざけるなよ神崎。俺よりも身長の低い貴様に誰が姫抱きなどされるか。だったら鬼龍に頼んだ方が余程安心感がある。

「……ふらふらする」
「切った場所も場所だしな。こんだけの血ぃ出てるとまるで自傷行為みてえだ。」
「俺が、そんなこと……」
「あいよ。やんねえよな。知ってる知ってる。だからもう喋んじゃねえよ」

 返事が投げやりにも程がある。怪我人相手に酷い人間だ鬼龍紅郎。
 覚束無い足取りの俺の腕が、鬼龍の首に回される。よもやこんなことがあろうとはな。人生何が起こるかわかったものじゃない。
 取り敢えず帰ってきたら、いの一番に神崎に説教だ。覚えておけよ貴様。
 そんな意味を込めて神崎を見遣るが、神崎の様子を見るに残念ながら俺の思いは届いていないらしい。届く届かないに関わらず説教することに変わりはないがな。

 ぐわんぐわんとまるで銅羅が頭の中で鳴り響いているかのような錯覚に囚われながら、回らない頭を必死に回す。
 先刻の俺は何故泣いたのか。答えは、意外にもすんなりと出た。
 きっと、気付いてしまったからだ。悲しいことに。嫌われたくないことに。そしてなにより、随分と無理をしていたことに。

 本当はずっと前からああしたかったのかもしれない。そうして、自らの血を見て、精神に安寧をもたらしたかったのではないだろうか。
 そうやって考えると、あながち鬼龍の言う自傷行為に例えることは間違っていないと思った。かなしい、な。

「うわっ、何したんだお前ら」

 軽い口を叩きながらも、佐賀美先生は深刻そうだった。
 これはそんなに酷い傷なのか。もし跡が残ってしまったらと考えると背筋がぞっとする。
 手首を抑えていたタオルはもう真っ赤になっていた。度し難い。

「応急処置はするけどな……正直、ここまで切れてると跡が残る可能性がある。医者に行って、きちんと処置をしてもらった方が良いだろう。」
「知り合いに医者が居ます。その方に診てくださるようお願いしてみます。」
「ん。」

 スマホを取り出し、連絡先を探す。目当てのものを見つけ、迷わず通話ボタンをタップした。
処置をしてもらったとはいえ、完全に痛みが消えている訳ではない。少し──正直に言うと尋常じゃない程──痛いが、こんなことで根を上げていてはいけない。
 さっさと業務的な連絡だけを済ませ、通話を終了する。

「今すぐに行けば問題無いそうです。申し訳ありませんがここで失礼します。」
「送って行こうか?」

 佐賀美先生が言った。先生。先生の運転する車に乗ったら俺の命が危ないだろう。俺はまだ死にたくない。

「遠慮しておきます。ここから近いので、何ら問題はありません」

 「失礼しました。」とだけ言って、蓮巳は早々と保健室を後にした。ついさっきまでの状況を知っているためか、鬼龍がそわそわと落ち着き無くその様子を見守っていた。
 送った方が良いのでは? いやしかし蓮巳のやつはそういったことを嫌う。だが今の今まで血が足りなくて顔面蒼白だった奴を一人で行かせるのは……。鬼龍の頭の中を言葉で表すのなら、カオス。その一言である。

「鬼龍、」

 佐賀美がふ、と声を漏らす。まるで独り言の様な囁きに、鬼龍は顔を顰めながら答えた。

「何です?」
「あれ、リスカか?」

 矢張りそう見えるのか。面倒だな、ここに来る途中でも何人かの生徒に見られていた。噂が広まるのは早い。誤解を解くのに苦労しそうだ。そんな様々な意味を込め、鬼龍は深い溜め息を吐いた。

「いえ、違いますよ。神崎の」
「神崎って、あの神崎か……」
「はい。そいつと、ちょっと事故っつうか、なんつうか、まあ、色々ありまして。」
「なんか、大変だな。紅月も」
「はあ」

 沈黙が続く。元々あまり話をしない人間だ。そんな人間が二人集まったらどうなるかはわかりきっている。
 何とも言えない気まずい沈黙の中、はっきりとしているのは鬼龍の「帰りたい」という願望だけだった。
 本人は必死に隠しているつもりなのだろうが思いっきり態度に出ている。

 暫くしてから、まるで、降参だ。とでも言うように佐賀美が肩を竦めた。いきなり目の前の男は何をしてるんだ。どこのアメリカ人だ。またしても鬼龍の考えはダダ漏れだった。

「まあ、良いだろ。うん。俺もなんか面倒になってきた。鬼龍、なんだか呼び止めたみたいで悪かったな。お前もまだ、仕事が残っているだろう?」
「はあ、ありがとうございます」

 鬼龍は適当な返事をして椅子から腰を上げる。
やっと帰れる。気まずかった。開放感により滲み出る嬉しさを隠そうともせず、鬼龍はせかせかと椅子を片付ける。
 明日、何も無いと良いんだけどな。
 一瞬だけ頭に浮かんだ小さな願いは、鬼龍の口の中で溶けた。

「oh my gash! その手首、どうさなったのですか!」
「これのことか? いや、特に何も……」
「……何か、あったらいつでもご相談に乗りますよ?ね?」
「all right! 勿論です!」
「は?」

「敬人、いつも頼ってばかりでごめん。まさかそんなに君を追い詰めていたなんて……。これからはきちんと仕事するよ」
「……は?」

 なんなんだ朝から。弓道部の後輩2人に変なことを言われ、今まさに英智が変なことを言った。
まあ仕事をきちんとやると言うのは良いことだ。が。何故だかクラス全体がよそよそしい気がする。何故だ。

 悶々としながら廊下を歩く。今ごちゃごちゃと考えていても仕方がない。ある程度割り切って、取り敢えずは診断結果を報告するために保健室に向かった。否、向かいたかった。

「蓮巳殿っ!」
「ぐふぇ」

 何を隠そう今俺に抱きついている神崎によって、俺の行く手は阻まれたのだ。許さん。

「神崎、」
「おはようである蓮巳殿! 体の方は如何か! 無事か!」
「今、貴様に、殺されそ、だ」

 首が絞まっている。もう一度言おう。首が、絞まっている。俺が死にかけていることにようやっと気付いたのか、首だけは開放された。何故首しか開放しないんだ神崎。
 出会い頭に飛びかかられて尚且つ首を絞められるなど初めての体験だ。死ぬかと思った。

「蓮巳殿! 手首の方は……」
「ああ、大事無い。何針か縫ったがな。腕の良い先生だから、縫合跡は残らないだろうとのことだ。」
「、」

 ふ、と神崎の腕の力が弱まる。やっと開放されたかと思えば、神崎はいつの間にやら床に頭を擦り付けていた。

「貴様、何をしている! 早く顔を上げろ! これではまるで、俺が無理矢理土下座を」
 させているみたいじゃないか。

 言おうとしたその言葉が出てくることはなかった。被せるような神崎の叫び声に、柄にも無く気圧されてしまったからだ。

「我の命を以て償いとさせて頂こう!」
「ばかか」
「あいたっ」

 ぱちん、良い音が鳴った。
 しかし体力馬鹿というのは頭も硬いものなしのか? 俺の掌がもげるかと思った。

「酷いである蓮巳殿……」
「五月蝿い。貴様は謝罪と切腹をすぐイコールで結びつけるのをやめろ。即刻にだ。」
「解せぬ」
「解せよ」

 俺が叩いた箇所を手で抑えながら、神崎は呻いた。今日何度目やも知れぬ溜め息を吐いて、保健室への道を急ぐ。神崎は放置した。にも関わらずついてくるものだから一言「ハウスだ、神崎。」とだけ言っておいた。言ったら本当に大人しくなったので、これからも使おうと思う。
 さて、後の問題は。

「彼奴等をどうするか、だな。」

 ああ、考えるだけで頭が痛い。
 どうやら、数人程の生徒達が階段の踊り場にたむろしているらしく、潜めようともしない話し声が否応無しに俺の耳に入ってきた。度し難い。
 生徒会に大分恨みつらみが募っているのか、ちょくちょく俺の名前も聞こえてくる。

「そういや、蓮巳の奴、昨日自殺未遂したらしいぜ?」
「まじかよ」

 そんなことしてたまるか。思わず地団駄を踏みそうになった。もしや、周りの奴らの奇っ怪な行動はそれが原因か。
 ……成る程な。兎も角、これ以上ここにいるわけにはいかない。ここにいたら、きっと血管がぶち切れる。
 違う階段から行こう。そう思い踵を返そうとした刹那。
 一瞬だけ、周りからの音がまるで遮断されたかのように無くなった。そして、階段にいるであろう男子生徒一人の、ある一言だけが、まるで空間から切り出されたようにぽつりと、しかしはっきり聞こえた。

「どうせなら、ねば良かったのに。」

 どくん、
 胸が脈打つ。鼓動が早い。自然と息があがり、肩が上下し始めた。なんだ、これは。

 ねば良かったのに。ねば良かったのに。
 先刻の言葉だけが延々と脳内で再生される。

 自分で、意識はしていた。嫌われているのだろうと。疎まれているのだろうと。
 けど、きっと心の奥ではそのことを認めたくなくて、否、誰かが必要としてくれる筈だと信じていたくて。

「は、はっ……!」

 廊下を走る。誰かとすれ違った。すれ違いざまに肩が当たった。蚊の鳴くような声で「すまない」とだけ伝えて、そのまま、また走り出す。相手の顔は見ていなかった。そんな余裕は、無かった。
 ああ、おれは、必要とされていないのか。
 自然と足はある部屋に向かっていた。紅月がよくレッスンで使っている部屋だ。
 だったら、昨日、あのままんでしまえば良かったのか。
 そうか、それも、良いのかもしれない。
 今だって世界に色は付いていない。それならば。ぬ間際にまた、世界に色が付くのを見られるのなら、別に。

 きょろきょろと辺りを見廻す。当たり前だが神崎の刀は無かった。
 何か代わりになるようなものはないだろうか。
ふ、と見ると、部屋の隅に筆箱がある。ああ、ないと思ったらこんなところに。中からカッターを取り出して、ちきちきと音を立てながら刃を出す。

 手首の包帯を解いた。縫ったばかりのグロテスクな傷口が目に飛び込んでくる。
 先生、すみません。折角縫ってもらったのに。
 刃を手首に宛てがって、すう、と息を吸い込んだ。

 横に引けば、また昨日の景色が見れる。
 俺の世界に色が付く。
 そうして俺は、右手に力を込めた。

「何してんだ!」

 右手を掴まれる。まるでぎちぎちと聞こえてきそうな握力と、このタイミングに、思わず眉を顰めた。

「……鬼龍か、離せ。」

 声のトーンが自然と低くなる。もしや、先刻ぶつかったのは鬼龍か。舌打ちしそうになるのを堪え、「離せと言っている。」とだけ言う。
 俺の話を聞く気は無いらしい。

「何してんだか聞いてんだけどよ、蓮巳、お前まさか、」
「自傷行為だとでも思ったか。ふん、俺がそんなことをする訳が無いと昨日も言った筈だが?」

 今自分に張ることの出来る精一杯の虚勢だった。鬼龍は俺の声が震えていることに気付いただろうか。俺の口角が引き攣っていることに、気付いただろうか。

「俺が今見たのは、確実に自傷行為に分類されるもんだと思うけどな。……正直に言えよ蓮巳。てめえは今、何をしようとした。」

 鬼龍の目付きが一層きつくなる。
 そんな目で、俺を、見るな。

「……貴様は、俺の何を知っている」
「は?」
「貴様に俺の気持ちがわかるか! 貴様なんぞユニットが同じなだけのただの同学年だろう!」
「おい蓮巳、」
「五月蝿い!俺に触れるな、離せ!」

 俺が暴れれば暴れる程、鬼龍の力が強くなる。度し難い。何も知らないくせに。どうせ貴様だって、他の奴らと同じことを考えているに違いない。

「蓮巳! 落ち着け!」
「くそっ離せ!」
「蓮巳!」
「五月蝿い! 貴様に関係ないだろう! 貴様も他の奴らと同じで俺なんぞ必要ないんだろう! ならば俺が居なくなるのは好都ご」

 思わず目を見開いた。声を発することができない。
 唇に、温かい何かが押し当てられている。
 キスされているということに気付いたのは、それから何秒後だったろうか。
 息苦しさを訴えるために鬼龍の胸を叩くまで、それは続いた。

「ん、は……!」
「俺がそんなことをいつ言った。」
「き、りゅう」

 鬼龍の声に、背筋が凍った。こんなにも低く、まるで俺の体を突き刺すかのような声色を、初めて聞いた。

「俺はお前を、蓮巳敬人を、ずっと見てきたんだ。今みてえな意味で。」
「な、」

 肩口を両腕で掴まれた。触れられたところが熱く感じるのは、俺自身が熱いのか、それとも鬼龍の手が熱いのか。

「俺には、お前が必要なんだよ。」

 鬼龍が、俺の肩に頭を乗せる。声が震えていた。

「後生だから、居なくなるだなんて、絶対に言うな。」
「……」

 目線を下げ、鬼龍を見ようとした。その時だった。

 世界が色付いた。
 昨日と違って血が出ている訳ではない。しかし、赤。そう、紅を起点として、また色が広がっていったのだ。

「鬼龍、」

 涙がぼろぼろと溢れていくのがわかる。

「鬼龍」

 二回目の呼びかけで、鬼龍が顔を上げた。

「俺は、ここにいても良いんだな……?」

 俺が涙していることに驚いたのか、鬼龍は大きく目を見開いたが、すぐにその目は細められた。

「ああ。」
「その言葉を、信じても良いんだよな?」
「応よ。」

 ああ、そうか。
 鬼龍が俺を必要としてくれる。ここにいても良いと言ってくれている。

「……ありがとう」

 もう世界が白黒になることはない。


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