安椿 同棲/社会人

 携帯電話が普及してから、殆ど見掛けなくなった公衆電話。緊急連絡用として残されている台数も多くはなく、普段使われている姿を見る事も稀だった。都内のオフィスビルの一階に設置されているそれも同様で、人が触れない所為かやけにキレイな姿のまま、ひっそりと佇んでいる。
 安形がそれに気付いたのは、全くの偶然だった。通り掛かった曲がり角の影から、不意に鳴り響いた呼出音。驚いて足を止めた安形が視線を向ければ、今では珍しくなった緑色の公衆電話が音を響かせていた。不思議な気分でそれを眺め続けて数秒、始まった時と同じに唐突に呼出音が止んだ。
「・・・・・・・・・」
 ゆっくりと電話機へと近付いてみたが、再び呼出音が鳴る事は無い。ただの間違い電話だろうが、そもそも呼出音が鳴る機種自体が少ない事を考えると、それはわざわざ設置してあると言うよりも、元より在った物を撤去しそびれただけのように思えた。
 何気に受話器を持ち上げ、耳に当ててみる。当然、そこからはツーと言うお決まりの発信音が聞こえるだけだった。何処かで人の声が聞こえるかもしれないと思っていた自分に苦笑しながら、安形は受話器を置こうとしてふと手を止める。逡巡して背広の内ポケットから携帯を取り出すと、いつもはそこから発信している番号を表示した。ズボンのポケットに入れっ放しの硬貨を一枚取り出して投入口へと放り込んで、番号をプッシュして発信音がコール音へと変わるのを聞く。数回それを聞いたのち、ぷつ、と小さな雑音がした。
『・・・はい、椿です』
 不審げな声が、受話器の向こうから聞こえる。思わず安形がくすりと笑うと、ムッとしたのか更に不審を募らせたのか、電話から無言が返ってきた。
「悪ぃ悪ぃ、オレだよ・・・っても分からねぇな。安形だよ」
『安形さんだったんですか・・・公衆電話からって珍しいですね』
 切られては敵わないと安形が慌てて名乗ると、椿の声が途端に柔らかくなる。いつも聞いている、いつも通りの電話越しの声。最初の声が見知らぬ誰かに投げ掛ける冷たげなものだっただけに、安形と分かった瞬間の真逆の質を持ったそれが酷く愛おしかった。
「ん、ちょっとな・・・携帯の充電が切れそうだったから。お前ぇはもう家? オレはこれから帰るけど、何か買うもんとかある?」
 滑るように嘘が口から零れる。それを疑う事もなく、椿は、えーと、と言いながら辺りを探った。音でそれを知りながら、安形は次に来る声を待つ。
『特にはないです』
「そっか。じゃ、このまま真っ直ぐ帰るわ」
 いつも通りの遣り取りの後、いつも通りの声がした。
『ええ、気を付けて。待ってます』
 常と同じはずの声音なのに、いつも以上に嬉しげに聞こえたのは、最初に聞いた余所余所しい声と余りに対照的だからなのか。安形には判断が付かなかったが、だとすれば思ってもいない効果だった。
「ありがと。じゃ、また後でな」
 それを最後の言葉にして、安形は受話器を置く。特に意図が有った訳でなく、完全に気紛れからの行動。それが、こんな結果をもたらすとは安形は想像もしていなかった。
――すっげぇ冷たい声だったのが、オレだと分かった瞬間にコロッと変わりやがって。
 公衆電話に突っ伏して、安形は自分の顔を腕で覆う。万が一にも同僚に見られれば、どうした、と声を掛けられる事など必至なほど、自分の顔がにやけているのが安形には分かっていた。
「しょっちゅうは無理だろうけど、偶にならバレねぇよな」
 言い訳のようにぼそりと呟く。退屈な日々の中での細やかな楽しみ。安形はここに公衆電話を見付けた偶然に、心から感謝した。

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