雪月花【後】

 詰所の端まで辿り付いて漸く、希里は膝を突いた。唯、逃げる為だけに後先を考えずに全力で駆けた所為で、息が酷く乱れている。息苦しさに口元を覆う布を引き下げれば、割れた爪が唇に当たり、傷を作った。
「く、そっ・・・!」
 痛みに苛立ちの引き金を引かれ、拳を柱へと叩き付ける。流れ落ちる汗に血が混じり、希里の膝に染みを落とした。
――ずっと見守ってきたのにっ・・・
 悔しさにきつく目を閉じ、歯を食い縛る。何もかもを知っていると思っていたのに、予想だにしなかった全く知らない別の姿。知らなかったと言う事実に、裏切ってしまった想いに駆られた。何よりも、
――オレの名前と・・・
 甘い嬌声が響いた瞬間に感じ掛けた反応が、明確に主人を裏切っている。心の何処かで高嶺の花と諦め、無意識の下に押し込んでいた想いが、その花を容易く手折られたのを見た瞬間、劣情と共に沸き起こった。
――心も、身体も、どっちも裏切った・・・
 喚き散らしそうになるのを、唇を噛み締める事で留める。口の中に広がった血錆の味に、吐き気が込み上げた。
――血反吐でも吐いた方が、よっぽど増しだ。
 それでも、と柱に爪を立てながら、希里は思う。
――あの方は、オレが守る・・・・・・
 何が裏切ったとしても、そう決めた自分の心だけは裏切れない。たとえ自分が椿の側に居るのに相応しく無い人間だったとしても、
――守るんだ・・・
 反噬と罵られようとも、それだけは、と固く心に。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 乱れた着物もそのままで、ぐったりと自分に寄り掛かる椿の髪を弄びながら、安形は愛おしげにそれを眺めていた。
「・・・・・・何、見てるんですか」
 まだ身体に情事の名残を残したまま、椿が不満げに呟く。ん、と小さく返事をしただけで、安形は睦言染みた口付けを椿の髪に施した。
「全く、日も高いのに・・・」
 ぶつぶつと文句を漏しながら合わせを正す椿の様子に、安形は希里との攻防を知られてない事を確認して安堵する。
「ちょっと、今日は用があるからな。夜は可愛がってやれねぇし?」
「ばっ・・・」
 椿の拳が振り上げられ、安形の胸に叩き付けられた。ごほっと安形は咳き込みつつも、その手首を掴んで拳に舌を這わせる。瞬時に赤く染まった顔に、安形は満足そうな笑みを漏らした。
「面白い話が聞けそうでな」
 安形の言葉に椿の顔が真顔に戻る。それならボクも、と椿が告げた瞬間、駄目だ、と笑みを残したままで即答された。
「オレ一人で来いってのが向こうさんの意向でな。今日は家で大人しくしてろ」
 最近は余り家にも戻ってない椿に、安形はきっぱりと言う。不満げに歪められた顔を目にし、安形はその耳元に唇を寄せた。
「オレの言う事、聞けねぇのか?」
 低く響いた声に、椿の身体が強張る。その響きに命令の意思を感じ取り、渋々椿は分かりました、と答えた。
――こんな荒っぽい連中の中に、夜中に一人、置いてけるかよ。
 結局ここに居るのは、火付やら盗賊やら、道理など分からない人間を相手している連中なのだ。世の中の人間からしてみれば、寧ろヤクザ者と変わり無いと言われている。
――今日ばっかは用向きが変えれねぇんだから・・・あんま、心配させんじゃねぇ。
 機嫌を取る様に瞼に口付けながらも、安形は心中でぼやいた。安形が手を出している事実が抑止力にはなっているが、それでも隙を窺っている人間も居り・・・何よりも当の本人が隙だらけなのだ。
「下手人捕える時は、連れてってやるからよ」
「当たり前ですっ!」
 いつもの調子で怒鳴った椿に、安形は再び悪ぃな、と繰り返した。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 数日経った日の子の刻。安形は吐く息だけが白い闇の中を歩いていた。一度は溶けた雪だったが、暮れ六つからまた降り始め、今では随分と積もっている。
――遅ぇな、アイツ。
 微かに舌打ちをし、安形は闇の向こうに浮かぶ三つの人影を見ていた。それはここ暫くの押込みの下手人で、今夜も仕事を、と言う所だった。
――昼間は息巻いてたってのに、何やってんだ・・・
 まさかの段取り狂わせに安形が苛立っていると、影の一つが動いた。安形に気が付いたらしく、こちらを見る。
――ちょ、冗談じゃねぇぞっ!
 気付かれた事に焦り、安形は腰に下げていた刀の鍔に指を掛けた。瞬間、背後に人の気配を感じ、やっと現れたかと、安形は一気に刀を抜く。足場の悪い中を器用に走り抜け、こちらを向いていた一人を袈裟懸けに切った。吹き出る生暖かい血を被りながらも、それが目に流れない様にだけして、驚く残りの二人の内一人に返す刀で脇腹を切り裂く。
「椿っ、さっさとしろ!」
 後ろに居るであろう人物に、振り向きもせずに声を投げ掛けた安形の頭を、馴染んだ殺気が掠めた。咄嗟に下げた頭、髪の隙間を縫って何かが飛ぶ。それは安形を通り越して、残りの一人の咽へと深く刺さった。
「がっ・・・」
 血を吐きながら倒れた男の咽に刺さっていたのは、鈍色に光るクナイ。驚いて安形が振り返ったその先には、椿では無く忍び装束に身を包んだ希里が立っていた。安形は左手を腰に廻し、刀の棟で肩を叩きながら軽く唇の端を持ち上げる。
「何でお前さんが居んのかね?」
 よくよく考えれば、あの椿が時間に遅れるなど有り得ない。ならば誰かが『間違った情報』を改めて与えたに過ぎない。誰がと問うなら、答は一つだった。
「主は来ない」
「そうみたいだなぁ・・・」
 視線は銀の髪よりも鋭く光る瞳から外さず、安形は困った様に苦笑する。希里は微動だにせず、いつでも切り掛かれるよう、刀を構えたままだった。安形は小首を傾げる仕草をしながら、一つだけ希里に問う。
「アイツはお前ぇに、オレを調べるなって言わなかったか?」
 戯言交じりではあったが、確かに安形は自分の周りを嗅ぎ回るなと伝えていた。どんな形であれ、命を与えれば実行する。それ程に従順な椿が、今回のみ例外だとは思えなかった。
「・・・・・・・・・」
 その無言は肯定にしか聞こえない。ああ、と安形は思いながら、肩に乗せていた刀を持ち上げた。
――嫌んなる位ぇ、真っ直ぐな目、だな。
 例え方法が間違っていると認めていても、真にその人間の為と思えば、手段を選ぶを厭わない。自分が正しいと思う事を、ひたすらに信じ切って。
――こう言う目を見てっと、
 相手の神経が肌を刺す程に自分の右手に向かっているのを感じる。敢えてそれを無視して、安形は見せる様に刀を片手で鞘に納めた。
「圧し折りたくなんなぁ」
「!!」
 穏やかでは無い言葉に、希里の手がぴくりと動く。続いて、その頬を微かに汗が伝った。相変わらず苦笑したまま、安形は両手を軽く広げる。その手に武器は無い。
「・・・オレは善良なアイツの先輩だぜ? 何でここまでする」
 ま、仕事はしねぇがな、と冗談すら交える安形に、希里は一歩も動けなかった。いつでも切り掛かれるはずなのに、足所か指一本動かせない。唯、唇だけが反抗する様に、言葉を吐き出した。
「あの日、お前が会っていた輩を知っている」
 刹那の合間だけ、安形の目に闇が降りる。しかし、それでも笑みは崩さず、闇を隠す様に目を伏せて希里の言葉を待っていた。
「この辺りのならず者を束ねる顔役だ」
「ふぅん・・・で?」
「話は全部聞いたんだ!」
 飄々とした風を乱さぬ安形に、怒りに駆られて希里は叫ぶ。それでなお、安形は手を広げて笑っていた。優勢なのは自分であるはずなのに、何故だか気圧され、更に叫ぶ。
「幾ら情報を集める為とは言え、裏であんな連中と繋がった挙句に取引までっ・・・それが正しい事だと言えるのか?!」
 あの日の安形の用向きで、全てを希里は知った。押し入った家に火を放つ程の凶悪な輩の情報と引き換えに、安形はちょっとした目溢しをして小悪党を見逃す。親しげでさえあったその空気に、これが初めての事では無いと容易に知れた。椿が躍起になって探し出そうとしていた内通者は、他の誰でも無い椿自身が一番信頼していた目の前の男だったのだ。
「いやいや・・・主の命に背いてまでってか。忠犬だねぇ」
 安形はそう言うと、くくっと喉の奥で嗤う。今までとは違った嗤いに、希里の背中を冷たい汗が伝った。安形はそのまま左手を自らの頬に添え、唇は笑みに歪めたまま希里を睨み付ける。その指先を先程浴びた返り血が伝い、紅く線を引いた。
「ったく、大人しく打ちひしがれてお家に帰ってろよ。わざわざ人が見せたくも無ぇもんまで見せてやったってのに」
 今までに感じた事の無い暗く落ち窪んだ瞳に、瞬間、希里が後退り掛ける。何かに押される様な圧迫感に負けかけた瞬間、言葉に心を抉られた。
「悦かったろ・・・アイツのあの顔」
「なっ・・・!」
 動揺した希里に向かって安形の指が動く。そこから光る礫が飛んできた事に反応し、希里は思わず構えていた忍び刀でそれを弾く。頭金に当たり、飛び散る紅。
――血?!
 ハッとした時には既に遅く、安形の手にしていた脇差が希里の右手を切っていた。親指の付け根を切られ、痛みに刀を取り落とす。それに反応する間も無く、今度は左腕を切り付けられた。足場の悪さも相俟って崩れた身体を、あっさりと背中を押されて希里は雪の中へと倒れ込む。その背骨に安形の膝が押し付けられ、気が付けば皮一枚切っただけで済んだ左腕も背中で捻り上げられていた。
「椿と言い、お前ぇと言い、真っ直ぐな奴はやりやすいなぁ」
 呆れとも取れる台詞に歯噛みする希里の喉元には、止めに脇差が当てられている。その姿を、安形は上から眺めていた。探る様に、値踏みする様に。
「なぁ、」
 そのままの体勢で、いつでも相手の首を掻き切れるまま、安形は淡々と言った。
「世の中ってあんま、綺麗じゃねぇよな」
「なにっ・・・突然・・・・・・」
 抑え付けられた胸が苦しいまま、希里は絶え絶えに言葉を吐き出す。それに眉一つ動かさず、安形は続ける。
「椿やお前ぇみてぇな真っ直ぐな奴が夢見てんのは、こんな雪みてぇに真っ白なお綺麗な世の中なんだろうけど」
 悪人など一人も居ない、正しきが正しきとしてまかり通る。誰だってそうあればいいと、きっと夢見る程の。脳裏に思い描いた光景に、安形は溜め息を吐き出した。
「だがよ、綺麗事でやってける程、世の中が綺麗じゃねぇんだ」
 誰もが――そう、安形すら夢見る理想郷は、だからこそ遠く手が届かない。
「あの旦那も元を辿れば火消しだったんだと。それがちょっとしたいざこざで生まれ故郷を追われた挙句にこんな所ではぐれ者の一員になっちまった」
 聞かせる様に安形の唇が希里の耳元に近付いた。低く響く声が、直接鼓膜を震わせる。
「だが元火消しだけあって、人情も有りゃ一本筋も通す人だ。今回みてぇな道理も何も無ぇ輩は・・・どうあっても、潰す」
――そんな事は知っている・・・
 一瞬、言葉にしそうになった自分に、希里は悔しさから下唇を噛んだ。あの日の言葉が瞬時に耳に蘇る。

『これでも昔は火消しだったんだ。火事場の辛さは誰より知ってるさ』
『自分の足隠す為だけに、火ぃ放つ野郎なんてのは見てられねぇんだよ』
『礼はいらねぇ。ただ、必ず殺せ』

 膝を立てて不敵に笑みながら、心底伝わるのは怒り。利己ではなく、それは他者の為に在った。対峙する安形の目も似た様な物で。それでなお掴み所無く笑いながら、それじゃオレの気が済まねぇ、旦那の尻尾を掴まれるのはオレも困るし、とだけ言った。
 正しさが何なのか、見失いそうになる会合は、それで終わりを告げたのだった。
「この界隈だって平穏に見えるけどよ、結局は裏であの旦那が目ぇ光らせてっからなんだ。あの人ぁ・・・藪なんだよ。突付いて蛇出す位ぇなら、いい」
 息が掛かる程近くで声が響く。首が切れるのも構わず視線を動かして、希里は安形を睨み付けたものの、ぞっとする程の黒い目に逆に吸い込まれそうになった。
「刈れば、魑魅魍魎が這い出る」
――だからと言って・・・
「だからアンタが正しいって言うのか!」
 今度は声を上げて、心を叩き付けた。
「あの人の心も身体も手に入れて・・・誰より信頼されてるのに、裏切るのがアンタの正しさか!!」
 自分で吐き出した言葉に傷付いて、目に涙が滲む。どんなに吠え叫んだ所で、今自分の命がこの男の手に握られているのは変わり無い。強がりはしても、悔しさに心が折れそうになった。
「・・・・・・正しくは、ねぇよ」
 不意に響いた声が、酷く脆弱に思えて希里が驚きに目を見張る。少し顔を上げて俯いたのか、前髪に隠された安形の目は、希里からは覗う事が出来なくなった。
「正しいとは、ちっとも思ってねぇや」
「アンタ・・・」
「正しくなくて、いいんだよ。オレはオレで身勝手な奴だからよ」
 唇が笑う。今までの蔑む様な嗤いではなく、椿に見せる時と同じ柔らかい形。
「魑魅魍魎にアイツを触れさせる気も無ぇし、世の中の黒い所、見せる気も無ぇ・・・オレが泥被った位ぇでアイツが笑ってられるってんなら、」
 顔が上がる。晒された、その顔は。
――こんな時に、こんな顔で笑うのかよ・・・っ!
「本望だね」
 オレは我侭なんだよ、と言いながら、泣きそうに歪んだ笑顔を希里は間近で見た。正しく無いと言いながら、その過ちに傷付いて、その癖に全ては自分の為と笑う。
――解らなきゃ、良かった・・・
 心の奥など知らずに、切るか切られるかしていれば良かった。噛み締め過ぎた唇が、以前の傷を抉って再び血を流す。
――・・・主が選んだのが何でコイツかなんて。
 知らずに済めば、唯、憎んでいられた。知ってしまえば、
――自分ですら、心が揺れる・・・
 惹かれてしまえば、身動きが取れなくなる。未だ勝る怒りと憎しみの中に、微かに動いた心を、希里は認めてしまっていた。
「ま、そんな訳でよ」
――ああ、
 殺されるんだな、とぼんやりと希里は思う。安形が椿に隠したがっている闇を見てしまった自分を、彼がそのままにするはずが無い、と。
「手打ちにしねぇか?」
「はぁ?!」
 死を覚悟していた希里は、思ってもいなかった安形の言葉に驚いて、思わず身体を捩った。
「わっ、馬鹿か! 動くなよ、切れる!!」
「いや、馬鹿はアンタだろっ! どっからそんなっ・・・」
――そんな、オレにしか有利にならない取引が・・・
 命は助ける。代わりに口を噤め。そんな口約束は、安形が手を離せば効果など無いに等しい。
「頭沸いてんじゃねーのか?」
「この格好で、お前ぇも言うねぇ」
 安形が呆れている気配がしたが、希里の方がよっぽど呆れていた。真意が掴めない所では無い。安形自体が掴めなさ過ぎて、眩暈がした。
「何のつもりだ、ホント・・・・・・」
「いやさ・・・言っただろーが、さっき」
 何を、と希里は呟く。随分と深い話をしていたが、今のこの冗談めいた会話に繋がる部分は思い出せないでいた。
「お前ぇ殺すと、アイツ泣くだろ」
「!!」
「オレとしては、そこんトコも避けたい」
――おい、

『アイツが笑ってられるってんなら、本望だね』

――心底の馬鹿か、コイツ!
 思考が混乱する。今まで自分が一番、椿の事を思っていると信じていた。けれども、ここまで・・・こんな風にしてまで、思う事があっただろうか。自らに投げ掛けた問いには、既に諦めの滲んだ嘆息しか漏れなかった。
「・・・・・・分かった」
「ん?」
「手打ちにしてやっから、退けって言ってんだよ!」
 せめてもの虚勢で、希里はそう怒鳴る。まだ自尊心は残っていたらしい、と自分でも呆れてしまったが。威勢の良い希里の態度に笑いながら、安形は脇差を咽から外し、立ち上がる。続いて希里も、ゆっくりと身体を起こした。
「・・・っ」
 雪塗れになった身体を叩いていると、思い出した様に右の親指が痛む。それに顔を顰める希里を見て、安形はごそごそと懐を探った。
「ほれ」
 安形が何かを懐から取り出し、放ってくる。それを受け止めた希里の顔が、また歪んだ。
「何なんだ、アンタ、ホント・・・」
「いや、まぁ、オレが付けた傷だし」
 今、希里の手にあるのは安形の手拭い。傷に使えと言う事らしいが、これが殺そうとしていた相手にする行動だろうか。何だか訳の分からない苛立ちが込み上げてきて、その勢いのまま、希里はその手拭いを口を使って裂いた。
「裂くのかよ?!」
「うるせぇ! 手拭いなんて大き過ぎるもん、寄越す方が悪ぃーんだよ」
――この男は、
 苛々とした気持ちが、心を駆け巡る。
――端からオレの事、殺そうとなんてしてねーじゃねーか!!
 椿が泣く様な事をする気が無いのなら、結局は手のひらで転がされていただけの自分を自覚して、希里は言い様も無い腹立ちを覚えていた。
「・・・・・・お前ぇが思ってた様な奴で良かったよ」
 笑いながら安形は、まだ手にしていた脇差を後ろへと投げ捨てる。おい、と言い掛けた希里の目がそれを追い、固まった。
――紋が、無い。
 安形が投げ捨てた脇差には、彼の所有の印が刻まれていない。驚いて安形の腰を見れば、本人の脇差はきっちりと鞘に納まっていた。
「おいおい・・・オレので殺ったら、知れるだろうが」
 驚く希里に、安形は呆れ顔でそう言う。そんな言葉も上の空で聞きながら、希里は素早く記憶を反芻していた。
――いつ、手にしていた・・・
 自分の物でないのなら、何処かでそれを拾っていたはずだ。飛んで来た血に自分が驚いた瞬間か、と考え、頭を振る。
――そんな時間は無かった。本当なら、鞘から手前ぇの脇差抜く事も・・・
 巻き戻る記憶の絵の中、唯一思い至った瞬間は、
――オレが、クナイを投げた、時・・・・・・
 屈んだあの瞬間に、既にそれを手にしていた。見ていたはずの絵の中で、希里は安形の右手に握られた刀にばかり目が行って、その左が自然、視界から外れて。その隙に背中側の帯に脇差を挟み、刀を納めて両手を広げて見せたのだ。何も持っていない、と誇示する為に。背に差しただけの脇差なら、取るのも早い。
――・・・どっから、計算だよ。
 その上、自分の計算が間違って、希里が『思っていた様な奴』でなければ、
――平気でオレの事、殺ってたってのか!
 何もかもが・・・自分が落ちる事ですら、瞬時に計算し尽くしていた安形に、希里の中で改めて悔しさと怒りとが生まれた。こいつだけは、と唇だけを震わせる。
「アンタはアンタでやってりゃいい」
 完全な敗北感を感じながらも、同時に闘争心が沸き起こった。それを嗅ぎ取ったのか、安形は軽く笑う。
「オレはオレで、あの人を守る」
――アンタとは違った方法で、オレは主を守るだけだ!
 自分には出来ない守り方を見せ付けられて、大人しく引き下がれはしない。自分にしか出来ない方法が、きっとあるのだ、と言い聞かせる。
「勝手にすりゃ、いいさ」
 余裕有り気な顔が、また希里を苛立たせた。もう一言浴びせてやろうとした希里の表情がハッと引き締まり、次の瞬間にはその姿が消える。
「・・・・・・そう言や、忍だったっけか」
 突然に消えた希里と、背後に感じた人の気配に安形は苦笑した。振り向けば、怒りに顔を染め上げた椿がこちらに駆けてくる。
「よぉ、遅かったな」
「遅かったじゃありませ・・・ああっ!」
 地面に横たわる三つの屍を見て、椿が声を上げた。
「殺してどうするんですか! 他にも色々と聞きたいこ・・・」
「手加減とか、苦手なんだよ、オレ」
 言葉を遮って、安形は駆けてきた椿の頭をぐりぐりと撫でる。一瞬、落ち着き掛けた自分に、慌てて椿は再度安形に怒鳴った。
「大体、何で嘘の場所、教えたりしたんですか!」
――おぉーい、アイツじゃなくてオレ疑うのかよ・・・
 少しばかり落ち込みながらも、安形は仕方無しに笑う。嘘を付くはずが無いと思う程に希里を信頼しているが故なら、諦めるしかないだろう、と。
「いやよ・・・ちょっと、厄介そうな感じだったから、な」
「置いて行かないと言いながら、貴方は・・・っ!」
 夜中にこれ以上怒鳴られても困るとばかりに、安形は椿を抱き締めた。腕の中で無理矢理、頬に口付ける。
「・・・こう言う誤魔化しは嫌いです」
 耳の後ろや眉間や瞼に、軽く唇を触れさせる安形に、椿の反論する声は弱まっていった。
「悪ぃ悪ぃ・・・次は、連れてくからよ」
――ああ、オレは・・・
 無言になった椿の身体を、折れそうな程に抱き締めたくなる。しかし、腕に力は込めず、唯、背の布地をきつく掴んだ。
――・・・心ん中で、何回、コイツに謝んだろうな。
 正しさを正しさとして捉えられない自分に、椿が折れない正しさを突き付けた瞬間から、幾度こうして謝ったか知れない。世の中、淡い雪に覆われた泥ばかりだと腐っていた自分に、そんな中でも艶やかに咲く花があると教えた、腕の中の細い身体。これからもずっと、こうして口に出さずに謝り続けるのだろう。少しだけ椿から顔を逸らし、安形は唇を歪めた。
――雪の下が泥塗れでもいい・・・花が咲けるなら、それで。
 顔を上げ、真摯な瞳を覗き込む。映るのが自分の顔である事に、微かに安形は苦笑した。月に照らされ淡く浮かぶ表情は、拗ねていながら軽く安形を睨む。
――表舞台に居るオレが、裏の遣り方でコイツを守って、
 眼前の琥珀には映り込まない場所に居る、もう一人の守り人の事を考えた。
――裏舞台に居るお前ぇが、表の遣り方でコイツを守ってるなんて。
 皮肉でしか有り得ないと思う。何より皮肉なのは、きっと自分がそう守りたかったとずっと望んで出来なかったからなのだろう。
――お天道様に顔向けられる遣り方で、コイツ守ってくれよ。
「駄目で・・・」
 心の闇など露も見せず、安形は弱々しく抵抗する椿を、やんわりと包み込んで顔を寄せた。
「誰も、見てねぇよ」
――全部、引っ被ってやらぁ。だから、
「見てんのは・・・月位ぇだ」
――お前ぇは、照らせ。
 何処かできっと、この光景を眺めている銀色の光に告げた。重ねた唇も、降り頻った雪に反射する月の光も、どちらも酷く苦く、安形の心に突き刺さっていた。

2011/09/16 UP

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