「何?」

思わず聞き返したのは聞こえなかったからではない。理解ができなかったからだ。
目の前の女性は表情ひとつ変えずに、先ほどと同じ言葉を同じような口調で復唱する。

「常闇くんにモデルになってほしいのよ」

その女性は宮下より子といった。
普通科の二年生だという彼女は美術サークルの一員でもあり、油彩画を嗜んでいるという。美術サークルというものがこの学校にあること自体が初耳なのだが、自宅とヒーロー科とを往復するのみの自分には当然なのだった。
モデルというのは絵画のモデルの他ない。俺を描くということだろう。
如何して俺なんだ、と問うと「体育祭で見て」と答える。体育祭の活躍次第でヒーロー事務所から声がかかることは聞いていたが、よもや芸術家のお眼鏡にかなうとは相澤先生でも予測できなかったろう。

「そんなに時間をとるつもりはないの。二、三時間ほどスケッチさせてもらいたくて。できれば三時間くらい。なんなら、モデル料だって払うから」
「それは……」

断る理由はいくらでもあった。通いだしてわかったことだが、雄英生は兎も角多忙だ。日々の学業に加えてヒーロー科の勉強。予習。復習。疲れをとらないと翌日に響くので、休息を疎かにするのは愚の骨頂である。
二時間であれ三時間であれ、知らない人間の興味のない行為に付き合うほどお人好しではない自覚はあった。
しかし、頼まれ事をわざわざ無下に扱うのも躊躇われる。
その時は「考えさせてほしい」とだけ告げて、その場を後にした。


****


「障子、絵画に造詣は深いか」

その日の昼休み。人気の少ない教室で何気なく呟くと、障子はスマホを弄る手を止め俺のほうを見る。表情の変化に乏しい男だが、今ばかりはマスクを覗く大きな目が訝しげな視線を向けているのがわかる。

「……いや、美術の成績もさほどといったところだが」
「そうか」
「突然どうしたんだ」

彼の複製腕が問う。当然の反応だったが、敢えて話すようなことでもないので「大した話ではない」と流してしまった。
障子は深く詮索するような男ではないので、それ以上何かを聞かれることはなかった。

結果として、俺はその日のうちに彼女の頼みを受けることを決めた。
断る理由はいくらでもあったが、断らない理由もそこそこあった。
一、ヒーローを志す者として、他者との関わりを自ら断つことは愚蒙である。それは普通科であろうと上級生であろうと変わらず、むしろ普段接点のない人物との関わりほど大切にすべきなのではないか。あくまでこれは直感であるが。
一、絵画に深い関心はないが、何が彼女を突き動かすのかは単純に興味があった。描こうと思う衝動は何なのか。考えたところで答えの出る問いではないのだった。
一、これは……極めて不埒な心情だが、俺の何に興味を持ったのかを知りたかった。こう言っては先に挙げたことがまるで建前のようで気がひけるのだが、つまるところ、声をかけられて俺は嬉しかったのだ。
教えてもらっていた連絡先に了承の旨を伝えると、すぐに返信がきた。時間と場所を簡潔な文で約束する。モデル料などとても受け取れないので、どうしてもと食い下がる彼女と林檎3つの契約を結んだ。


****


土曜日。正午をまわった頃に、棟の入り口で落ち合い、そのまま美術室まで案内をされた。授業で使われるというそこをサークル活動でも使用しているという。俺にとっては、足を踏み入れるのは最初で最後かもしれない場所だった。
やたらに広くて小綺麗という点以外は中学校の美術室と変わらない。彫刻。轆轤。木の椅子。壁際の水道。絵の具の匂い。しかし美術室にしては妙に殺風景にも思えた。

「今日は活動日ではないのですか」
「活動日自体があまり多くないの」

俺の質問に素っ気なく答えて、美術室を真っ直ぐ進む。目の前に「第二美術室」と掲げられた扉があった。

「ここが、わたしの居城」

先ほどより雑然とした室内に普段の活動が垣間見えた。広さは半分くらいだが何より物が多い。
「常闇くんの舞台はそこ」と指さされた椅子の周りは、不自然に物がない。舞台とは、成程、言い得て妙である。
周りを見まわすと、白い彫刻の中に鳥の剥製が混じっている。鴨、雉、梟、鷹……そうそうお目にかかれるものではない剥製の数々と机に放置された鳥類の素描。
何故俺が呼ばれたのか合点がいくものの、釈然とはしなかった。
彼女は勝手知ったる様子で大きなスケッチブックを広げる。

「勝手に描いてるから、楽に座ってていいよ」
「脚を組んでも?」
「むしろその方がいいかな」

御意。そう答えて、椅子に深く腰掛け腕と脚を組んで虚空を見つめる。モデルの経験はないが、要は普段の体勢でじっとしていれば良いらしい。視線の先の威嚇をする烏と目が合い、俺である必要があるだろうかと思う。
鉛筆の音が響く室内。時折、スケッチブックをめくる音や椅子を移動させる音が聞こえた。飽きずに描けるものだ。
僅かに目線を動かし宮下さんのほうを一瞥する。 真剣な表情で描く姿はとても美しく、その目線に舞台に立った俺という構図がなんだか可笑しい。彼女の瞳には何が映っているというのだろう。

「常闇くん」

どれほど時間が経っただろうか。名前を呼ばれて我に返る。
振り返ると、最初の位置からだいぶ離れたところに彼女は座っていた。

「“個性”を出してもらうことってできる?」

嫌だったらいいんだけど、と付け加えるものの、宮下さんの目は真っ直ぐに俺を捉える。好奇心と情熱の入り混じった純粋無垢な瞳。初めて触れた画家の情熱に、俺のほうがたじろいでしまった。

「“黒影”」

黒い半身が一度現れれば、目の輝きは一層増した。
「触ってもいいかな」と言うので、問題ないと返す。
宮下さんの手が黒影の頬に触れた。

「不思議な質感。これを表現するのは骨が折れそう」
「カッコヨク描いテクレヨナ!」
「すごい、本当に喋るの」
「喋るシ、ドンナポーズダッテデキルゼ!」
「そう。じゃあ格好いいポージングを頂戴ね」

そのままで、と囁いて元の位置へ戻る。つまり立っていろということなのだが、細かい指示を出されていないので少し戸惑った。「格好いい」などと形容されていたものの、単なる言葉の綾だろう。
仕方なしに再び腕を組み、俯いて目を瞑る。一度闇が訪れれば、鉛筆の走る音が明瞭に聞こえた。先ほどより手の止まる回数が多い。黒影を書きあぐねているのかもしれない。
描かれた相棒と己の姿を想像しながら、喧騒から切り離された片隅に佇んでいた。


****


「描かれ慣れているのね」

きっちり三時間鉛筆を走らせたのち、宮下さんはどこからともなく持ってきたペットボトルを俺に差し出した。御丁寧にストローまで付いている。

「慣れてなどいません」
「でもジッとしているのは苦痛じゃないでしょう。見られることに抵抗がないのもヒーロー科だからかな」
「だから俺を選んだのですか」
「え?」

宮下さんは言葉を止めた。口数の多い人ではないが、二の句が継げないでいる姿は珍しかった。

「何故俺を描くのですか」

それは二度目の質問だったが、彼女は考える素ぶりを見せてから、違う答えを出した。

「いつの時代も英雄は描かれるものだから」

それはどれほど昔の話をしているのか。神の啓示を受け、戦いに身を投じたジャンヌ・ダルクか。はたまたメデューサの首を討ち取ったペルセウスか。
俺の心を読み取ったかのように「洞窟壁画に描かれた人々も、きっと英雄なのよ」と言う。
言いたいことはわかる。だが釈然としない。

「俺の頭部が鳥類だからではないですか」

ある程度の核心を持って言ったつもりだった。
しかし宮下さんは鳩が豆鉄砲を食ったような表情を見せたかと思うと、弾けたように笑い出した。今度は俺のほうが面食らってしまう。

「ふっふふふ……ふ……」
「そんなに可笑しいことを言っただろうか…」
「いえ……ふふ……そうだね。半分正解かもしれない」

ペットボトルに口を付けて、一呼吸。元の落ち着いた声色を取り戻す。

「同じモチーフでも描き手によって描かれ方はさまざま。思いや意図が反映されるの」
「ええ」
「体育祭……の録画を観る前から、あなたのことは知っていた。木の上で休んでいたでしょう。その時は……申し訳ないけど、勝手に描かせてもらってたの」

彼女はスケッチブックを捲り、最初のページを開いた。荒々しい線だが描かれているのが俺だということはわかる。それも、かなり近い。
━━いつの間に。

「わたしの“個性”。気配を消せるの」
「気配を……?」
「おかげで満足のいくスケッチができた。その時はそれで満足してたのだけど、一年生の録画を見て──君を見て、ちゃんと描かなきゃと思ったわけ。すごいヒーローになるもの。なるでしょう?」

恐ろしい殺し文句だと思った。首を縦に振るほかない。俺の反応を見て、宮下さんは満足そうに微笑む。あまり笑わない人だと思っていた。
帰り支度をするついでに、俺は気になることをひとつ訪ねた。

「その“個性”で、ヒーローを目指そうとは思わなかったのですか?」
「……常闇くんは画家になろうと思ったことはある?」

否。
首を横に振ると、彼女は美しく目を細めた。


****


「常闇」

週明けのまだ静かな教室で障子に声をかけられた。

「他科の女子がお前にこれを。渡せばわかると言っていた」

そう言う障子の手には、彼が持つにしては些か可愛らしい紙袋が掲げられている。素直に受け取ると、それは三つの林檎だった。

「リンゴ……ああ、好きだと言っていたな。どういう経緯のリンゴなんだ」

彼にしては珍しい反応だった。他科の女子が来たからか、宮下さん自体が気になったのかはわからない。
しかしながら彼女について話すのは、なんとなく躊躇われた。
「大した話ではない」と言えば、奴は「そうか」と返す他ない。そういう男だ。
代わりに、口に変化した複製腕が囁く。

「峰田のいない時間帯で良かったな」

全くだ。
そう呟くと、一瞬だけ目を細めて予鈴の合図とともに自席へと戻っていくのだった。

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