おとなりのおにいさん 3

 どれだけの時間が経ったのか、シャワーの音に紛れて聞こえていた嗚咽はやんでいた。そっと胸に預けられたままの顔を覗いてみると、涙も一応の収まりを見せている。少しばかり安堵しながら佐介を見ていると、安形の視線に気付いたのかぴくりと佐介の身体が動いた。
「ちょっとは、落ち着いた?」
 安形の問い掛けに、佐介は微かに頷くだけの答を返す。それでも返ってきた応えが肯定である事に安堵して、安形は唇に優しげな笑みを浮かべた。
「じゃあ、今日はこのまま風呂入って寝ろ。布団用意してやるから」
 こくり、と佐介の顔が縦に動く。背中に回されていた腕が解け、佐介はゆっくりとだが自分自身で自分を支えた。まだ涙を残す瞳のままに手が動き、シャツのボタンを外し始める。晒され掛けた濡れた肌にぎょっとして、安形は慌てて立ち上がって背を向けた。安形の突然の行動に、佐介は手を止めて安形を見上げる。
「そ・・・・・」
「着替え、取ってくるな。あと、お前ん家にも連絡しねぇと」
 名前を呼ばれ掛けたのに気付かない振りをしながら、安形はそう言った。自分でも言い訳染みてると感じながらも、今はこの場を離れる事しか出来ない。
「二人とも、夜勤だから大丈夫・・・」
 安形にそう告げながら、佐介はそっと指先を安形へと伸ばした。ズボンを掴もうとした指先が触れるほんの僅か手前で、佐介の頭上から安形の言葉がまた降ってくる。
「それなら猶更、朝帰った時にお前が家に居なかったら驚くだろ」
 それを聞いた瞬間、ぴたりと佐介の指が止まった。差し出した時と同様に静かに、指先が胸元に引き戻される。
「そう・・・そうですね・・・・」
 縋ろうとした痕跡を消すように、佐介はシャツの胸元を握り締めて俯いた。声が震えている事は、未だ床に叩き付けられるシャワーの音に隠される。
「すみません、気が付かなかったです・・・・」
 完全に真下を向いて項垂れる佐介に、背を向けた安形は気付かなかった。その口調が、僅かばかり変わっている事にも。安形はただひたすら逃げ出すためにドアを開け、その向こうへと消えた。パタンと小さな音を響かせて二人の間をドアが遮る。その隔たりに今は安堵しながら、安形は側にあったタオルを手にし、乱暴に濡れた髪を拭った。
 大きなため息を漏らした所で、ふと洗面台の鏡に映った自分と目が合う。その瞳に欲望の残滓が見えた気がして、安形はそこから目を逸らした。
――ヤバい・・・吐き気する・・・・・
 佐介に覚えた劣情を生々しく思い出せば、保護者としての想いが押し寄せる。大切にしていたはずの子供を欲の対象にしている自分に、嫌悪感が止まらなかった。自分の考えを追い遣るように頭を数度振って、安形は濡れた服を脱ぐ。適当にその辺りにあった服を掴んで身に付けると、佐介の着替えを取りに二階へと足を向けた。
 着替えの用意、椿家への連絡、寝床の用意、とそこまでして漸く、安形は放り出したままの自分の鞄に気付く。
「やべ・・・書類、大丈夫かな?」
 幾つか家で調べようと思っていた仕事を思い出し、鞄を拾い上げた。中の書類は一応、簡単な防水をしていたため無事だ。それを確認し、ほっと息をつきながら居間として使っている部屋へと入る。
――丁度いいや、仕事しよ。
 そう考えてノートパソコンを立ち上げた所で、安形は苦笑を口に登らせた。自分の行動は、逃避以外何者でもない。
――歳取りゃ、もう少しマシになれると思ってたんだけどな・・・
 自分が十代のころ、想い描いていた『大人』を思い出す。何でも出来て、理性的に物を考えられて、失敗などしない完璧な人間。周りの大人はそう見えて、自身もいずれそう成れると思っていた。けれど、現実は違う。
――これだけ歳重ねて分かったのが、あの時考えてた『大人』なんてじじぃになってもなれやしないって事だけだ。
 十五も歳の離れた子供に欲を含んだ恋心を抱いて、更にそれが同性で。叶う訳がないと知りながら、心を殺す事が出来ずに逃げる事を考える。そうしなければ、きっと自分が相手の心さえ顧みずに牙を剥く。挙句に、後悔だけが残るのだ。そんな事だけは聡く、解ってしまう程度にだけ大人になった。
「・・・・・っ!」
 自分の思考に没頭していた安形の耳に、突然、引き戸が開く音が響く。急な事に驚いて声もなく戸口を見れば、そこには佐介が立っていた。俯いて床に視線を落としたまま、部屋に入るのを躊躇うように佇む。まだ濡れたままの髪から落ちた水滴が、肩に掛けたタオルに幾つかの染みを作っていた。
「佐介・・・?」
「・・・・・横に座っても、いい・・・ですか?」
「あ、ああ・・・」
 小さく聞こえた声に返事をすれば、佐介はタオルで口元を覆いながら安形の横へと遠慮がちに歩み寄る。それは、頬を伝う雫を拭うようとも表情を隠すようとも、捉えられた。少しだけ、僅か人半人分ほどの距離を置いて、佐介は安形の横へと腰を降ろす。膝を抱えるようにして自分の爪先を見ながら、そのまま黙り込んでしまった。
 声を掛けるべきなのか迷い、安形は目の端で佐介を見る。髪の隙間から覗く目は赤く、瞼も少し腫れていた。痛々しいと思いながら、パジャマ代わりのTシャツから覗いている薄く色付いた肌に、思わず視線をパソコンへと戻す。安形は迷った末、再びパソコンのキーを押し始めた。カタカタと響く無機質な音だけが響き渡る部屋で、側に人が居るだけで安心できる慰めもあると、そんなふうに思う。
「・・・・・・なさい」
「え・・・?」
 響いた言葉の小ささよりも、内容の意味が分からず安形は聞き返した。タオルと濡れた髪の向こうから、ゆっくりと泣き腫らした琥珀が安形に向けられる。歪んだ眉が泣くのを堪えていると、安形に告げた。
「ご・・・すみません、迷惑かけて」
 震える声はきっと、泣くよりも何かを伝える事を選ぼうとしているからだと、そう思える。
「迷惑だなんて、思ってねぇよ」
 だから素直に、安形の口から滑るように言葉が出た。口元に微笑みさえ浮かべながら、縋られた事を喜ぶ自分を認める。瞳を佐介に向ければ、微かに涙ぐみながら佐介はふるふると首を横に振った。
「明日、仕事でしょ・・・迷惑です。だけど、」
――戦ってるんだな、きっと。
「だけど、今日は・・・今日だけ・・・・・」
――自分の中の子供と、自分の思い描く大人と、が。
 安形自身にも思い当たる、先程まで忘れていた感情。自分を子供と自覚して、いつからかそれを嫌い始めた。思えばそれが、大人へと一歩踏み出した瞬間。たとえそれが、永遠に届かない場所への道だったとしても。
「・・・今日だけ、甘えていい?」
 微かな涙が目尻を覆っていた。泣かないのが強さなら、泣くのを堪えて果たせなくとも、それも強さに思える。そう感じながら、安形は右手で佐介の頭を撫でた。そのまま身体を佐介へと向けながら、自分の胸元へと佐介の額を近付ける。額が胸へと触れた瞬間、佐介の両手が安形のトレーナーの裾を握り締めた。その指先に応えて何度も頭を撫でながら、少し残された身体の隙間を埋められない。
「明日から・・・ちゃんと、明日からは・・・・・だから・・・」
 震えながら言われた言葉に、不意に昔の光景を思い出した。幼い佐介が転び、慌てて安形が走り寄る。きっと泣き出すと思ったのに、ぐっと唇を噛み締めて痛みに耐えながら立ち上がった。その時と同じように、きっと安形の手が無くとも一人で立ち上がれる。
「うん、分かってる。ちゃんと知ってるよ。大丈夫、お前は強くなる。強く、なれる。だから、今日だけ、な」
――コイツは、本当は強いんだ。
 恋心を自覚してなお、佐介を子供として扱っていた。今は離れられないと思っていたが、それすら感傷に過ぎないと思い知る。
――オレが居なくても、十分やってける。
 きっと今日が最後。先程は強く抱き締める事も出来たのに、今は身体に隙間を作って頭を撫でているように、少しずつ離れればいい。
――コイツの未来に、オレは要らないんだ・・・
 だから、今日を噛み締めた。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 季節がいつ秋を終えたのか分からないまま、いつしか冬が訪れていた。まだ息がない白くなる事はなくても、寒さは本格的な物に変わっている。そんな中で、佐介は十五回目の誕生日を迎えた。毎年行われる細やかな家族でのバースデーパーティー。当然のように今年も、安形は招かれた。
「おめでとう」
 蝋燭を吹き消した佐介に、全員が拍手と言葉を贈る。照れ臭そうに笑う佐介の顔には、小さな絆創膏が張られていた。それを見て、安形がふと思い出したように口を開いた。
「試合にも勝ったし、二重のお祝いだな」
「勝ったって言っても、小さな試合で三位です」
「初試合でベストスリーは自慢しても良いと思うけど」
 安形が顔を綻ばせると、困ったように、けれど何処か誇らしげに佐介は笑う。自分の生まれを知ったあの日から暫くして、佐介は空手を習い始めた。最初傷だらけの姿を見た時にはぎょっとしたが、安形の目を真っ直ぐに見て笑った晴れやかな顔は今でも忘れられない。
「でしょ。もっと自慢しても欲しいのに、この子謙虚だから」
 嬉しげにそう言っている佐介の母親は、最初の頃、格闘技なんて、と一番に佐介を心配していた。父親はこれと言って何も口を挟まなかったが、いつもより細められた目が息子の勝利をどう思っているかを示している。二人とも、あの日の出来事は未だ知らないまま。それは、佐介自身がそう望んだからだった。
『二人とも、ボクに隠し事をしている訳じゃないと思うんです。いつかこの事を話してくれる日が来るって』
 傷に塗れた佐介から、安形はそう告げられた。そこに在ったのは、確固たる意志。
『今は、二人とも時期を待ってくれてて・・・そう思うとこんな形で裏切ってしまったの、申し訳なくて』
 何故、自分が両親の子でないのか。足元が崩れそうに思えるほど不安だろうに、それでも両親を慮って事実を隠す事を選ぶ。
『待っていたいんです、その時を』
 芯の通った強さが垣間見えて、安形がそれに切なげに目を細めた、あの日。それから少しずつ、意図して帰宅の時間を遅くするようにした。元々仕事が忙しくなっていた事もあり、それは気取られる事はなく今まで続いている。
「そうだ、オレからの誕生日プレゼント」
――そろそろ、潮時だろうな・・・
 そう考えながら安形は、急に思い出した振りをして佐介に小さな包みを渡した。安形の手にしている細長い包みを見て、佐介の顔にぱっと笑顔が浮かぶ。ありがとうと言いながら両手でそれを受け取って、佐介は無邪気な笑顔でじっとそれを見詰めていた。
「空けてみろよ」
「良いんですか?」
「うん」
 安形の言葉に、佐介は慎重過ぎるほどそっと包みを開く。中から現れた立派な化粧箱と、そして更にそこに収められていた万年筆に、佐介の目が大きく見開かれて安形に向けられた。
「これ・・・・・」
 誕生日にしては余りに高価な贈り物に、佐介の瞳は困惑している。小首を傾げて安形に意図を問い掛ける顔は、何処か不安げに見えた。
「モンブランだな。安形くん、随分奮発してないか?」
 佐介の手元を覗き込んだ父親も、驚いている。自分の場にそぐわない贈り物に苦笑を浮かべながら、安形は理由を口にした。
「いや、これは先々を兼ねてですから」
 戸惑いながらも佐介の唇に浮かんでいた笑みが、安形の言葉で消え去り閉ざされる。
「オレ、近々転勤する事になりそうで」
 安形が笑いながら用意した言葉を聞いた瞬間、佐介は完全に凍り付いた。

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2012/08/01 UP
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