失うものは何も無い
「ま、入部は決まりっしょ」
ぱちん、膨らんでいたガムが弾けた。行儀が悪い。
「なあ、緑間ってあのバケモンみたいなスリーが得意なんだろ? 見せてくれよ」
快活そうな、昔の青峰を思わせる人が声をかけてきた。目の前にすわる花宮はニヒルな笑みを浮かべながらこちらを見ている。
無理だ。今の状態では確実に入らない。ばっさりと断りの言葉を口にする。「つれねえなぁ」なんて声が聞こえた。知ったこっちゃねーのだよ。
「なら、見せてくれたらオレ達はきみのことをあきらめる。それでどうだ?」
「えー? もったいねぇ」とか、そんなニュアンスの言葉が部室の中でこだまする。変わらず花宮はだんまりを続けていた。諦めるのか、なら。あの不快感を一度感じるのと、これから先勧誘され続けるのでは気持ちが多少楽になるだろう。渋々と了承の返事をする。
「……約束は守るのだよ」
勿論だ。目が虚ろな人の発した言葉は、どこか信用出来ない声色だった。
花宮達のあとを大人しくついていく。部室から体育館までは思っていたよりも距離があった。その分心の準備が出来る。そう息をついていたの束の間、「おら、バッシュ。オレの使えよ」と、昔の青峰っぽい雰囲気の人からバッシュを渡される。
手が震えた。胃の中がスプーンでかき回されているようだった。
「おら、早くしろよ。オレ達も部活があるんだ」
ならこんなことをしている場合じゃないだろう。何故すぐ活動に入らないんだ。
そんなことを考えながら、バッシュを履く。久しぶりの感覚だった。靴紐を結ぶ肯定も、順番も、何もかも変わらない。今まで通りだ。だからこそ怖い。3Pが入らないかもしれないことが、怖い。
「ほらよ」
ボールが投げ渡される。問題なく受け取ることが出来た。見た目的には、だ。
緑間はボールに触れている。何日ぶりだろう。若しかしたら数週間ぶりかもしれない。自分がどれだけバスケから離れていたのか、バスケに触れていなかったのか、それすらも分からなかった。
「じゃ、好きなタイミングで」
そう言ったのは誰だろう。誰の声かも判別がつかなかった。
センターラインに立つ。つうと首筋を汗が伝った。耳の奥で鼓動が轟く。口の奥に酸味を、感じる。
吐きそうだ。気持ちが悪い。もう辞めてしまいたい。
脈打つ鼓動と裏腹に、脳内だけは冷静だった。これは、きっと──吐く。
何千何百と繰り返したルーティンを、またしても繰り返す。しまった。ここに来るまでにどこに水道があるかを見ておけばよかった。ボールから手が離れる。
「っおい!」
見届けるまでもなかった。胃液が逆流する。これは、まずい。
借りたバッシュだ、そのまま外に行くわけには行かない、が。そんなことを言っている場合ではない。無理だ、無理だ。オレには、できない。