だからボクはたった一つの嘘をつく

 小雨が降り続いている。音も無く薄らと靄の様に降る雨が、視界を埋めている。
――この分だと、帰る頃にはもっと酷くなりそうだ・・・
 重く沈む雲は上空の風に押されて生き物の如くに蠢いて、これからの嵐を知らせていた。それを生徒会室の窓から見上げ、椿は小さなため息をつく。天気を気にするだけの余裕が、逆に胸にぽっかりと穴を開けていた。その理由は明白過ぎる程、明白で。
――あの人が居ないだけで逆に仕事がはかどるなんて、皮肉な話だ。
 もう一つ、椿の唇から重い息が漏れる。どんなに椿が真剣に書類と向き合っていても、いとも容易くちょっかいを掛けてくる人物が今日は居ない。ただ、それだけのはずの事実が、いやに胸の奥を空虚にさせていた。
「・・・安形もこんな雨の日になぁ」
 斜向かいの席から響く声が聞こえる。本人は誰にも聞かせる気がなかったのだろう。榛葉は予想以上に響いた声に、しまったと顔をしかめた。
「会長は風邪で休んでられるんですよね・・・?」
 耳聡く聞きつけた椿の口から放たれた言葉に、榛葉は苦虫を噛み潰した様な顔になる。視線で問い詰められて思わず榛葉は目を逸らしたが、少し考えた後に再度視線を戻す。
「変な理由じゃないよ。ただ・・・」
 言い辛そうに榛葉は微笑んだ。それが何処か寂しげで、椿の胸に無理に追い込んだ罪悪感が生まれる。それで何も言えなくなる椿に、榛葉は長い間無言だった。
「・・・・・・気になるなら、行ってみてあげて」
 漸く漏れたのはそんな台詞。オレが言うのは何か違う気がするから、と榛葉は更に付け加えた。
「自分で確かめて、ね?」
 そう言いながら確かに榛葉は笑っていたのに。
「はい・・・」
 椿は肯定の返事を返しながら、人の笑顔がこれほど悲しく見えるのは初めてだと、そう感じていた。
* * * * * * * * *
少しずつ強くなっていく雨脚に、重くなる足を無理に動かしながら椿は安形の家へと向かう。濡れたズボンの裾が歩みを邪魔して不快感が募る中、椿は自分の探し人が目の前から歩いてくるのを見つけた。
「会ちょ・・・」
 言い掛けた椿の唇がそのまま止まった。目の前に居る安形の瞳は酷く虚ろで、何も目に入っていないかに見える。一瞬遅れて気づいた安形は漸くその目に光を取り戻した様に見えたが、それでも普段の彼からは随分と遠退いていた。
「ズル休み、バレちまったな」
 冗談交じりに言いながらも安形の目は変わらない。そこだけ景色が切り取られている様で、椿は無言のまま佇む。ただ聞こえる雨と安形の音だけを聞きながら。
「あーもう・・・当たり前なんだけどなぁ・・・」
 少し俯いた安形の髪から滴が滴る。そのまま安形の頭が椿の肩に預けられれば、雨の匂いに混じる微かな線香のそれが椿の鼻孔を擽った。視界に入る安形の腕には黒い喪章が付けられていて、彼が今まで何処に居たのか椿に教える。
「オレより先に生まれたんだから、先に死ぬよなぁ・・・」
 力無く呟かれる言葉に椿は何も返せない。肩から染み込む雨だった物を感じながら、せめてと安形の身体に傘を差した。亡くなったのが誰かともどう言った関係なのかとも、何も訊かずに次の言葉をただ待つ。
「大往生だとか、もう十分生きただとか・・・分かってても、もう会えないのは辛ぇよ」
 今までの経緯も状況も、そして安形の顔も見えないままに、椿は肩に乗る重みだけを感じていた。素肌にまで浸透している水分に体温に近い暖かさを感じるのは気の所為ではないと思いながら。
「・・・・・・・・・なぁ、椿」
「はい」
 長い沈黙の後に続いた自分を呼ぶ声。それに返事をしながら唯一見る事が出来る普段よりも小さなその背中を眺めた。
「いつかお前が死ぬ時がきたら、オレの事殺してよ」
 何か耐えられそうな気がしねぇんだ、と続いた言葉に息が止まった。視界の背中が小刻みに震えている気がして、そっとそこに手を添える。
――この人は、脆い・・・
 強く見えているのに、それは多くの絆に支えられての事で。誰よりもそれを本人が自覚しているが故に、それが折れるとこれ程までに脆くなる。それを自分に今現してみせるのは、きっと誰より自分が一番強い絆だから。
――そんな風に思うのは、驕りだろうか。
 考えて椿は瞳を閉じる。泣きそうな顔をしながら悔しさに下唇を噛んだ。それでもそれはほんの一瞬の事で次の瞬間には緊張を解くと、その唇から漸く音を吐き出す。
――どんなに想い合った所で最後の最期で人は人を裏切る。いつかボクが平等でそして理不尽な一振りをそこに叩き付けるなら、
「・・・・・・はい、必ず」
――今は人生でたった一つの大きな嘘をつこう。
 雨が強さを増していく。水煙と共に景色は煙り、そして地面を叩く音が何もかもを消し去る。その中で微かに聞こえたありがとうに、椿はまた小さく唇を噛み締めた。

2011/05/16 UP
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