おとなりのおにいさん 4

 安形の言葉に、一瞬、場が静まり返る。その沈黙を破ったのは、佐介の父親だった。
「突然で驚いたが、遠いのかい?」
「ちょっと・・・ベトナムなんで」
「海外なのか」
 流石に驚きを隠せずに上擦った声を上げた父親に、安形は困ったように頭を掻く。ちらりと隣に座る佐介を見れば、呆然としたまま安形を見上げていた。
「前から何処かの支店で責任者をってのは言われてたんです。ただ、中々タイミングが合わなかったのが、今回新しいラインを海外にって話が持ち上がったって」
「ああ・・・そう言えば東南アジアは今好景気だしな」
「ええ。その割に日本より諸経費が安く済みますし、同じアジアなんで輸送費なんかも・・・・・」
 そのまま大人の話になっていく横で、佐介は沈んだ表情のまま俯いて手にしている万年筆を見詰める。流れる会話を聞きながら、そっと万年筆を指先で撫でた。ふと会話が途切れた瞬間、はっとしたように佐介が顔を上げる。
「万年筆って普通、大学の入学祝とか就職祝いとかですよね? その・・・どれぐらい向こうに行くんですか?」
 会話から安形の転勤が祝うべきものだと感じたのか、必死に笑顔を作りながら佐介が問い掛けてきた。小さく微笑みを唇に浮かべ、安形はそれに答える。
「四、五年かな。一から立ち上げるから、それ位は掛かるだろうって言われた」
 息を飲む音が聞こえた気がした。笑顔を張り付かせたまま何も言えなくなった佐介に、安形は手を伸ばす。久しく撫でていなかった頭をぐりぐりと乱暴に撫で、安形は笑顔を浮かべた。
「そんな顔すんなよ。盆と正月位は帰ってくるし」
「そう、ですよね・・・」
 掠れて響いた声に、安形は佐介の頭から手を離し、代わりに背中を平手ではたいた。びくりと身体を震わせて、佐介は背筋を伸ばす。
「これでオレ、出世するんだぜ。喜んでくれねぇの?」
 笑顔を向けて言った自分の言葉を、安形は卑怯だと思った。こんな言い方をすれば、自ずと佐介の台詞は限られてしまうのに。
「・・・・・・おめでとうございます」
 泣きそうに眉が歪み、唇は震えている。それでも笑顔を浮かべて、佐介は祝いの言葉を口にした。

 道化染みた茶番を終え、安形は自宅の戸を開ける。そのまま二階の寝室へと真っ直ぐに向かうと、着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。大きく一つ息を吐くと、目を伏せてシーツへと顔を埋める。
「泣きそうな顔しやがって・・・」
 吐き出した言葉は、そのまま柔らかな布地に吸い込まれた。続いて吐いたため息も、同じく。けれど、安形の唇は微かに笑みを浮かべていた。右手が軽く、シーツを握り締める。
「好かれてる意味が違っても、あんな顔されると嬉しいもんなんだな・・・・・」
 安形の口から自嘲染みた声が漏れた。そのまま、安形はひとしきり笑った後、シーツへと顔を埋める。今まで似たような話は幾らでも湧いていた。それを片っ端から無意識に自分自身で潰してきたのは、ひとえに『ここ』が心地良かったから。椿家の隣の、
――アイツの、すぐ側の・・・
 それを今日、全て捨ててきた。後悔は無い。今でも鮮明に思い出せる眼裏の三人の後ろ姿。理想の家族の父親の姿が、頭の中で佐介に変わっていく。当たり前の幸せを当たり前に、佐介に享受させたかった。例えそれを、自分が見届けられなくても。
「うん・・・これで、良かったんだ・・・・・」
 まだ残る未練を断ち切るように、安形はそう呟いてシーツを握る力を強めた。

 安形が帰った後、佐介は何処か瞳に陰りを浮かべたまま、食卓の片付けを手伝っていた。
――何でこんな事になったんだろう・・・
 初めての試合に結果を残し、久しく会っていなかった安形の顔を見て、迎えた至福の日。笑顔のまま終われると思っていただけに、安形の突然の宣告が鉛のように重く、胸の奥に沈み込んだ。
「しかし、海外か・・・驚いたな」
 佐介の父親が、ため息混じりにそう呟く。自分より世間を知っている父親が驚くなら、今自分に降り掛かっている事柄は滅多に有る訳ではないのだ、と佐介は思った。
「そうだね・・・」
 何故そんな不運が自分に訪れたのか、恨みがましく思いながらも、佐介はなるべく普段通りの声を出す。寂しくなるわね、と漏らされた母親の言葉に、居間の空気が暗く変わった。
「まぁ、帰れば本社栄転と言っていたし、めでたい事だ。出世ついでに向こうで良い人を見付けてくるかもな」
 沈んだ場の空気を和ませようと、父親が笑いながら言う。
「そうね。前のお見合いも上手くいかなかったし、安形さんは海外の人の方が合うかも」
「えっ!!」
 自分の失言を取り繕おうとした母親の言葉に、佐介は弾かれたように顔を上げた。
「安形さんが・・・お見合い、したの・・・・・?」
「そうよ。随分前だけど。佐介には話してなかったかしら」
「うん・・・初めて聞いた」
 佐介は辛うじて笑顔を浮かべる。そうしながら、口の中が酷く乾くのを感じていた。何故だか背中を冷たい汗が流れ、心臓が脈打つ音が煩い。
「何だかんだで何処からか話が来るんだよなぁ。安形くんが乗り気じゃないから、大体は断ってるんだが」
「そうなんだ・・・ホント、知らなかった・・・・・」
 応える自分の声が、遠く感じる。安形の歳を考えれば何の不思議もない事なのに、足元がふらつきそうになった。
「部屋に上がるね」
 そう言って両親には平静を装いながら、佐介は居間を後にした。贈られた万年筆を握り締め、まだ呆然としたまま佐介は部屋に戻る。手の中のそれがやたら重く感じながら、視界に入った開けっ放しの遮光カーテンに気付き、フラフラとそこへと歩み寄った。カーテンを引こうとして、ふと手が止まる。日中も閉めたままのレースのカーテンの向こうに、安形の部屋の明かりが透けて見えていた。
――何で、
 取り繕う相手も居ない部屋で、佐介の唇がぐっと横へ結ばれる。
――何でボクは、安形さんがずっと側に居てくれるなんて思ってたんだろう・・・
 今、視線の先に見えている明かりも、後半年もすれば灯る事は無くなる。もし灯ったとしても、それは見知らぬ誰かの明かりでしかない。
――ずっと『このまま』が続くなんて・・・
 この先も隣に居続けてくれると、信じて疑っていなかった。変わらずに有り続けると思っていた関係は、瓦解して崩れ落ちた。
「今日の事が無くても、いつか安形さんは結婚して、」
 自分で声に出した言葉に、佐介の眉が歪み始める。咽の奥から競り上げる何かを感じて、佐介は気が付いてしまった。
「どうして今、気付かせるの?」
 明かりに向かって問い掛けた所で、そこでは影一つ動かない。代わりにゆらりと、佐介の視界が揺らいだ。
「こんななら、ボク一生気付かないままでいたかった・・・」
 何のいらえの無い独白を焼け付くような喉の奥から絞り出せば、堪らず涙が零れ落ちる。右手に握ったままの重い贈り物を胸に引き寄せると、止めどなく流れる雫が頬を伝ってそこに染みを作った。
「どうして・・・」
 佐介は呟きながら、歯を食い縛って目を伏せる。左手の指先が震えながら、カーテンの皺を深くした。
「・・惣兄ちゃん・・・・・」
 か細い呼び掛けに、きっと安形は気付きもしない。それでも声を上げて泣けるほど子供ではなく、佐介は明かりが消えるまでずっと、嗚咽を押し殺して泣き続けた。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 仕事を終えて帰宅した安形は、いつも通り自室へと足を運んだ。首元を締めるネクタイを煩わしそうに外し、ため息をつきながら小さな座卓に放り投げる。
「思った以上にあっさり三十路になったな」
 ため息の原因の一つを口に出してみれば、それはずっしりと肩に乗し掛かり、安形は苦虫を噛み潰したような顔で胃の辺りのシャツを掴んだ。あーあ、とポツリと漏らし、重くなった背広を脱ぐ。それを掛けようとハンガーを手にした所で、チャイムの音が家に響いた。
「佐介か? 開いてるから、上がれよ」
 出迎えもせず、安形は声だけを玄関に向ける。誕生日を迎える今日、プレゼントを渡したいから、と佐介から連絡が入った。どう返事をするべきか迷ったものの、きっと今日が最後になると思った瞬間、承諾の返事をしていた。
――我ながら、未練がましい・・・
 自分の行動に苦笑しながら、安形は掛け終わった背広から手を離す。そこで全く返答が無い事に不審を抱き、来訪者が別の人間なのかと慌てて安形は振り返った。
「えっ!!」
 目に飛び込んできた光景に、安形は思わず声を上げる。いつの間にか音も無く、部屋の入口に佐介が佇んでいた。それだけでなく、佐介自身の姿にも安形は目を見張る。
「・・・・・・髪、切ったんだ」
 脱いだ上着を腕に掛けて安形を見詰める佐介の髪は、昔のように短かった。大分見慣れた眼鏡も、今は掛けていない。
「はい。眼鏡もコンタクトにしました」
「はは・・・何か、」
 安形の顔が柔らかく弛んだ。
「昔に戻ったみてぇだな。懐かしい・・・」
 心からそう思いながら、安形は目を細める。少し下がった眉が、笑顔を泣きそうな表情に変えていた。
「逆です」
 対する佐介の表情は、酷く固い。緊張が見て取れるほどに顔を強張らせ、真剣な眼差しで安形を見上げていた。
「昔に戻るんじゃなく・・・これから変わるです」
 佐介の言葉に、安形が小さく首を傾げる。そんな安形の反応に、佐介はぐっと息を飲んだ。一瞬だけ安形から視線が外れる。けれど、すぐにまた琥珀の瞳が安形を見据えた。そこに湛えられた決意に言葉を失う安形の目の前で、佐介の腕から上着が滑り落ちる。そこで初めて、安形は佐介の手が震えているのを知った。
「ボクはずっと、安形さんは家族だと思ってきました。家族なら、いつまでも一緒に居られると思ってましたから」
 良く聞けば、声も僅かに震えている。それでも言葉を途切れさせる事無く、佐介は安形に一歩近付いた。
「誕生日のあの日、それが間違いだって知りました。たとえ家族でも・・・安形さんが本当の兄でも、いつかはボクの側から離れていく日がくるんだって」
 佐介の足が動く。二歩、三歩と安形へと身体が近寄った。未だ言葉全てを理解出来ず、気圧されて安形が後退る。
「今日は、お願いがあって、来ました」
 また一歩近付いた身体に、安形も同じだけ下がった。更に近付く佐介から逃れようとした安形の脚が、後ろに備え付けてあったベッドに当たって止まる。後の無いままに、距離が詰められた。
「何とも思われてないのは・・・分かってます。だけど、」
 佐介の指が、身に付けているシャツのボタンに伸びる。きっちりと止められていた一番上のボタンを、細い指が外した。
「待て・・・」
 目の前でシャツの隙間から見えた肌が、いつかの夜に目にした濡れたそれと重なる。その時と同様に逃げ出そうと、安形は掠れた声で制止の言葉を響かせた。それでも佐介は止まらない。
「何処か遠くに行ってしまうなら・・・いつかは誰か別の人のものになるなら、」
 言葉と共に指先が動き、二つ目のボタンを外した。
「やめろ・・・」
 ベッドに足止めされているのも忘れ、思わず更に後退った安形の身体が傾ぐ。
「今日だけでいいから、ボクの事、恋人にしてください」
 ベッドへ腰から倒れて座り込んだ安形に、決定的な言葉が降った。動けないまま佐介を見上げる安形の膝の上に、佐介の身体が圧し掛かる。上体は僅かに距離を置いて触れた脚が、柔らかさと小さな震えを安形に伝えた。
「佐介・・・っ!」
 堪らず叫んで上半身を後ろへ反らした安形に、見上げてくる瞳が揺らぐ。耐えるように歯を食い縛った後、佐介の唇から熱い息と言葉が零れた。
「気持ち悪いって、思われるの、分かって、ます・・っ・・・けど・・」
 息を次ぐ音が、言葉の合間に混じり始める。溜まった涙で琥珀の輪郭が歪み、それを押し留めようとキツく歯列が噛み合わされた。呼応して強くなる震えに、指先が三番目のボタンを弾く。それでも必死に指を絡め、佐介はボタンを外した。布を止める楔が外されるたび、曝されていく滑らかな肌。緊張からか羞恥からか、そこは薄く色付いていた。
「・・好きになって、なんて・・言いません・・・嘘で、いい、でっ・・す、から・・・」
 最後のボタンが外される。端を掴んで胸を突き出した身体から、するりとシャツが滑り落ちた。まだ幼さの残る緩やかな丸みを帯びた肌が、安形に差し出された。
「・・・ちょっとでも、ボクの事・・可哀想だって思うならっ・・おね、が・・ぃ・・・・恋人みたいに・・・・・して」
 拒絶される事に怯えながらも、佐介は安形の胸元を掴んで詰め寄ってきた。恐怖と緊張と羞恥とにその目尻が震え、涙が一筋の線を引く。再度、お願いです、と響いた声を聞いた瞬間、安形の中で自分を律していた何かが弾けた。そのまま佐介の肩を掴むと、乱暴にベッドへと身体を引き倒す。
「あっ・・・!」
 突然の事に上がった声に気付く事も出来ず、安形は声を追うように唇を重ねた。安形の見る事の敵わない瞼の向こうで、驚きに目を見開いていた佐介が、事を理解してゆっくりと瞼を落とす。迷うように指先を躍らせながら安形の背中に廻すと、しっかりとシャツを握り締めた。
「・・っ・・・ふっ・・・んんっ」
 触れていた柔らかさを少し離し、呼吸の為に薄く開いた佐介の唇の隙間から、舌を差し入れる。口付けすら初めての佐介は、戸惑って身を捩った。構わず安形の舌先が佐介の舌の側面をなぞる。その感覚に身体を震わせつつも、佐介は同じようにそっと安形の舌に自分のそれを触れさせた。
「・・ん・・・ふぁ・・はっ・・・・」
 舌の絡まる湿った音を聞きながら、安形はたどたどしく動く舌を捉えて蹂躙する。息の仕方も分からず荒くなっていく熱い吐息が顔先に触れて、安形は一度唇を離した。少し身体を引いた視界の中で、佐介は肌を晒したまま息を荒げて必死に呼吸する。一度閉じられた瞳からは涙が流れた跡が残り、捩られたままの身体は上気していた。安形の手が、そっとそこに伸びる。触れた肌は汗ばんでいて、手を滑らせると細かく震えた。
「・・・・っう、はぁ・・・」
 声が漏れ、薄らと瞳が開く。新たに涙を流しながら、佐介の視線が安形を探した。喘ぎ以外の何かを言おうと戦慄く唇に魅入り、安形は流れる涙を舌で拭う。湿った熱い感触に、佐介はまた目を閉じて肌を震わせた。安形はそのまま舌を這わせ、首筋をなぞる。細く折れそうな首が、擽ったさに似た快感に小さな震えを繰り返すのが舌を通して伝わってきた。舌だけでなく唇を押し当て、吸い上げてみれば、小さな身体が反応して跳ねる。その動き一つ一つが安形の本能を煽り立て、佐介の肌に幾つも印を残した。
 そうして所有の証を刻みながら、安形は右手を滑らせる。左手も背中に廻し、力を込めて撫でると、皮膚の下で固く成り切っていない筋肉が手のひらを押し返した。
――ああ、まだ柔らかいんだな・・・
 大人とは違う、発達段階の身体の感覚。蠢かす右手にも、腰の細さが伝わる。
――オレなんかと違う・・・小さい・・・・・
 そこまで考えた安形の背中に、爪が立てられた。震えながら安形の身体にしがみ付く指先も、細く、触れた部分は小刻みに震える。
「・・・・・・き、」
 安形の耳に、声が飛び込む。
「・・そぉに・・ちゃ・・・・す、き・・・・・・」
 呼ばれた名前と声の震えに、安形は一瞬にして我に返り、佐介から身体を離した。唐突に離れた温もりと振り解かれた指先に、佐介が驚きを瞳に湛えて安形を見る。
「あっ・・・・・・」
 呆然としながら、安形は自分の頭を右手で掴んだ。自分の組み敷いた一回りも二回りも小さな身体。乱雑に乱れた衣服と、肌に散る紅い刻印。
「オレ・・・・」
 自分の仕出かした事を目の当たりにして、安形は後悔に下唇を噛む。伏せられた安形の顔を見て、佐介は恐る恐る手を伸ばした。
「・・・・・っ!!」
 自分の理性が再び消える事に怯え、安形の身体が激しく佐介の手から逃げる。その動きに、佐介の手が止まった。耐えるように唇を噛み締め、瞳に涙を浮かべながら、そっと手を引き戻す。
「ごめんな・・さ・・・・」
 途切れ途切れに、言葉が響いた。声を絞り出す唇は、震えていて上手く動かない。
「・・・もぉ、してなんて、我が儘言わなっ・・から、せめて・・・」
 言葉と共に涙が零れ始める。嗚咽を含む声を響かせ、佐介は身体を震わせながら縮込ませ、縋るように安形に視線を向けた。
「・・ボクのこと、嫌いにならないでぇ・・・・・」
 口元に拳を宛てて、必死に安形に訴え掛ける。自分の腕に絡むだけのシャツの袖を握り締め、嗚咽を押し殺す佐介に、安形の頭が僅かに左右に振られた。違う、と吐息に近い声が佐介に降り注ぐ。
「違う・・・そうじゃない・・・・・そうじゃないんだ」
 涙を流し続ける佐介の姿に、胸の奥が悲鳴を上げた。その痛みに突き動かされて、心の底に仕舞いこんでいたはずの想いが唇から洩れ出る。
「駄目なんだ、オレじゃ・・・好きなだけじゃ、駄目なんだ・・・お前は普通に幸せにならなきゃ・・・」
 何度も頭を振って、安形は否定を繰り返した。安形の言葉が告げる意味合いを理解した佐介の目が最初は驚きに見開かれ、それが徐々に険しく歪んでいく。
「・・オレには、お前の人生奪う権利、ねぇんだ・・・っ!」
 強く吐き出された安形の台詞に、ギッと歯を食い縛り、佐介は上半身を引き起こした。安形のシャツの胸の辺りを握り締め、顔を近付けて叫ぶ。
「分かんない! 惣兄ちゃんの言ってる事、全然分かんないっ」
 悔しそうに歪められた眉の下で、怒りを湛えた琥珀が安形を射抜いた。
「普通って何? 奪うって何?! ボクは惣兄ちゃんが好きなのに・・・惣兄ちゃんがボクの前から居なくなるだけで、こんなに悲しいのに・・・・・」
 叫びが響くたびに、琥珀から涙の飛沫が散る。それでも安形は息を飲み込み、佐介をキツく睨み上げた。
「知らねぇだけだ! 普通じゃねぇってのが、どれだけ・・・どんな思い、すんのか」
 逃れるように後ろへ傾いだ背中から、安形の過去がじわりと忍び寄る。言葉にしてハッキリと言われる事もなく、ただ向けられる瞳がお前は異質だと語っていた。笑いながら手を上げて混じろうとした群れは、容赦無く自分を弾き出す。群れに混じれない孤独を、安形は誰よりも知っていた。
「オレなんかが、お前にあんな思いさせられるかっ!」
「なんかがなんて、言わないで!!」
 安形の言葉尻の卑屈さを、佐介が叱咤する。その顔に浮かぶ悔しさは、何も気持ちが伝わらないためだけでないと、次の台詞が安形に知らしめた。
「ボクが一番好きな人を、悪くなんて言わないで・・・」
 詰め寄るために握り締めたシャツに縋り付き、身体を押し付けて佐介は安形を見上げる。
「惣兄ちゃんの言う普通って、ボクには分かんないかもしれない。けど、」
 祈るように、瞳が瞬いた。また一筋流れた涙が、滑り落ちて佐介の胸元を濡らす。
「その普通にだって、傷付く日があるって知ってる」
 佐介は静かに、安形の胸元に頭を寄り添わせた。安形の鼓動を間近で感じ、目を伏せて語り続ける。
「なら、ボクは惣兄ちゃんが、いい」
 身体が安形に預けられ、重みが胸に圧し掛かった。
「傷付くなら、世界で一番好きな惣兄ちゃんに傷付きたい」
 押し倒した時にそうされたように、佐介の腕が安形の背中に廻される。抱き締められる腕の熱さに、心の中の何かが溶けていく。
「傷付いて、泣いたりもするだろうけど、ちゃんと受け止めるから・・・それぐらい、強くなる」
 背中に張り付いたままの昔ごと、抱き締められた気がした。ああ、と呻くような声が安形の口から漏れる。
「ボクはそれくらい、惣兄ちゃんが好き・・・ねぇ、教えて。惣兄ちゃんはボクの事、どう思ってるの?」
 華奢な身体で、佐介は安形の全部を受け止めて、なお問い掛けてきた。愛おしくない訳が、ない。認めた安形の身体から、最後の意地が崩れて落ちた。
「・・・・・・何だよ。人がこれだけ悩んで我慢したのに」
 見据えた先の不安と脅威に晒したくなくて遠ざけた子供は、子供故の強さで全てを撥ね退けて安形に拳を叩き付ける。その強さの前には、自分の躊躇いは酷く矮小に思えた。
「オレがただ、躊躇ってた駄目なヤツみてぇじゃねぇか・・・」
 もしもこれに勝ち負けがあるのなら、完全に自分の負けだと、安形は感じる。その想いのままに、安形は佐介の頬に手を添えた。
「・・・オレも、好きだよ」
 全身全霊で言葉に聞き入る佐介の耳元に、唇を寄せて囁く。
「愛してる」
 声を聞かせた瞬間、佐介の身体が大きく震えた。
「ほん・・と・・・? 本当に・・・・・?」
 おず、と佐介が安形に視線を向ける。それに柔らかく微笑みながら、安形は答えた。
「本当だよ。ずっと前から、いつからか分からないくらい前から、好きだよ」
「あ・・・ぅ・・あ・・・・」
 佐介の唇が歪み、嗚咽が零れる。幾度と無く流された涙が、意味を変えてまた頬を濡らし始めた。廻された腕がキツく安形を抱き、爪を立てながら縋り付く。涙の隙間から何度も好きと繰り返された言葉に、安形は佐介の身体を抱き返しながら、その度に応えを返した。
――ありがとう・・・
 腕の中で泣き続ける幼いけれど強い心に、心で囁く。大切にそっと、抱き寄せながら。

 撫でていた頭が、ピクリと動く。嗚咽は疾うに収まっていて、このまま眠ってしまうかと思っていた安形は、ゆっくり腕を降ろして佐介の顔を窺った。佐介も安形の胸から顔を上げ、安形を見返してくる。
「・・・何回目だろうな」
 ふっと小さく笑いながら、安形は微かに残っていた涙の跡を指の腹で拭った。頬に触れられ、佐介は擽ったそうに片目を閉じる。
「何だか最近、お前の涙拭ってばっかな気がする」
「・・・・・・ごめんなさい」
 安形に触れられて嬉しげに微笑んだ佐介の顔が、俄に曇った。謝る佐介に苦笑を浮かべ、安形は軽く頬に唇を落とす。
「泣いた後に笑ってくれりゃ、別にいいさ」
 そのまま瞼や額にも口付けられる中、やはり佐介の顔は浮かないままだった。萎んだままの表情に、安形は、どうした?、と声を掛ける。
「泣かないでいようって思うけど、ボク、後一回だけ泣くと思う・・・」
 安形の背中で、佐介の指がきゅっとシャツを握り締めた。
「それって、どう言う・・・」
「惣兄ちゃんがベトナム行っちゃう日は、多分、泣く」
 意味を問うた安形に、既に泣きそうな顔で佐介は答える。そんな佐介の目の前で、安形は表情を固めた後、気不味そうにそっと目を逸らした。
「惣兄ちゃん・・・?」
 場にそぐわない安形の行動に、佐介は不安げに安形の名を呼ぶ。安形は目を逸らしたまま、脂汗すら掻きながらボソボソと言い辛そうに言った。
「あの、それな・・・・・・ポシャった」
「え・・・?」
 言葉の意味が理解出来ず、佐介の表情も強張る。安形はチラリと目の端で佐介を見ると、不自然な笑顔を作って再度口を開いた。
「取引自体に問題は無かったけど、取引相手に問題が有ったみたいで・・・相手が警察に捕まって、取引が頓挫して・・・」
「え? ええ?!」 驚きの余り、佐介は安形の身体から手を離し、まじまじと安形を見る。
「それって・・・惣兄ちゃん、このまま日本に居るって事?」
「当分は、そう」
 佐介の視線に居た堪れない気分になりながら、安形は頬を人差指で掻いた。余りの事にパクパクと口を開け閉めしている佐介の格好を見て、うっと言葉を詰まらせる。まだシャツを脱いで上半身を露にしている姿に、改めて赤くなりながらも、安形は腕に絡まったままのシャツを佐介の身体に掛ける。
「あっ・・・!」
 安形の行動で自分の格好を思い出し、佐介は慌ててシャツの前を合わせた。その顔は真っ赤に染まっている。
「じゃあ、ボク、今日・・・惣兄ちゃんが行っちゃうって思ったから、ここまでしたの、に・・・え? ウソ・・・・・」
 安形に告げた自分の発言の数々が頭を過り、佐介はそのまま自分を抱き締めるようにして身体ごと顔を伏せてしまった。恥ずかしさからふるふると震える丸まった身体を見て、安形も申し訳なさそうに弁明を始める。
「いやぁ、分かったの、今日でさ。言うタイミングも逃しちまって」
「・・・・・・・・・・・・恥ずかしい」
「だよなっ! 悪かった!!」
「・・・・・・だけど、」
 見えないと思いつつも頭を下げる安形の耳に、佐介の言葉が続いた。
「行かないんだよね?」
 身体はまだ伏せたまま、そっと顔だけを上げて佐介は上目遣いに安形を見る。若干、恨みがましい物も感じるが、確かに瞳には安堵の色を浮かべていた。
「遠くに行ったりしないんだよね?」
 まだ少しばかり不安そうな声音に、安形の口元が弛む。軽く佐介の頭を撫で、最後の不安を取り除いた。
「行かないよ」
 その言葉にほっと息をつく佐介の頭を、安形は撫で続ける。切ったばかりで短い髪が指に緩く絡まるのを感じていると、その向こうで佐介の瞳がまた潤んでいるのが見えた。
「まぁーた、泣くし」
 安堵の涙と知って、安形は嬉しげにニッと笑う。からかう口調を感じ、佐介はムッと拗ねて唇を結んだ。
「惣兄ちゃんが泣かしたんじゃない」
 ベッドに両手を突いて、佐介は上半身を起こす。安形に詰め寄るように少し身体を前へ進め、じとっと安形をねめつけた。
「責任、取って」
 そう言って、佐介は瞼を閉じて顔を上向かせる。溜まっていた涙が瞳の端から零れたのを、安形は頬に手を添えるようにして指先で拭った。
――この先、こんなふうに泣く事も無くなるだろうな。
 もう片方の涙には、唇を添わせる。ん、と小さく声が溢された唇が、何を待っているか自然と分かった。
――けど、もしまた泣くような事があったら、
 音も無く静かに、唇を重ねる。合わさったそれは、自分の物より熱い。
――きちんと涙を拭える距離に居るから・・・
 今日、自分を抱き止めてくれた腕がそうであったように。いつか同じだけのものが返せるだけ、近くに。そう思いながら、相手の熱を感じ続けた。

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2012/08/14 UP
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