おとなりのおにいさん 2

 自宅で打ち出した書類に目を通し終えると、安形は目を閉じて大きく息を吐いた。顔をしかめながら目を開き、書類を封筒に収めて先日の事を思い出す。
 先の週末、久々に訪れた椿家で佐介に会った。その時の佐介を思い出し、安形は小さく嘆息する。居間に居た佐介は、身長が十センチほど伸び、眼鏡を掛け、髪形も安形の知っている短めのそれでなく長くなっていた。知らない間に随分と変わってしまった事に戸惑いながらも、安形は佐介に笑い掛けて。
「何だかなぁ・・・手ぇはたく事ぁねぇだろーに」
 そこまで思い出して、安形は思わずぶつぶつと不平を漏らす。安形としては軽い気持ちだった。安形の戸惑いの視線を感じ取ったのか、目を逸らした佐介との距離を縮めたくて、冗談のつもりで言った言葉。

『何だよ、髪伸ばしてんのか。顔隠れんだろ? 折角可愛い顔なのに』

 そうして手を伸ばして佐介の髪を掻き上げた瞬間、はたかれていた手。痛みを感じるよりも、安形は佐介のその表情に驚いた。情けなさに食い縛られた口元と、泣きそうに歪んだ眉。何とも言えない表情に言葉を失っている安形の目の前で、佐介は逃げ出すように居間を去って行った。
 慌てて安形は後を追ったが佐介は部屋に閉じ籠り、何度声を掛けてもそのドアは微動だにしない。数十分粘ったものの事態は変わらず、安形は諦めてその場を後にするしかなかった。

 それが、ほんの三日前の土曜の事。その場面を思い出してはため息をつく、そんな事を安形はずっと繰り返していた。そして今もまた、唇から重い息を吐く。
――やっぱ、男の子に可愛いとか禁句だったか?
 何度も考えた結果、あの言葉が切欠になったのだと安形は気付いた。自分の失態を思い返し、苦笑いに近い顔で安形は頭を掻く。
「言っちゃいけねぇとしても、可愛いもんは可愛いんだよ。だってよぉ・・・オレにとっちゃまだ、お隣の可愛い子供なんだし」
 意味も無く、思考を声に出す。自分の声が外から耳に入った瞬間、安形の表情が苦々しく歪んだ。両手で頭を抱えるようにして、小さな座卓へと肘を突いて顔を伏せる。自分の声に言い訳の色を感じ、幾度となく繰り返したため息をまたついた。
――つーか、願望か・・・いつまでも、子供でいてくれって、アレか。
 今までずっと幼い子供で自分が守るべき存在だった佐介が、暫く会わないうちに大人に成り掛けていた事に対して感じた一抹の淋しさと焦り。それは自分の手を離れていく事への物ではないかと、安形は思った。
「この年で、子離れされる親みてぇな気持ちとか、どうよ・・・・・・」
 自分の今の気持ちは保護者のそれに近いのかと、安形は更に落ち込む。この年でと言いながら既に三十が目前である事にも気付き、落ち込みに拍車が掛かった。
 そんな落胆の最中、突然チャイムの音が耳に飛び込んできて、はっとして安形は顔を上げる。時計を見れば八時手前。この時間であれば、自ずと来訪者は限られる。確信を持てないながらも安形が玄関の戸を開ければ、そこには予想していた人物が立っていた。
「佐介・・・」
「あの、母さんが作り過ぎたからって、これ」
 そう言いながら、佐介はタッパーに入った煮物を安形へと差し出す。先日の事を気にしてか、佐介は気不味そうに視線を合わせる事もせず、安形の足元ばかりを見ていた。
「ああ、ありがと。助かる」
 気不味いのは安形も同じで、佐介の手からタッパーを受け取りながら、佐介の視線を追うように自分の足元を見る。けれど、このまま帰らせるのかと自分に問い掛けて、安形はふっと視線を上げた。
「中で何か、飲んでくか?」
 拒絶の言葉が出れば諦めるつもりだった安形に、佐介は小さく、はい、と応える。ほっと胸を撫で下ろしながら、安形は軽く微笑んで佐介を中へと招き入れた。
「お茶でいいか?」
 その言葉に、佐介は頷くだけの返事を返す。会話の無い部屋に自分がお茶を用意する音だけが響いた。それがやけに静けさがを際立たせる。内心の焦りや動揺を押し隠し、安形は用意した湯呑を佐介へと差し出した。ありがとうございます、と声が響き、湯呑に細い指先が伸びる。それを目の前にして、安形は意を決して口を開いた。
「このあ・・・」
「先日は、すみませんでした」
 安形が謝罪の言葉を口にし掛けたと同時に、佐介からも同種のそれが発せられる。思わず言葉半ばで口を噤み、安形は佐介の言葉を待った。
「あんな態度で、惣・・・安形さん、悪くないのに」
 酷く落ち込んでいる所為か、佐介から昔の呼び名が漏れ掛ける。言い直されてしまったが、それだけで昔と変わらず自分を慕ってくれている事が分かり、安形の胸に嬉しさがこみ上げた。
「いや、オレも悪かったよ。その、可愛いとか言って。中学にもなった男に可愛いとかおかしいもんな」
 少し顔を綻ばせ、安形は数日思っていた事を言葉にした。しかし、予想に反して佐介は首を横に振る。てっきりその一言が原因と思い込んでいただけに、不意打ちに近い衝撃を感じて安形は目を見張った。
「なら、何でまた」
 疑問がそのまま口を突く。安形の言葉に佐介は一度目を上げたものの、また俯いてしまった。今度は自分の髪の毛を両手で持ち、顔を隠すように引きながら。
「・・・・・・一年の終わり頃、眼鏡を掛け始めたんです」
 顔を隠したまま、佐介はぽつりぽつりと語り始めた。今までは視力が多少悪くても、一番前の席に座れば黒板は見えていた事。けれど一年の終わりからはそれでも黒板が見え辛くなって、仕方無く眼鏡を作った事。そして、それが酷く嫌だった事、を。
「分かってるんです。別に誰も見てないって。気にしてるのは自分だけで・・・でも、この顔を見られたくなくて、髪を伸ばし始めて」
「そこにオレが、顔出せって言っちまった訳ね・・・」
 話を聞いて、安形は漸く合点がいく。佐介自身が髪を伸ばす事が後ろ向きだと分かっているにも関わらず、安形はそんな事も知らずにそれを否定した。佐介に取っては恥の上塗りに近い行動だったと思うと、安形は自分の軽はずみな言葉を心底後悔してしまう。
「悪かったな・・・その、何にも分かってなくて」
「安形さんは悪くなんてないです・・・ボクが全部・・・」
「仮にそうでも、お前が傷付いたんなら、やっぱオレも悪ぃよ」
 安形の台詞を聞いて、佐介の顔が上げられた。唇が微かに震えて、音の無いままに昔の呼び名がそこから零れる。同時に瞳が揺らいで、そこに涙が溜まった。それが零れるよりも前に、また佐介が俯く。震える肩と顔に当てられた拳に、泣いているのが知れた。
「・・・・・・・・」
 昔のように慰めようと、差し出された頭に手を触れ掛けて、止める。一瞬、佐介の年齢が頭を掠め、けれど呼ばれた名前を思い出し、許しを得た気がして佐介の頭に手を添えた。
――構わないよな。
 何度も繰り返し、頭を撫でる。些細な物を怖がって、泣いて縋ってきた頃と同じに。
――今この瞬間だけは、小さな佐介だと思ってても、構わないよな・・・
 それでも、自分の弱さを認めてそれを否定しようとしている姿に、安形は酷い淋しさを覚える。確かにそれは、大人の――自分の庇護を抜け出そうと足掻いている姿なのだから。胸の奥に針で刺されたような小さな痛みを覚えながら、安形は佐介が泣き止むまでずっと頭を撫で続けた。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 疲れた身体を引き摺るようにして、安形は電車を降りた。混雑する改札を抜けて出口へと向かえば、土砂降りの雨に出迎えられる。最近、とみに仕事が忙しくなり、週末に絡む出張が増えてきた。お蔭で殆ど椿家に顔を出せないまま、季節が春から夏へ移り、それも終わりに差し迫っている。
――アイツ、大丈夫だよな・・・
 あの日佐介は泣き止んだものの、結局笑顔を見せる事は無かった。最後に見た泣き腫らした目と深く沈んだ顔が、脳裏に浮かぶ。心配するほど子供でないと自分に言い聞かせながらも、安形は心配してしまう心を拭い去れないでいた。
――自分でもこのままじゃ駄目だって気付いてんだし、大丈夫、だよな。
 雨足が強くなり、傘を叩く雨粒の音が今や耳障りになる。夏なのに冷たい雨が、辺りの気温を不必要に下げていた。雨に煙る景色の中で、家に近付くほどに人の群れが四散して消えていく。一人一人、別の道を辿るのだから当たり前なのだと、ふと安形は思った。
――困ったり悩んだりしたら、助けてやりたい。でも、もう・・・小さな佐介じゃねぇんだ。
 進む道が違えば、常に隣に立つ事は出来なくなる。現に今、会社で責を負う立場になった安形は、佐介に会う事も稀になりつつあった。きっと後半年もすれば、それは当たり前の事になるのだ。自分が今、幼い頃に会っていた大人を殆ど思い出せないように。
――ヤバい・・・凄ぇ寂しくなってきた!
 自分の後ろ向きな思考から逃れるために、安形はぶんぶんと頭を振った。漏れ掛けたため息を飲み込んだ所で家に辿り着き、小さな木の門に手を掛ける。瞬間、暗く雨に霞む視界の中で、玄関付近で何かが動いた。
「?」
 猫や犬にしては大きな影に、安形は不審そうに目を凝らす。それが膝を抱えて座り込んでいる人影だと気付き、その影に見覚えがある事に気が付いた瞬間、安形は傘を放り出して玄関へ駈け出していた。
「佐介っ!」
 同時に投げ掛けた声に、影がのろのろと顔を上げる。小さな庇は意味をなしておらず、そこに蹲っていた佐介は随分と雨に打たれていた。声に反応して上げたはずの顔は、虚空に向けられている。まるで何も見ていないような瞳に、安形はぞっとした。
「佐介! おい、どうしたんだよ!!」
 安形が肩を掴んで再度名前を呼んだ所で、漸く佐介の瞳が安形を捉える。それでも放心したような表情は、変わらなかった。
「・・・・・良かった。帰ってきたんだ」
 ぽつりとそれだけを漏らして、佐介は黙り込む。何が有ったか分からないまま、何かが有った事だけ分かり、焦りに安形の脈が速さを増していた。
「とにかく・・・中に・・・・・」
 何も分からないながらも、掴んだ肩の冷たさだけは確かに伝わる。夏とは言え激しい雨は、薄いシャツごと佐介の身体を濡らしていた。冷え切った自分の身体すらも気付かないほど放心している佐介に混乱しながらも、安形は慌ただしく家の鍵を開ける。座り込んだままだった佐介の身体を抱えて立ち上がらせて、改めてその細い身体が随分と冷たい事に背筋が寒くなった。履いていた靴を自分の物も佐介の物も乱暴に放り、有無も言わせずに佐介を風呂場に連れ込む。ただ佐介の身体を温める事しか安形の頭に無く、服ごと佐介の頭から熱いシャワーを浴びせ掛けた。
――何時間、あそこに居たんだよ・・・
 時計の針は九時近い。今更ながら、今日に限って帰宅が遅くなった事が悔やまれてならない。安形自身も濡れながら、それでも腕の中の身体が温まっていく事が、せめてもの救いだった。
「・・・・・・・・・」
「うわっ」
 少しだけ安堵した安形の腕から、佐介の身体が崩れ落ちる。慌てて支え直そうとして、安形は佐介もろともタイルの床へと座り込んだ。安形の胸の中で、佐介は頭を預けた状態でまだ虚空を見詰め続けている。
「どうしたんだよ・・・」
 泣きそうに眉を歪めて、安形の咽から掠れた声が出た。前に見た泣き顔の方が増しに思えてくるほど死んだ表情に、安形はそっと頬に手を触れる。ぴくりとそこが震え、辛うじて意識がある事を安形に告げていた。
「何が有ったんだよ。言ってくれよ、佐介」
「・・そぉ・・ぃちゃ・・・・・」
 シャワーの音に掻き消され、消え入りそうな声が響く。緩慢な動きで伸びた佐介の手が、安形の胸元を握り締めた。随分と身体は温まったはずなのに、その指先がカタカタと震えている。
「佐介、なぁ・・・」
「・・・・・惣兄ちゃん、ボクら家族、だよね?」
 何度も名前を呼び掛けて漸く、佐介はしっかりと安形を見詰め、言葉を吐いた。それが昔の口調に戻っている事に、安形の不安が色濃くなる。
「ボクと惣兄ちゃん、血が繋がってないけど、家族だよね?」
 声も指先も、ずっと震えていた。張り詰めた細い糸が極限まで引かれて、力に耐え切れずに戦慄くように。安形はそれを痛々しい想いで受け止めながら、佐介の顔を両手で包み込む。
「家族だよ。ずっと、そうだったろ? これからだって、そうだ。血の繋がりなんて、無くても」
 琥珀の瞳を覗き込んで、安形は微笑みながら答を渡した。佐介が望んだ答で、自分自身そう思っているはずなのに、何故だか胸の奥がじくじくと痛む。それを押し殺し、安形はもう一度、にっと佐介に笑い掛けた。その笑顔を見た瞬間に、佐介の瞳が涙に濡れ始める。
「じゃあ・・・」
 吸い込んだ息が、小さな濡れた咽を揺らした。ヒュ、と小さく嗚咽にも似た音が、安形の耳に飛び込む。
「・・・じゃあ、父さんも母さんも、家族だよね?」
 笑顔に似た形に、佐介の唇が歪んだ。驚きに安形が目を見開く間にも、佐介の言葉が繰り返される。
「血が繋がってなくても、ボク、父さんと母さんの子供だよね? そうだよね?!」
 叫ぶように問い掛けて、佐介はシャツを全力で握った。安形に答を求める瞳が、内側から濡れて揺らぐ。
「どっから、そんな・・・・・」
 馬鹿な話が。そう言葉にし掛けて、余りに切実な瞳に口を噤んだ。触れたままの頬が震え、唇が小さく動く。
「今日、父さんと母さんのカルテ見て・・・二人とも、O型だって・・・・・」
「え・・・お前、確かABだって」
 こくん、と佐介が微かに頷いた。それで、安形は全てを把握する。
――いや、確かO型の母親からAB型の子供生まれたって話が・・・
 昔見た新聞記事を安形は思い出し、それを伝え掛けて止めた。両親共に特殊な血液だなど天文学的な確率でしかなく、何よりも佐介自身は事実を受け止めている。
――コイツが聞きたいのは、自分が両親の実の子なのか、じゃねぇ。血が繋がってなくても家族なのか、だ。
 事実は疾うに受け止められていて、答も既に決まっていた。佐介が欲しがっているのは、たった一つ、背中を押す強い肯定だけ。
「・・・・・最初、お前に会った時、」
 唐突に始まった昔話に、少し琥珀が困惑した。静かに微笑んで、安形は淡々と言葉を続ける。
「最後に見た三人の背中の事、今でも覚えてんだ」
 顔を近付けて瞳を覗き込み、諭すように言い聞かせた。
「ああ、これが理想の家族なんだな、って」
「惣兄ちゃん・・・」
「今でも変わらないよ。お前はちゃんと、あの二人の子供だ。これからも、ずっと」
「そぉにぃちゃ・・あ、うあっ・・・・」
 名前が途中から嗚咽に変わる。堪えていた涙が溢れて、頬を流れる水と混じる。咽から絞るように泣き声を上げながら、佐介は安形の背に腕を廻して抱き着いた。
「うぁっ、あっ、ボク・・・とぉさんとかぁさ・・の子供で・・・いたい・・っ・・・ああっ、あっ・・・・・」
 大丈夫。変わらないよ。お前は二人の子供だよ。二人ともお前を愛してるよ。何度も繰り返して声を響かせる。頭を撫でて抱き締めようとして、目に映った姿に一瞬動きが止まった。
 濡れたシャツが身体に張り付いて形を露にし、その下の肌の色が薄らと透けて見える。それは子供から抜け出し掛けていて、けれどまだ大人ではなくて、不安定な形をしていた。小さくはなくなったけれど細い腰と柔な背中が、安形の目の前で不安に震える。それを昔のように抱き締めたいのに、安形は心の何処かで抵抗を覚えていた。
――・・・馬鹿野郎っ!
 瞬間覚えた感情を否定して、安形は佐介の身体を強く抱き締める。親が、兄が、そうするように、安堵を与える抱擁と言葉を繰り返した。安形の葛藤など知らず、佐介は胸の内で泣き喚いて、強く安形に縋り続ける。廻された腕の細さと相反する力強さに、今までとは違う鼓動が胸に鳴り響いた。
――コイツはオレの事、家族だって思ってるんだ。
 無防備に泣き縋るのは、兄のように慕っているから。分かり切った事を心の中で繰り返し、言い聞かせる。震える身体を抱き締めて、子供を慰める優しい大人の振りをしながら、安形の指先もまた震えていた。
――子供でいて欲しいなんて・・・子離れしない親みたいだなんて、言い訳だ。
 ずっと無意識に子供だと思おうとしていた。それを否定しながら、肯定される理由を探していた。いつからか感じていた保護欲とは違う感情を、認めない為に。
――今は、無理だ。こんなコイツ放っておけない。けど、
 自分の震えを気付かせないように、何度も佐介の頭を撫でる。今の自分の顔はきっと動揺していて、見れたものでないのだろうと、心の片隅で思った。
――オレはコイツの側に居たら、駄目なんだ・・・・・・
 ひたすらに優しい兄を演じる道化に、絶望が湧き上がる。安形に取って子供でなければならなかった身体を抱き締めながら、安形は自分が自ら道を違えた事を感じていた。

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2012/06/12 UP
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