莫迦者。
霞みがかった頭で彼はそう思った。
もとより危険を省みない危なっかしい女だった。重々承知していたことであるし、そのような彼女に惹かれていたという自覚もあった。
しかし今回ばかりは、莫迦者となじるほかない。
常闇はたしかに「逃げろ」と言った。だが宮下は言う通りにはしなかった。
怯えた表情だって見えた。足がすくんでほとんど動けない状態だったというのに。
彼女は決して背中を見せなかった。
それどころか、まったくもって愚かなことに、脅威そのものとなった常闇に向かってきたのだ。何も持たない身体ひとつで、一心不乱に走った。
かろうじて残った理性で、彼は自身を食らう獣を抑える。だが月の光すら朧な夜に、彼の抵抗はたわい無い愛撫となって消えた。数刻前まで従えていた獣は、いまや全てを喰らい尽くす獰猛な魔物だ。

──駄目だ!

からからになった喉で叫ぶ。声になっていたか、彼にはわからない。いずれにしろ彼女には届いていないのだろう。

「踏陰くん!」

名前を呼ぶ声が暗闇にきんと響いた。常闇ははっとして、声の主へ伸びた黒腕を必死に止める。僅かに軌道の逸れた腕は虚空を掻き、勢いをそのままに地面を削った。
その一瞬の隙をついて、宮下は魔物の口目掛け飛び込んだ!

(苦しい。苦しい。より子。駄目だ。苦しい)
──アアアアアア!闇ダ!闇!オレノ闇!モット寄コセ!
(より子。如何して。危険だと、言ったのに)
──喰ライ尽クスゾ!アア!暴れサセロォ!邪魔ヲスルナ!
(より子、より子、お前だけは)
──オオオオアアアアアアより子!より子!嫌ダ。シンジャ嫌ダ……アアア!より子……より子……より子……

それは産声に似た慟哭だった。
四方八方へと広がっていた黒腕は中心へ集まり、やがて黒い塊となった。まるで幼い子どもを守るように、鳴きながらうずくまって。
常闇は薄れゆく意識の中で、腕の中の少女が何と囁いたのかをずっと考えていた。





腕の中で身じろぎするのを感じて、常闇は目を覚ました。
薄眼を開けた先には艶のある黒髪が静かに寝息を立てている。
夢を見ていた。朧げな記憶だが、恐ろしく、哀しく、懐かしい夢だった。何度も繰り返し見る夢だが、未だに慣れない。
かつてのように己の力に惑わされることはないというのに、彼は今もなお暗闇を恐れた。だから寝室の僅かな照明はいつでもついている。
目が冴えてしまった。まだ起きるような時間ではないが、そのまま微睡むこともできない。
眠っている顔を覗こうと動くと、嘴が頭に触れた。寝起きはいつもこれで失敗するのだった。こんこんと眠る彼女を思いがけず起こしてしまうたび、彼は忸怩たる思いに駆られる。

「……あ……おはよう?」
「すまない。起こした」
「うん……ずいぶん早起きだね……」
「夢を見た」

暗黒に包まれる夢だ、と静かに呟くと、彼女はふっと笑い微睡みながら囁いた。
「踏陰くんを1人にはしないよ」と。

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