NIGHTMARE 5

 濡れた髪を拭きながら椿は自室のドアを開ける。流れる空気が湯上りの首筋を撫で、一瞬びくりとする。そんな自分の行動にため息を一つつくと椿はドアを閉めた。開けたままの窓から逃げる空気がカーテンを巻き込んでいく。それに気が付き椿は窓へと歩み寄った。
「・・・・・・・・・」
 窓を閉めようとカーテンを開けるとすっかり暗くなった所為で鏡の様に窓ガラスに自分の姿が映る。コンタクトを外しているため眼鏡をしていた自分の顔を見て椿は顔をしかめた。

『ここ来たばっかの佐介みたい』

 何とも嫌な気分になり、椿が眼鏡を外すと全ての物が輪郭を曖昧にし、世界が酷く不安定な物と化す。それを眺めながら椿は閉めた窓に頭を預けて再びため息をついた。
――怖い・・・・・・
 硝子の向こうの自分と目が合う。その顔は酷く不安げで弱々しい。苛立ちを感じて睨み付けても、それは泣きそうな表情にしかならなかった。
――それでも、

『一緒に居たいか居なくても平気か』

――あの瞬間、ボクの中で選択肢が無い事に気づいてしまったから。
 答は酷く単純で、そして最初から一つしか用意されていなかった。椿は考えながら震える腕を掴む。
「・・・・・・何かを決める事は、きっと何かを切り捨てる事なんだ」
 自分がずっと感じている恐怖はそれなのだと知ってしまった。決めれば後戻りは出来ない。自分が切り捨てる物を拾う事は二度とは出来ない。
――何も変わっていないじゃないか・・・
 踏み出す勇気が持てなくて怯えて目を逸らしたあの日。自分が自分を一番嫌った忘れられない瞬間と。
――また、足を竦ませるのか?
 立ち向かう勇気を貰い歩き出したと思っていたのに結局は今足踏みをしている。知らず椿は自分を抱き締めていた。
「ただ、選ぶだけなのにっ・・・」
 すぐ側に映る自分に向かって吐き捨てる。それでも泣く事だけは出来なかった。
* * * * * * * * *
 連休の間の天気は曇っては晴れ、晴れては曇りを繰り返している。今日は運良く晴れだが午後には曇りに変わると朝の天気予報は告げていた。それを見て榛葉は変に晴れ間があるだけ陰鬱な気分になるな、と妙な事を思ってしまう。
「よぉ」
 そんな気分を引っ提げつつも榛葉が安形の部屋に入れば、当の本人は何だか色々な物に囲まれにこやかに笑っていた。これは曇りの間の晴れ間なのか、それとも快晴なのか。判断が付かず榛葉は苦笑いを浮かべる。
「物、増えたな」
「何かここ二、三日で色々貰ったからなぁ」
 言いながら安形は側にあった招き猫を左手で撫でた。その他にもずらずらと奇妙な置物やらグッズやら、中には酒まで並んでいる。どれもこの連休の間に安形のご近所の友人の差し入れだった。それを呆れた表情で見ている榛葉に、何かなと呟き安形は目を眇める。
「結構、オレって愛されてる感じしたわ」
「そっか・・・」
 安心した様な少し淋しそうな。そんな声音で榛葉は言った。誰もが何処かで気づいて視線を送って、けれどきっと踏み込めなくて留まっていた。それが今、形になっただけなのだろう。こいつが倒れたらきっと差し伸べられる手は無限に在る。それが純然たる事実なんだと、ふと榛葉は思った。
「だからさ、」
 招き猫を撫でるのを止め、安形はその上に頭を預ける。
「ちゃんと笑えると思うんだ」
 その目は酷く遠くを見ていて榛葉は何だか取り残された気になった。それには気付かず安形は話し続ける。
「学校に行って椿の顔見ても、さ」
「・・・・・・無理して笑うもんでもないだろ」
 榛葉の言葉に安形は目を閉じた。その中の闇で何を見るのか、榛葉に窺い知る事は出来ない。
「それじゃ椿が困るだろ。それはオレも嫌なんだよ。いつも通りに笑って・・・出来れば全部無かった事にしてやりたいけど、そんな事出来ねぇだろ。ならオレが無理する位、大した事ねぇよ。あんま、みっともない真似したくねぇし」
 泣きそうな顔をしながらそれでも安形の唇は笑みを形作っていた。それを見ながら榛葉は自分のシャツの胸元をきつく握る。そこから何かが湧き上がるのを感じて。
――なんっか、むかむかするっ・・・
 自分の感じている思いが怒りだと気が付いた榛葉は、つかつかと安形に近付くと怒りのままにその頭に拳を振り下ろした。
「って! ミチル、お前っ・・・」
「お前ってホント馬鹿」
 怒りが治まらず、榛葉は更にもう一度拳をふるう。流石にそれは両手でガードして安形は不穏げに榛葉を見た。
「みっともなくていいだろうが。フラれた相手の顔見たくなくて当たり前。笑えなくて当たり前。普通はそうなんだよ。お前だって・・・」
 ままならない言葉に榛葉の顔が歪む。ああ、自分は悔しくて腹が立っているんだと、何処かで冷静に思う。
「・・・普通なんだよ。天才だからって大人になる必要なんてない。自分の為に、」
「ミチル・・・・・・」
「誰かを傷つける権利持ってるんだ」
「・・・・・・・・・」
 榛葉の言葉に安形は苦笑して目を伏せる。まだ自分の頭上にある震える拳に軽く手を添え、離れるためにそれを遠ざけた。
「・・・・・・それでも、やっぱ性分なんだわ。簡単に変えられねぇよ」
 結局は返ってきたのが拒絶の言葉である事に榛葉は歯噛みする。勢い側にあった招き猫を掴むとそれを思い切り安形にぶつけた。
「勝手にしとけっ」
 榛葉は一言だけ叩き付けると荒々しく足音を立てながら部屋を出て行く。胸で招き猫を受け止めた安形は咳き込みながらそれを見送っていたが、息を整えると閉じられたドアを暫く眺めて小さくため息をついた。

 安形の家を出た後も治まらない思いに苛立ちながら、それを隠そうともせずに榛葉は早足に歩いていた。
――アイツにはどれだけの物が見えてんのか知らないけどっ!
 頭の中で言い切れなかった言葉が螺旋状に渦を巻く。自分とは違う視点を持つ友人の呆れる程大人な諦めに胸の奥が苦しくなった。
――人より人の事が分かっちまうと自分殺して息潜めてなきゃなんないのかよ!
「ふざけんなっ!」
 思わず怒鳴りつければ驚いて近くの木に止まっていた蝉が飛び立つ。その音が酷く癇に障って、榛葉は目の前の電柱を蹴り付けた。
「・・・・・・お前が認めたって、オレが認めないぞ、そんな生き方」
 ぶつぶつと電柱に怒りをぶつけていると不意に榛葉の携帯が震える。誰だよと呟きながら携帯の画面を見ると、そこには着信の表示があった。
「椿ちゃん・・・」
 思いも掛けない人物からの電話に驚いて一瞬その場に立ち尽くす。その所為で留守番電話に切り替わった表示に慌て、榛葉は急いで電話を取った。
「も、もしもし」
『あ、あの・・・椿です。今、大丈夫でしょうか・・・』
「ちょっとだけ待って」
 榛葉は辺りを見回して人気の無い公園を見つけると、そこに飛び込む。奥へと行くと周りを見回して人の居ない事を確認して息をついた。
「・・・大丈夫だよ。久し振り」
『お久しぶり、です・・・』
 電話の向こうの声に覇気が無いのは気の所為ではないだろう。そう思いながらも榛葉は無難な言葉は選ばなかった。
「何かあった?」
『・・・・・・・・・』
 無言が突き刺さる。電話の向こうからは背景の音すら聞こえず、こちら側の音ばかりが大きく聞こえてしまう。
『・・・・・・あの、背中を押して貰えませんか?』
 切り離された空間の向こう。椿の顔が見えない分、意図もまた榛葉には見えなかった。
『少しだけで、いいんです。大丈夫だと・・・足を竦ませる必要はないと・・・・・・』
 何を決意しての言葉か、何を怯えての気持ちか。例え対面していても計れるものではない。だから榛葉には今の椿の心の内など分からなかったけれど。
「・・・・・・大丈夫だよ。でもそれは」
 出来うる事なら側に行って背中を叩いてやりたい。そんな気持ちになっていた。
「椿ちゃんが自分で足を踏み出そうとしたから」
 目を閉じて電話の向こうの気配を探ると息を飲むような小さな音だけが聞こえる。
「歩き出そうとしてない人の背中押したら、倒れちゃうだろ。オレはそんな事しないよ」
『榛葉さ・・・』
「椿ちゃんだから大丈夫。これでいいかな?」
『・・・・・・ありがとう、ございます』
 特定の音域だけを切り取る電波の波の向こうでなお、感じられた声の震え。椿がこれで大きな決断をしたんだと榛葉は感じ取る。それが唯一、安形の目を覚ます希望の気がした。
「きっと椿ちゃんにしか出来ない事なんだろうね・・・」
『榛葉さん?』
「何でもないよ。また明日学校でね」
『ええ、また明日』
 短い会話が終わり榛葉は着信の切れた携帯の画面を眺めて、ぱたりと画面を閉じる。唯の小さな箱になったそれを眺め、目を閉じて小さく嘆息した。
「それはオレに出来ない事だから」
 切れてしまった通話は、その言葉を運ぶ筈も無く。
「後は任せたよ」
 唯の独り言として消えて行く。後には夏の名残を残した蝉の声だけが草木を揺らしていた。

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2011/04/25 UP
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