「知らねぇし・・・もう わかんねぇよ。何もかも・・・頭ん中 グチャグチャで・・・っ」
 叩き付けられた背中が痛むのを感じながら、希里は俯いて言葉を吐き出した。
「・・・オレから、あの人と同じ匂いがするなんてアンタが言うから・・・・」
 吐き出した言葉に咽が焼け付く。嗚咽になりそうになるのをギリギリで抑えても、言葉自体が止まらなかった。
「・・・・・・少しぐれーは代わりに成れるかもって」
――代わりになったら、
 出掛った言葉を、希里は歯を食い縛って飲み込む。
――一瞬でもオレの事、佐介様みたいに見てくれるかもって・・・
 言葉にする事で気付いてしまった自分の本心に、胸の奥から痛みが込み上げた。それを覆い隠すように、希里は胸元に爪を立てる。震える指先が、鎖帷子を掠めた。
――言えるかよ、そんな事っ!!
 自分の内に眠っていた感情をはっきりと自覚して、更に希里は歯を食い縛る。自分の行動の浅ましさよりも、名を持ってしまった想いの丈に押し潰されそうで、きつく安形を睨み上げた。
「あの人にとってアンタの存在は唯一無二で・・・でか過ぎるんだっ! オレじゃアンタの代わりになれねぇ!! ならせめて、オレが佐介様の代わりに、って・・・」
――好きだ、とか・・・これ以上、コイツ、苦しめるような事・・・・・・
「アンタがこのまま立ち止まってっと、佐介様がずっと苦しむんだよっ!!」
――言えるか!
 そう吐き捨てる事で頭をもたげる感情を奥底に留め、希里は全力で安形を睨み付ける。それが功を奏したのか、安形は微かに眉を歪めた。
「主の為に身を捧げます、か・・・?」
「・・・そうだよ」
 安形の皮肉な笑みに痛みを覚えながらも、心は何処か安堵する。それでも切れる寸前の糸のような空気の中、安形の手が希里の顎へと伸びた。そこを乱暴に掴むと、安形は希里の顔を覗き込む。
「分かってんだろうな?」
「オレだってバカじゃねー・・・何されるかくれぇ、分かってんだよ」
「違ぇよ・・・代わりは代わりでしかねぇって事を、だ」
 囁くように言う安形の目が、恐い程に希里を射抜いた。言葉の意味を解するよりも先に、その目の光が安形の心中を希里に教える。
「・・・・・な、んで、」
 声が掠れる。咽の奥が痛みを訴える。唇に登る程に苦味が、すぐそこまで押し寄せる。
「なんでっ、気付くんだよ!!」
 間近に迫る瞳は嫌悪などでなく、悲しみを湛えていた。目が口程に物を言うとの言葉がこれほどに合う瞬間などないと、希里は思う。押し殺したはずの想いが、一番知られたくなかった相手に見抜かれた事に、希里は悔しさから歯噛みした。
「そりゃぁ・・・」
 言い掛けた安形の言葉が、淀む。気不味げに一瞬目が逸らされ、それでも再度安形は希里の真っ直ぐに見詰めた。
「・・・そう言う目で見られんのは、初めてじゃねぇ」
「・・・・・・・・・」
 誰に、と問う事も出来ず、希里は唇を真横へと結ぶ。泣く寸前まで眉を歪め、それでもどうにか涙だけは押し留めて。
「止めるなら、今の内だ」
 言葉と共に安形の顔が近付いてくるのを、希里はただ自然に瞳を閉じて迎え入れた。先刻は自ら合わせた唇が、今度は相手から重ねられる。たったそれだけの行為に、沸き立つ程の歓喜が希里の胸に走った。
「・・んっ・・・ふぁ・・」
――すみません・・・佐介様・・・・・
 口腔を蠢く舌に酔いしれながら、心の中で唯一無二の主に許しを乞う。
――これからこいつに、貴方を裏切らせます・・・・ ・
 裏切りなど当たり前の責でなく、裏切らせる事すら、己の責として心に刻んだ。離れ行く唇に名残惜しげな瞳を向ければ、応えるように安形の目も開く。安形の視線が希里を捉えた瞬間、瞳の奥が微かに揺らいだ。
――あぁ・・どうしたって顔は違うよな・・・・
 口付けの後に目にした顔がいつものそれでない事に安形が何を感じたか、希里には知る術もない。それでも代わりになるには髪の色も瞳の色も違い過ぎている事だけは分かり、希里は静かに自分の懐に手を差し込んだ。奥に押し込んでいた布に手探りで触れると、それを抜き出す。衣擦れと乱れた自分の息遣いだけが、耳に響いた。
「キ・・・・・」
「希里じゃねぇ」
 そう言いながら、希里は手にした布で安形の目を覆う。自分だけには目に映る、端の裂かれた手拭いが心に痛かった。頭の後ろで手拭いを結び、そのまま安形の首に腕を絡めると、希里は耳元に唇を寄せる。
『安形さん・・・』
 声色を使って欲して止まない人の声を響かせれば、安形の指先が驚いたようにピクリと跳ねた。僅かな間を置いて、希里の身体が強く抱き締められる。
「佐介・・・・・っ!!」
 掠れて震える声が、どれだけ相手を求めているか希里に知らせた。続け様に引き寄せられ、乱暴に合わせられた口付けにも。先と違う貪るような唇が、想い人と自分との違いを明確にしていく。
「・・っ・・・ん・・」
 離れた唇に吐息を吐き出す間もなく、首筋に湿った熱が降りてきた。触れられただけで震える肌を吸い上げられ、希里の唇から熱い喘ぎが漏れる。乱れていく服の下を這う指先が胸の一点を擦り、思わず希里は声を荒げた。
「・・んっ・・・く・・・・」
――ああ、違う・・・
 感じた快楽に押し流されて漏れた自分の声に、希里は小さく頭を振る。激しく動く指に身体を仰け反らせ、息を荒げながらも流される一歩手前で欠片のような理性を保った。
――思い出せ・・あの人が、どんな風に喘いでたか・・・・
『・・あっ・・・ん・・・・あが、たさっ・・』
 一時、微かにだけ見た記憶を手繰り、指先に身体を摺り寄せて吐息交じりに安形の名を呼ぶ。愛おしい人を自ら貶めたあの瞬間の記憶と心が一瞬胸を駆け抜けて、別の痛みに目頭が熱くなった。
――泣くな・・・
 安形の首に廻した腕に、希里は力を込める。肌を滑り落ちたもう一方の安形の手のひらに固く成り掛けた身体を制止して、脇腹を撫ぜる感覚に自ら軽く脚を開いた。
「・・・佐介・・佐介・・・・っ!」
『ふっ・・あぁ・・・・あ、がたっ・・さん・・・』
――泣いたり、するな・・・っ!
 自分の物で無い名を呼ぶ声に、安形の襟にきつく爪を立てる。切り刻まれるような痛みに、熱くなる目頭と咽の奥の苦味と必死に戦う希里の下肢に、安形の指が触れた。
『あっああっ!』
 安形の指が乱暴に先端を抉り、希里は身体を仰け反らせて大きく喘ぐ。他人に触れられるのは初めてのそこに強い刺激を感じて、快楽に身が震えた。
『・・んっ・・・あっ・・・・』
 それでも声色を保ち、安形の手に自身を摺り寄せながら、希里は唇を安形のそれに触れさせる。胸元の飾りに触れていた手が一気に背中に廻り、引き寄せられて唇を貪られた。心の底から欲する深い口付けに、希里は心ごと安形へと身を委ねる。けれど、頭の奥の冷静さが細い針のように胸の奥を苛んだ。その間も希里自身に触れ続ける触れた手のひらと口腔を責める舌先に、徐々に希里は追い上げられていく。
『あっ・・んっ・・あ、ああっ!』
 初めて知った他者の手の感覚に、あっさりと希里はその中に精を吐き出した。絶頂の快感だけではなく心を占める何かに、大きく仰け反って身体を震わせる。脈打ちながら吐き出される自身からの液に何処か安堵に似た感情を覚えながら、希里は何度も荒く息をついた。身体の力が抜けて後ろへと倒れそうになった身体を、安形の腕が支える。そのまま軽く角度を付けられ、更に開いた希里の脚の間で安形の指先が後ろへと動いた。
「・・・・・・?」
 霞の掛かった思考の中で、希里はその意味が解らず安形に視線を向ける。瞬間、蠢いた安形の指と走った痛みだけを、希里は受け止めていた。
「痛っ・・やぁっ!」
 思わず腕を突っ撥ねて、希里は痛みを拒絶する。その行為の意味を悟ったのは、痛みに震える身体から労わるようにゆっくりと指が引き抜かれた後だった。
「あ・・・・・」
 漏れた震える声が自分自身の物だと気付き、ぐっと唇を噛み締める。慌て騒めぐ心を落ち着かせながら、掠れる息で声を響かせた。
『・・・・・安形さ』
「もう・・いい・・・・」
 言い終わらぬ内に、安形が口を開く。希里の身体が壁へと預けられ、先刻まで感じていた熱が離れていった。希里が再び何かを言おうとするよりも先に、安形は自分の目を封じていた手拭いを取り去る。そこから現れた瞳は泣きそうに歪んでいて、けれど唇は微かに笑みを浮かべていた。
「悪ぃな・・・これ以上は、無理だ・・・・・」
「・・・・・・っ!!」
 安形の言葉に、希里の唇が戦慄く。代わりにすらなれない。そう思うと、心の奥が咆哮を上げた。
「ちょっと驚いただけだ! 次は・・・上手くやるっ!!」
「・・・・・そう言う、事じゃねぇ」
 苦笑を浮かべながら、安形は汚れていない手で希里の頭を撫でる。一瞬、手拭いを握る手に視線を落とすと、微かに苦笑した。
「これ・・・あん時のだな」
 端の裂かれた布切れに、安形は懐かしげに眼を細める。そこから目を離すと、希里の顔を覗き込んで諭すように続きを言った。
「オレはお前ぇも気に入ってんだ。『それ』がお前ぇの望みなら、応えてやろうって思ってた。だけど、」
 安形の手が頭から離れ、希里の手首を掴む。そのまま脚の間に触れさせられた手のひらからは、少しの滾りも感じられなかった。それに目を見開いた希里も、次の瞬間には安形の言わんとする所を知り、悔しさに顔を歪める。
「椿じゃねぇと駄目だっただけだ・・・すまねぇ。オレにはやっぱり、アイツだけだ」
 安形の言葉を聞いた瞬間、カッと希里の頭に血が昇った。自分の今の惨めさなど吹き飛ばす怒りに背を押され、思うままの言葉を口にする。
「今頃っ」
 右で拳を作って安形の胸に叩き付け、希里は叫んだ。
「今頃気付いたのかよ! ずっとずっと、そうだったろうが!! だから佐介様も苦しんで、アンタもっ」
 左でも拳を作り、安形の手を振り解いて更に叩き付ける。繰り返し胸を叩かれながら、安形はそれを止める事も無く、変わらぬ表情で希里を見詰め続けていた。
「アンタも苦しんでんだろうが! ずっと、それ見てたんだぞ! 遅いんだよ! 遅過ぎんだよ・・・っ!!」
 喚きながら何度も拳を叩き付け、それでも希里は涙を堪える。意地に近い想いを寄す処に、子供のように何度も叫び続けた。
「佐介様もアンタも、早く戻ってくれよ・・・じゃなきゃオレも動けねーんだよ・・・・・・っ!」
「ああ・・・」
 肯定を示す返事に、漸く希里は拳を止める。動かす事をやめた拳は、微かに震えていた。涙を流すまいと耐えれば耐える程、その震えは強くなる。拳を見詰める安形の顔は酷く痛々しく、耐え兼ねるように静かに声が吐き出された。
「・・・いいんだよ」
 震える拳に手を添えて、安形は希里に告げる。儘ならない心故に儘ならない身体に、誰より自身が傷付きながら。
「ここまでさせられたんだ。だから、お前ぇは泣いてもいいんだよ」
 酷く優しく響いた声は、確かに自分に向けての言葉。そう感じた瞬間に、希里の中で最後の一線が脆くも崩れ去る。
「いいんだよ。もう、泣いちまっても」
「あ・・・・・」
 抑え付けていた熱い想いが、込み上げた。視界がゆっくりと歪み、耐え兼ねた涙が頬を零れ落ちる。
「あ、あ、ああ、あっ!!」
 今までの想いそのままが、涙と同時に咽を迸った。安形の羽織を握り締め、獣のように泣き声を上げる。何も見えないままに泣き叫ぶ中で、希里の脳裏を主の姿が過っていく。
――初めての恋は、知った瞬間に終わって、
「うぁあああーっ、ああああっ!!」
 心の底から声を上げる希里の身体を、安形の両手が抱き締めた。その温もりが、痛みと安らぎとを同時に希里に与える。
――二度目の恋は、知るより前に終わってて・・・救いようもねぇ・・・・・
「本当に、すまねぇ・・・」
 強く抱かれるその腕は、自分の物に成り得ない。それでも、希里はそこに身体を預けて今は泣き続け、縋り続けた。
「・・・お前ぇの想いには応えてやれなかったけど、せめて、願いは叶えてやるから・・・明日、必ず椿に会いに行くから・・・・・・」
 子供のように耳元で優しく囁かれる言葉に安堵して、また新たな涙が零れ出す。
――けど、二人が元に戻るんなら、
 今度はそれを堪える事は微塵も考えず、心のままに涙して安形の身体に腕を廻した。強く羽織の後ろを握り締めて、一時だけの温もりを独占する。
――もう・・・それだけで、いい・・・・・・
 抱き締めて、抱き締められながら、希里はただ涙が枯れるまで泣き続けた。

   ≪終幕≫




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