偽傷

 ゆっくりと合わせた唇を離しながら、安形はそっと目を開いて椿の顔を見た。未だ降りたままの瞼の先、長い睫毛が微かに震えている。触れるだけの軽い口付けなのに僅かに頬が色付いて、普段の厳しい彼とはまた違った妙に色気のある顔になっていた。
 何となくその顔に安形が見惚れていると、軽く身体が揺れて瞼が持ち上がる。そこから現れた琥珀が安形を認めると、少しだけ中心の円が大きくなり、前より頬を赤らめて、俯いた。
――この瞬間の顔が好きなんだよなぁ。
「何、見てるんですか」
 安形の視線に気付いて、椿の口から不平染みた声が上がる。それが照れの象徴だと知っているだけに、安形は思わず顔を綻ばせた。
「いやぁ、キスも随分慣れたよな、とか思って」
「なっ・・・・・・」
 椿の顔に朱が走り、続いて安形の腹に拳が叩き込まれる。痛みに耐えながらも、毎回こんな時はついつい椿を怒らせてしまう辺り、自分も結局は照れているのかも知れないと安形は思った。
「あんま怒んなよ」
 痛む腹を撫でながら、安形は手のひらで椿の頬を撫でる。その仕草に、椿は少しむくれながら目を閉じた。安形の手から逃れる様に顔が背けられた所為で、指先が髪に絡む。そのまま髪を掻き上げると、椿の耳と首筋が露になった。柔らかな匂いのするそれに惹かれ、安形は吸い寄せられてその耳に唇で触れる。瞬間、椿の目が見開かれた。
――あれ?
 耳から伝わる椿の身体の硬直を感じ、何かの疑問が安形の胸に湧く。それをはっきりと自覚しないままに、安形の手は椿の項に伸びていた。熱を帯びた身体を撫で上げ、後頭部から頭の先へと、髪の感覚を楽しむ様に指を這わせる。心に何かが引っ掛かったまま、安形は別の何かに後押しされ、唇に触れていた耳介を口に含んだ。指先と口内で感じた身体の震えに何かが腹の奥深くから込み上げ、止められない何かに疑問は置き去りにされる。
「お疲れー・・・って、何してんの?」
 ドアが開かれる音が聞こえた瞬間、安形は椿の肩を掴んで自分から引き剥がしていた。寸での所で榛葉に目撃される事はなく、安形は安堵しつつも床を眺めたまま激しく脈打つ自分の心臓の音を聞く。
――何しようとした! オレ、今何しようとしたーっ!!
 まだ動揺したままの安形は、乱打される鼓動に、硬直したままの椿もそのままに自席へとふらふらと戻った。その様子に、榛葉の眉が軽く歪む。
「・・・・・・椿ちゃんも、座った方がいいよ」
「は、はいっ!」
 榛葉の言葉に普段以上に大きな声を上げ、真っ赤になったままでイスに座る椿を見て、榛葉はやれやれとため息をついた。自分一人は席に着かず、そのまま安形の側へと足を運ぶ。
「安形」
 そう言うと榛葉は笑顔を張り付かせたまま、未だ混乱の中に居る安形の襟首を後ろから掴み、無理矢理立ち上がらせた。
「いい子だから、ちょっと移動しようか?」
「お、おう・・・」
 榛葉に半ば引き摺られる様にして、安形はそのまま生徒会室を連れ出される。人気の無い空き教室まで来ると、榛葉は物でも放る様に安形をそこへ投げ捨てた。
「さぁーて、説明して貰おうかな?」
 椿の手前、笑顔を浮かべていた榛葉だったが、既にそれも何処かへ消し飛び、代わりに怒りの表情を浮かべて安形を見下ろしている。普段ならそれに反応して怯えるはずの安形だが、今回は自分の右手をじっと見たままで呆然としていた。
「椿にな、キスしたんだ・・・」
 何を思い出しているのか、安形は指をわさわさと動かしている。余りの様子のおかしさに、榛葉の怒りが収まり掛けた。
「それで?」
 何とは無しにしゃがみ込み、榛葉は安形に目線を合わせる。
「・・・してただけなのに、気付いたら犯そうとしてたみたいだ」
「ふぅ〜ん・・・」
 榛葉は軽く頷くと、そっと自分の履いていた上履きを脱いだ。非常に緩慢な動きでそれを振り上げると、その後は一気に安形の頭に叩き付ける。
「いでぇーっ! 凄ぇ溜めやがったな、テメェ!」
「溜めもするよ! 鍵も掛けないで何やってんのさ、お前?!」
 漸く正気に返って喚き始めた安形に、負けじと榛葉も怒鳴り声を張り上げた。ついでにもう一発、安形の頭を上履きで叩く。
「アイツのあの顔見てたら、あんな気持ちになるとは思ってなかったんだよ! 何だよ、アレ?! 急に、何かが・・・どうしよう、次にキスした時は止めれる自信が無ぇ!」
「お前は小学生かーーーっ!! 性欲が無い分、小学生の方がマシだよ!」
 取り敢えず、榛葉は三回程、安形の頭を叩いておいた。自覚無しに欲望に忠実に行動した結果が、あの状況らしいと思うと、榛葉の口から大きなため息が漏れる。
「暫くはお前、椿ちゃんにキス禁止な」
「何で?!」
「理由訊くかぁ? 少なくとも、校内ではするなよ。椿ちゃんが可哀想だ」
――一番可哀想な部分は、椿ちゃんがコイツを好きで、しかも何故か格好良いと思っている所な気もするんだけど。
 頭を抱えて考え込んでしまった安形を見ながら、榛葉は声を上げて三度目のため息を漏らした。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 翌日、榛葉に言われた約束を守るべきか否か、生徒会室で安形は悩んでいた。
――榛葉に言われたからとかでなく・・・我慢は必要だよなぁ。
 自分の行動に歯止めが掛けられないのなら、その取っ掛かりを自制するしかない。
――そりゃ、分かってんだけど・・・
 何故か今、安形は生徒会室で椿と二人、取り残されていた。昨日の今日で何の拷問かと、苦々しい想いに駆られる。椿はと言えば、昨日から随時と無口になってしまっていた。
――それだけなら、いいんだけどよ・・・
 やけに憂い顔で考え込んではため息をつき、時折――安形が視線を逸らした隙ばかりを突いて――こちらを見る。心無し、顔が染まって見える所為で、安形は何だか誘われている気分になった。
――気の所為、気の所為。唯の願望だ。
 言い聞かせ、安形が俯いた隙に、また椿の視線が走る。肌に感じた痺れの手前の様な感覚に、安形はスッと立ち上がった。びくりと身体を震わせた椿の後ろに廻り、机に手を突いて両脇から腕で閉じ込める。
「何、見てんの?」
 安形が問い掛けると、身を縮こまらせて椿は俯いた。無言のままの時間に、安形はその姿を見詰める。少し癖の有る短い髪の掛かる項が、昨日同様、少し色付いていた。
――間違いなら、不味いよ、なぁ。
 誘われている、そんな気分になるのが。それでも安形は吸い寄せられる流れに逆らえず、唇を髪に落とした。
「ひぁっ・・・!」
 驚きに上げられた声は上擦っていて、余計に流れに拍車を掛ける。自分と違う匂いを感じながら、安形はそのまま口を開いた。
「なぁ、何で見てた?」
「見てなんて・・・っ・・・・・・」
 否定して逃げ出そうとした身体を、自分のそれで抑え付ける。動けなくなった椿が、せめて安形の唇から逃れようと、机に伏せられた。それを追い駆け、今度は耳元で囁く。
「答えろよ」
 詰問に近くなる声色と触れた息に、椿の頬がぴくりと反応した。泣きそうに見える程に歪んだ眉根の下の琥珀が、少し潤んで安形を見る。
「や、やめ・・・っ」
「答えたら、放してやる」
「・・・っう」
 涙ぐんだ瞳がきつく閉じられ、歯が食い縛られた。追い詰められた獲物みたいな顔をするな、と安形は思う。それを口にする代わりに、安形は、早く、と椿に再度囁いた。それに応えて、椿の唇が軽く開き、戦慄く。
「・・・きな、・・・とに」
「聞こえない」
 絞り出された声は言葉に成れず、苛立った安形の歯が椿の耳に噛み付いた。小さな悲鳴を上げて、椿の目頭が濡れる。そんな中で安形は、椿の息が吸い込まれた音を聞いた。
「好きな人に、こんな風に触られてっ」
 悔しさなのか恥ずかしさなのか、堪え切れずに叫ぶ様に椿は言う。
「昨日までと同じになんて・・・出来なっ・・・」
 自分自身を両腕で抱き締めて、震えながら椿は訴えた。思ってもみなかった返答に、安形の目が見開かれる。
「それ、期待してるみたいに、聞こえっぞ」
「・・・・・・して、ます」
 新たな問い掛けに、椿は涙の零れる寸前の瞳で、肯定の返事をした。微かに安形に顔を向け、唇ごと震わせながら。
「貴方に恋人として触れられるの、期待してます。だから、」
 安形は右手を机から離し、椿の頬を撫で、髪を掻き上げる。髪の先まで、震えている気がした。
「貴方を見たいけど、見られたくない・・・」
 言わされた悔しさに再び逸らされ掛けた顔を掴み、安形は顔を寄せる。反射的に閉じられた瞳から、耐え切れなかった涙が一筋流れた。ぐっと噛み締められた唇に、安形は角度を変えて何度もキスする。その柔らかさを一頻り堪能すると、少し離れて、けれどもやはり間近で、言葉を投げた。
「椿、口開け」
「く・・・ち・・・・・・?」
 怯えと期待とがない交ぜになって、身体を強張られていた椿は、言葉の意味も理解出来ないままに、それを繰り返す。ずっと息を止めていた所為で、その唇から熱い吐息が細かく吐き出された。
「!・・・っん・・・」
 乱暴に髪を掴み、更に口を開かせて、唇を重ねる。遮る物の無くなったそこから舌を差し込めば、内部の熱さに眩暈がした。苦しげにくぐもって響く声を直接舌で感じながら、戸惑って逃げ惑う舌を追い詰めて絡め取る。
――ああ、
 余裕や躊躇いなど消し飛んで、唯ひたすらに蹂躙を続けた。
――貪るっての、こう言うのなんだ・・・
 初めて知る椿の中の感覚に没頭していた安形の腕に、痛みが走る。震えながらもきつく立てられた爪に、漸く安形は椿を解放した。
「・・・はっ・・・う・・・・・・」
 自由になった椿の唇が、呻く様に何度も息をする。未だ、瞳は閉じられたままで。安形はそれを見ながら、自分の今の顔は驚く程に余裕が無いだろう、と思う。そんな顔を見られなくて済んだ安堵。それでも本能のまま、差し出された細い喉に噛み付いた、その時。
「ただいまー・・・うわーっ!!」
 榛葉が勢い良くドアを開け、そして叫んだ。その叫びに、二人して瞬時に正気に立ち返る。最初に口を開いたのは、安形だった。
「帰れーーーっ!」
「今、帰ってきた所だ、馬鹿野郎ぉー!!」
 怒鳴った安形に負けじと、榛葉も怒鳴り返す。椿はと言えば、未だ安形の腕の中で硬直したままだった。それを数秒眺めると、榛葉はこれ以上の人間に現状を曝さない為に後ろ手でドアを閉めて二人に近付き、安形のシャツを掴んで椿から引き離して思い切り棚へと放り投げる。そのまま安形へ距離を詰めると、榛葉は安形の頬の肉を親指と人差し指で掴んだ。
「校内でするなって言ったばかりだろ・・・」
 怒っているのがひしひしと伝わってくる中、安形は気不味そうに榛葉から視線を逸らす。
「いや・・・その、うん、そうなんだけど」
「言い訳しようとしてんじゃねぇよ。ってか、言い訳出来るとでも思ってる?」
「仰る通りで・・・」
「・・・・・・か、帰りますっ!!」
 安形の頬をぐいぐい掴んで引っ張っていた榛葉の後ろから、椿の言葉が投げ掛けられた。榛葉が慌てて振り返ると、赤くなった顔を見られない様に俯かせた椿が、既に自分の鞄を手にしている姿が映る。
「・・・そうだね。ついでに二、三日休んでも、いいから」
「ミチル、何勝手なこっ・・・」
「今、お前に発言権は無いよ?」
 遣り合っている二人に、椿は小さく失礼しますとだけ呟いて、逃げる様にその場を後にした。その後姿を名残惜しそうに眺めていた安形に苛立って、榛葉は頬の肉を握っていた指に最大限に力を込める。
「痛いので、そろそろ放してクダサイ・・・」
「これ位、我慢しろよ。オレが帰ってくるのがもう少し遅かったら、どうなってたと思ってんの? ん? 一年とは言え、お前の方が年上だろ? 自重とか、分別って言葉、分かる??」
 頬の痛みと榛葉の表情に半ば泣きそうな気分になりながらも、安形はひたすら、ハイとスミマセンデシタを繰り返すのだった。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 居間でテレビを見ながら、安形はぼんやりとソファーに腰掛けていた。自室に引き篭もって考え込むと変に出口が見つからない気がして、苦肉の策として家族が居る場所で敢えて考え込む。尤も、内容は決して言える様なものでは無いが。
――あー・・・悶々とする・・・・・・
 画面では高山に生息する天然記念物の鳥のドキュメンタリーが延々と流れている。動く物をちらちらと目で追いながらも、安形の目は画面など見てはいなかった。期待していると言われた瞬間の椿の言葉と顔が脳裏から離れず、ここ暫くはそればかり考えている。
 それでも榛葉に言われた通り、年上の分別を持って自重すべきだと思いながらも、二人になればあの顔で椿に見詰められた。そうなれば理性なんて物は簡単に消し飛ぶのに、キスより先に行こうとする時ばかりに何某かの邪魔が入る。そんな日々がもう十日も続いていた。
――お陰であんま寝れてねぇし。
 椿の顔がチラついて眠れず、眠れたと思ったら夢の中でまで事が上手く進まない。昨日などは、またかっ!、と叫びながら目を覚まし、何の冗談だと深く一人で落ち込んでしまった。
「お兄ちゃん、それ面白い?」
「・・・・・・まぁまぁ、な」
 傍から見れば真剣にテレビを見ている様に見える安形に、妹の紗綾がソファーの背中越しに話し掛けてくる。生返事を返してくる安形を、紗綾は少し不審げな視線を向けた。
 妹が横に来た事で、安形は一度考えを中断して画面を見る。テレビでは鳥に雛が生まれたばかりの所に捕食者の狐が現れ、それを親鳥がまるで怪我をしているかの演技で引き付けていた。偽傷と言われる行為だと、ナレーターが告げる。
――そりゃ、いかにも食べられそうな・・・食べて下さいって獲物が居りゃ、食いに掛かるわな。
 テレビを見ながら、安形は製作者の意図しない部分に、共感を覚えていた。疑問を持っているかの素振りをしつつも、狐は雛より食いでの有る親鳥に狙いを定める。そして喰らい付いた瞬間に、親鳥はそ知らぬ顔で飛び立って行った。ナレーターが親鳥に賞賛の声を上げる。
「狐が・・・」
「? 何か言った?」
「・・・狐が可哀想だ」
 まだ雪の残る荒れ野に一人ぽつんと残された狐は、きっと呆然としたに違いない。思わず安形は、そんな狐と自分の現状とを重ね合わせてしまい、より深く落ち込んでしまった。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 翌日の放課後、安形は生徒会室に向かうのではなく、別の場所へと足を運んでいた。こうも追い詰められた気持ちで椿に向かう事も出来ず、少し時間を潰してから向かう事にしたのだ。榛葉に生徒会は?、と聞かれたが、少し寝てから行くとだけ告げる。
――実際、眠ぃし。
 変に家で眠れないのなら、いっそ学校で寝てしまおうとの腹に、安形は空き教室に足を向けた。放課後の居眠りに使っているのは屋上と生徒会室とガラクタを押し込めた空き教室。
――この時期、もう屋上は寒ぃんだよな。
 消去法で導き出された場所のドアを開け、安形はそこに足を踏み入れる。多少、埃臭くはあるが、ここに置かれたソファーはそれなりにお気に入りだった。以前、校長室で使われていただけあり、寝心地は最高に良い。背凭れが破れてお役御免になったらしいが、唯眠る分には関係無い話だ。
――いいソファーなのに、勿体無ぇこって。
 そんな風に思いながら安形がソファーに横たわった瞬間、がらりと教室のドアが開いた。人など滅多に来ない場所にと意外に思いながら視線を向ければ、むっつりとした表情の椿がそこに立っていた。
「こんな所で何、サボろうとしているんですか! 今日は定例会議ですよ!!」
 威勢の良い椿に、安形はソファーに座り直し、やれやれと頭を抱える。物理的にも眠る邪魔するか、と思わずため息が漏れた。
「会議は出るつもりだよ」
「後、三十分で会議ですが?!」
「十五分だけ寝て、行きゃあ済む話だろーが」
 本当は定例会議などすっかり忘れていた安形が、気不味そうに視線を逸らしたのを目聡く見つけ、椿は勢い良くドアを閉めて安形に詰め寄る。その動作に、安形がおぉーい、と呟いた。
「とにかく、戻って・・・っ!!」
 自分の腕を掴みに掛かった椿のそれを、安形は逆に掴んで引き寄せる。飛び込んできた身体を抱き締めると、腕の中で椿が目を白黒させているのが視界に入った。それでもしっかりと安形のブレザーを握り締める辺りを見て、安形は本当に、と椿の耳元で囁いた。
「何、考えてんだよ・・・」
「なな何って、何をっ!」
 言葉が言葉に成らない程に動揺する様に、思わず安形は息を漏らす。耳元付近でされた行為に、椿は目を閉じて過敏に反応した。
――また、そんな顔するし・・・
「・・・何で、ドア閉めた?」
「ど、どあって・・・」
「すぐにここ出るなら、閉めなくていいだろ。何で閉めた?」
 会話も上手く成り立たないと、安形は一度椿の身体を自分から離す。両肩はしっかりと、手のひらで捕まえたまま。椿は真っ赤になった顔を隠そうと、手の甲で口元辺りを押さえながら、けれど、いつもの少し瞳孔が開いた瞳で安形を見詰めていた。
「・・・・・・ドアは、開けたら閉めるもの、です、から」
――ほぉら、な。
 期待とは的外れな答えが、その口から返され、安形は心底がっくりとくる。一瞬、期待する様な行為をしながら、本人は至ってそんなつもりは無いのだ。期待していると告げた後にそんな行動を取ればどんな解釈をされるのか、想像もしていない事が、安形を精神的に疲れさせていた。
 しかも今回は寝不足と眠ろうとした矢先の出来事に、いつもより早く理性の糸が切れる。更に変にもやもやとした怒りも相俟って、安形はそのまま椿の身体をソファーに押し倒した。
「・・・中途半端なんだよ」
 怯えを纏う瞳を閉じさせる為に、眉間に唇を落とす。一度離して、だがまだ吐息が触れる距離で続きを告げた。
「鍵でも閉めりゃ、こっちもそうだと思えるんだ。なのに、いつも中途半端に誘うから」
 舌先で、降りている瞼を突付く。ビクリ、と椿の身体が震えた。
「手ぇ出しあぐねて、躊躇う」
 そうしている間に、獲物が逃げる。呆然と空を見詰める狐の牙が、その度に鋭く研ぎ澄まされた。きっと、喰らい付けば血飛沫所では済まない程に。
――それでも、人騙してんだから、自業自得だろ。
 今だって唇を離して距離を取れば、震えながら開かれた瞳に名残惜しげな色が宿る。そうして人を惹き付けておいて、実は違いますと言われても、正に偽傷行為でしか有り得ない。
「餓えりゃ、本気で牙立てんだよ、オレも」
「あ・・・・・・」
 何かを言い掛けた唇を、勢いのまま乱暴に塞いだ。くぐもった悲鳴を感じながら、安形は右手で椿の脇腹を撫でる。驚いて強張るそれを指先でなぞって、きっちりとシャツが収められているズボンの中へと滑り込ませた。
「・・・っや、め」
 素肌の腰骨に当たった指先に、顔を逸らして安形の唇から逃げた椿が声を上げる。指を止めようと伸ばされた手は、けれど弱々しく袖口を握るだけで、もう片方の手も安形を押しのけようとしているのか引き寄せようとしているのか、襟近くを握り締めるだけに留まる。冷静にその震える拳を覗き見て、安形の目が鋭さを増した。
「そうやって怯えて震えてたって、」
 シャツの下に指を動かし、そのまま身体のラインを辿りながら上へと移動させる。びくりと身体を反応させた椿は、小さく声を上げて顔を歪めた。
「そんな顔されりゃ、説得力無ぇんだ」
 手のひらで汗ばんだ肌を撫で、更に上へと動かす。胸の中心、心臓の真上。嫌になるほど脈打っているのが、手のひらから伝わってきた。
「期待、してんだろ?」
 囁いた言葉に、椿の顔が染まる。躊躇って視線が逸らされた後、ゆっくりと瞼が下りた。
「応えてやるよ」
 肯定の印の様に、閉じられていた唇が微かに開く。惹き寄せられて、安形はそこへと再度唇を落とした。差し込んだ舌先に、拙い動きで椿の舌が触れる。どうしていいのか分からない素振りを見せながら、舌が触れ合えば喉の奥から小さな喘ぎが漏れた。脈打つ心臓の音とその震えとが、手のひらを伝う。いつの間にか椿の両手は安形の背中に廻され、きつくシャツを掴んでいた。
――やっと、捕らえた・・・
 獲物を牙に掛けたと安堵した、その瞬間。
「っ!!」
 派手な音を立てて、安形の背後でガラスが割れる音が響いた。続いて、床に何かが転がる音も。
「・・・・・・・・・・・・」
 驚いて目を丸くしている椿から身体を離し、皮肉に笑いながら安形が振り返れば、散乱した窓ガラスの破片と床を転がる野球ボールが目に入る。
『ピッチャーノーコン! しまってこーっ!!』
「そのピッチャーは味方だろーがっ」
 聞き覚えのある声に安形は顔を曳く付かせながら、床のボールを拾い窓へと移動した。カーテンを開ければ、予想通りの顔触れがそこにあった。
「手前ぇか、藤崎ぃー・・・・・・」
「げっ、安形!」
 空き教室と油断していた藤崎が、安形の顔を認めるなり明ら様に不快そうな顔になる。それが余計に安形の苛立ちを大きくし、思わず安形はボールを藤崎の顔面真横に投げ付けた。
「ざけんなよっ! 上げるだけ上げたテンションって脆いんだよ! 簡単に萎えんだぞ?! 分かってんのか、このスットコドッコイ!!」
「え? 何言ってんのか、チョットヨクワカンナイ」
「分かられたら困っけどよ! もういいから、お前らガラス片付けて、ついでにこの部屋もピカピカにしとけっ」
――もう、入れた瞬間でなかっただけ、良しとするしかねぇーーーっ!
 理不尽な安形の八つ当たりに当然の不平を漏らしていた藤崎を睨み付けて黙らせると、安形はさっさと背中を向けて椿に向き直る。声の主が誰か分かり、乱れた服の胸元を押さえる椿は、心成しか顔色が青かった。その姿を見れば、鍵も掛けずに仕出かした自分の行為に、自然と安形の口からため息が漏れる。
――まぁ、アレだ・・・
 苦笑するしかなくなり、安形は椿にそっと近付いた。困惑している顔を見ると、今は劣情よりも諦念の方が強くなる。いつもそうしている様に髪をかき混ぜて頭を撫でてやると、椿は恥ずかしそうに俯いた。
――この我慢も、一生って訳じゃねぇし。
 撫でていた頭が動き、手のひらの下から琥珀が安形を覗き見る。気が付いて手を止めると、唇がおずおずと開かれた。
「あの・・・続きは、どうしましょうか・・・?」
「・・・・・・少ししたら、アイツらが来るぞ」
 これ以上の偽傷行為は勘弁して欲しい、と安形は心の中で呟く。そう言えば、とはたと嫌な事に気付いてしまった。
――別に偽傷ってわざとって訳でも騙そうって訳でも無ぇんだよな・・・
 自分の立場に置き換えるエゴイズムに見失いかけていたが、あれは種の繁栄の為の本能だ。騙そうとしているのではない。状況が『そう』なれば、自ずと働く。
――なら、コイツのコレも本能か?
 嫌な結論に、安形は凍り付く。何処か遠くの雪山で、腹を空かせた狐が独り、鳴いているのが聞こえた気がした。

2011/10/01 UP

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