失うものは何も無い
「新入生代表、緑間真太郎」
はい。落ち着いた、大きくはない、しかし体育館に響く声で緑間は返事をした。中学時代バスケに携わっていた人間は少なからず動揺した。花宮を筆頭とする霧崎第一のバスケ部員も例外ではなかった。滔々と語られる新入生代表の言葉は、彼らの記憶に留まることはなかった。それ程までに衝撃的なことだったのだ。
入学式が終わり、クラス毎にホームルームが始まる。緑間は自己紹介すらも簡素に終わらせた。その言葉の中に、バスケをしていたという旨はない。
「緑間って、キセキの世代の?」
少しだけ口角を上げながら、緑間へ話しかける人間がいた。同じクラスの生徒らしい。「さっきも紹介したけど」と付け加えて名前を告げた。
「バスケ部、入んの?」
その言葉には、何の揶揄も無い。そうだ。それが普通だ。普通の、帝光ではないバスケ部に所属していたのなら当たり前の疑問だった。霧崎第一のバスケ部と言えばラフプレーをするという噂が出回っている。人事を尽くす緑間が、強豪といえどラフプレーをする部に入部するのであろうか。この男は暗にそう問うていた。
「いや、入らない」
あくまでも平静を装っていった。目線は合わせずに、ただひたすら卓上を見つめている。一瞬だけ、クラスの時が止まったかのような感覚に陥った。もちろんそれは緑間が勝手に感じていることであって、話しかけてきた彼にとっては何の変哲もない、ちょっとした有名人に声をかけている数秒間である。
「そうなんだ、もったいねえ」
そうとは思わないけどな、なんてことが喉元まできたが何とか無視をした。3Pの入らないオレに価値はない。「そうか」とだけ答えて、緑間はテーピングをしていない左手をいじった。
「なあ、緑間いるか?」
またしても緑間の名前が呼ばれた。今回は教室の外、廊下からの声掛けである。不快感を隠すこともせず緑間は立ち上がり、声の元である廊下へと向かった。そこには自分よりも頭一つ分程小さい男がたっていた。制服の様子からして先輩だろう。ガタイも良いのでバスケ部であろうか。ああ、嫌だな。と、瞬間的に思った。
「オレ、バスケ部の松本って言うんだけどよ。バスケ部入んだろ? 来いよ。今日も練習やるぜ」
当たり前のように話し出したことに、緑間には一瞬の躊躇いと、そして嫌悪感が生まれてきた。主将かつ監督を務めている花宮さんがオレたちのことを嫌いだと聞いていたから、てっきり勧誘されることはないだろうと思っていた。完全に油断していた。誰だ松本。さん。
「いえ、バスケ部に入るつもりはありませんので。申し訳ありませんが」
そう言って頭を下げると「は?」何ていう声が聞こえてくる。その声には困惑の色がありありと乗っていた。そんなにおかしいかよ。緑間真太郎がバスケをしないことが。
「お前、緑間だよな。緑間真太郎。あの帝光の」
「ええ、そうです。帝光中出身ですが」
「キセキの世代だろ? バスケ、やんねえの?」
「やりません」
一瞬の沈黙。クラスの生徒もいきなり先輩に呼び出された緑間の方をちらちらとみている。会話が先程よりも少ないように感じた。
「まあまあ、いいじゃねえかちょっとぐれえ! 結構真面目に練習してんだぜ?」
「は? ちょっ」
ぐいと腕を掴まれる。右手を選ぶあたり彼なりに気を遣っていたのかもしれない。今はもう関係ないのに。
というか、連れていかれるのか、あそこに。体育館に。
脈が早くなるのがわかった。行きたくない、行ったら、また。
喉の奥で心做しか酸味を感じる。これはまずいと思い、腕を振り払おうと力を込めた。足にも力を入れ無理矢理歩みを止める。
前を見ると、松本が不思議そうに緑間を見ていた。
「ンだよ。言っとくけどこれ強制連行だかんな」
そう言って笑うと松本はまた歩き出した。想像していたよりも力が強く、緑間がどれだけ力を込めても振り払えない。もう一度振り払おうと体に力を込めると、胃酸が逆流してきた。喉元が焼けるようだ。形容しがたい不快感が緑間を襲った。
結局振り払うこともできず、緑間は自分よりも背の低い先輩に手を引かれて歩き続けた。