NIGHTMARE 1

 暗い、部屋に居た。否、何も見えないのだから部屋かどうかも怪しい。ただ気付けば真っ暗な場所に安形は一人で座り込んでいた。
――何だ、これ・・・
 べとりとした不快な感覚に眉をひそめる。床に着いていた手を持ち上げてみれば、粘つく液体が指の隙間を伝っていく。ドロドロとしたその感覚に酷い吐き気を覚えた。
――ここ、何処だ?
 再び床に手を着くのは躊躇われたが身を起こす為に仕方無く手を伸ばした。ずぶりと埋まる指先。そのまま得体の知れない物に引き込まれそうな錯覚に陥り、慌てて安形は立ち上がる。何とか歩けそうだと確認をし、しかし何処へ向かえばいいのか途方に暮れて辺りを見回した。けれども闇ばかりで遠近感も無い空間が広がるばかりで下手をすれば平衡感覚すら失いそうになる。
――これじゃ、
 自分が唾を飲む音が響き、初めてこの世界に音すらも存在していない事に気付いた。脚に纏わり付く液体が、ゆっくりと流れていく。それには汗も混じる様になっていて。
――オレ、何処に向かえばいいんだ・・・・・・
 その疑問に答える声すらなく、静寂がただ佇んでいた。
* ** * * * * * *
「ぅ、わっ!」
 衝撃と光。その二つに安形は現実に引き戻された。目の前に広がるのは見慣れた自分の部屋の床。慌てて上半身を起こせば、『きちんとした現実』が視界に映る。自分が居るのは自室のベッドのすぐ傍の床。いつもと同じ様にベッドから転がり落ちて目覚めた事を確認し、ほっと息をつく。
「あ、ああ・・・夢、かぁ・・・」
 言葉にして事実を認識して無意識に顎を伝う汗を拭う。それで漸く流れる程の寝汗を掻いていた事に気付いた。
――サイアク・・・何だよ、あれは・・・・・・
 パジャマ代わりのTシャツで顔の汗を拭い、それもぐっしょりと濡れている事に嫌気を感じる。安形はちらりと時計に視線を向けると、それは何時もよりも早い時刻を指していた。
「シャワー、浴びっか」
 覇気無く呟き、安形は自室のドアを開けようとドアノブに手を添えた瞬間、時計がカチリと針を進ませる音を響かせた。耳に響いたその音にドアに触れた安形の手がまるで静電気が走った様にそこから弾かれる。
「?」
 安形は無意識の行動に不思議そうに自身の手を見詰めた。恐る恐る再度手を伸ばし今度は勢い良くドアノブを回す。
「ははっ・・・何て事、無ぇ・・・」
 理解出来ない自分の行動とその根源の感情を少しばかり不可解に感じながらも、安形は部屋を出る。去り行くその背中を追う様に、ドアは軋みを上げながらゆっくりと閉まって行った。

 そうして始まった一日は、酷く緩慢だった。授業中も不意に集中力が切れた様に視界が歪む。それを何とか払い除けて安形は無理矢理授業を熟した。今朝の夢見の悪さが原因と言う訳でも無く、実はここ数日こんな事が続いている。正確には、あの大会の――それも大将戦の後からだ。
――あれで気力、使い果たしたか・・・?
 それでも今日も何とか昼休みまで辿り着き、俄かに教室が騒がしくなる。休み時間とはまた異なる喧騒に耳を傾けながら、安形はぼんやりと机に顎を乗せた状態でまだ白墨の線が残る黒板を見詰めていた。視線を走らせながらも別段その文字を読むでも無く時折ぶれる焦点を合わせる作業。それが思考を空にする為の努力に思え、安形は軽く目を伏せてため息をつく。
――馬鹿らし。生徒会室で昼寝でもしよ。
 そう考えると安形は昼食の弁当箱を手に教室を後にした。後ろからクラスメイトが声を掛けて来たが、今日は余所で食うわ、とだけ答える。時々安形は榛葉とも昼食を取っているので別に不審にも思われる事も無く安形は教室を抜け出た。廊下を歩く間にも友人や教師から声を掛けられ、安形は笑ってそれに対応し続ける。なのに、
――なんだろ、ダルい・・・・・・
 歩いている廊下が酷く柔らかい気がしていた。表面は何時も通りを装いながらも平衡感覚すら時折怪しくなる。生徒会室に辿り着く頃には安形はすっかり疲れ切っていた。
 それでも何とか昼食を腹に入れて、安形は来客用のソファーへと身体を沈める。眠気を覚えてはいるものの何故か息苦しさが抜け切らず、無意識に自分のネクタイへと手を伸ばし、それを抜き取った。それでどうにか解放された気分になり襲ってきた睡魔に身を委ねる。そのまま安形は生温い淀みへと身を落としていった。

 それから数十分後の昼休みが終わりを告げる少し前。生徒会庶務である榛葉が生徒会室に足を向けていた。大した理由では無く、ちょっとした処理を昼休みの残り時間で片付けてしまおうと考えたからだ。ドアを開ければ珍しくも無い安形の寝姿がそこに在った。
「相っ変わらず、ここを何処だと思ってんだか・・・」
 ため息交じりに呟いてみたものの当然の事ながら反応は無い。榛葉は呆れながらも無視を決め込み、さっさと自分の仕事を片付けに掛かった。カチリとボールペンをノックすると書類の作成に取り掛かる。暫くは無言でボールペンを走らせていた榛葉の手が不意に止まった。
「安形?」
 声が聞こえた気がして試しに呼び掛けてみる。しかしながら返答は返って来ない。代わりに掠れる様な呻き声が耳に届く。聞こえた声に眉根を寄せて榛葉は腰を上げた。ソファーへと近寄れば、そこでは安形が苦悶の表情を浮かべている。寝苦しくなる程の気温で無いこの時期に汗を掻きながら、自分の制服の胸元を必死に掴んで。その姿に榛葉は瞬間、硬直した。
「・・・・・・っ、・・・つ」
「安形っ!」
 うなされているのだと理解したのは思わずその肩を掴んで名前を呼んだ後だった。激しく揺り動かされた身体に安形の目が眩しげに開く。
「あ・・・明るい・・・・・・」
 ぼそりと呟いた唇が安堵の息を漏らしたのを、榛葉は見逃さなかった。気まずそうに、そして心配げに安形に視線を落とす。
「凄いうなされてたぞ、お前」
「・・・ん、夢見がちょっと、な」
 自分の手のひらを眺め、そこに溜る汗を確認して安形は呟いた。それを無かった事にする為に制服のズボンに手のひらを擦り付ける。それを榛葉は痛々しいものを見る様な目で見ていた。その視線に気づくと安形は苦笑を浮かべる。
「ちょぉーと昼寝してうなされてただけだろ。深刻になるなよ」
「・・・・・・なら、いいんだ」
 無理矢理笑顔を作り、榛葉はそう応えた。本当は気づいていたから。自分が起こす直前に形作られていた唇の形を。
「あんま、無理するなよ」
「あぁ、」
 反射の様に呟いた安形は今朝と同じように腕で首筋を流れる汗を拭った。べったりと張り付いたシャツの不快感に顔を歪める安形を榛葉は未だ心配げに眺める。
「あー、もうこんな時間か」
 わざとしっかりと声を出すと軽く伸びをして安形は立ち上がった。教室帰るわ、とそのまま視線を合わす事無く安形はドアを越えていく。
――杞憂なら、いいんだけど・・・
 その後姿が酷く不安定に思えて、榛葉は一人心で呟いた。

 生徒会室を後にした安形はまるで行く宛が無いかの様に教室とは別の方へと歩いていた。戻らないとと思っていた安形の耳に始業を告げるチャイムが響く。しまったと思ったのは一瞬で、次の瞬間にはもう諦めに気持ちが切り替わっていた。どうせ、もう間に合わないのだ。
――いいや、サボろう。
 丁度立っていた場所が使われていない空き教室の前だった事もあり、安形はそこへと入って行った。何とは無しに窓際へと歩み寄る。心地良いはずの日差しが寝不足の目にはきつく差し込んだ。痛みすら感じるそれに思わず目を眇める。
「・・・・・・元気だな」
 そのまま下へと顔を向ければ何人もの生徒が校庭を駆けていた。小さな人形の様に見えるその姿を眺めていた安形の視線が一点で止まる。
「あいつかよ」
 ぽつりと呟いた安形の視線の先には他の生徒と一緒に走る椿の姿が映っていた。時折、不真面目にお喋りをしている生徒に激を飛ばしたりする姿は普段の彼から揺るがない姿だった。体育の時位ちょっとしたお喋りは許してやればいいのに、と安形は苦笑する。
――あいつ、オレがこんな所で見てるなんて思いもしないんだろうな・・・・・・
 そんな風に思った瞬間、胸の奥から苦い何かが込み上げてきた。窓の桟に頭を預け、自分が馬鹿みたいだと虚ろに思う。なんで、と。
――なんでオレはこれだけ人が居て、あいつの事見つけられるんだろ・・・・・・
 その答えを知るのは酷く恐ろしかった。知って――気づいてしまえば、もう引き返せない。そう思ってしまう。もう思考を放棄してしまおう、と考えた刹那、目が合った。
「!!」
 驚いて思わず身を隠す様にしゃがみ込んだ安形だったが、あの瞬間に確実に椿が自分を見上げていた事を知ってしまった。止めようと思っていた思考が、逆に高速で走り始める。自分だと気づいたのか。見詰めていた事を気づかれたか。その意味合いを、どう捉えたのか。
――ああ、
「みっともねぇ・・・・・・」
 答えの出ない答えを探そうとする自分に、涙よりも吐き気が込み上げていた。

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2011/04/03 UP
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