静まり返る教室に夕陽が射し込んでいた。
笑い話と噂話と思春期特有の騒がしさを詰め込む箱に、紙の擦れる音とシャープペンの音、それだけが響いている。
昼間の騒々しさが嘘のように静寂に包まれているのは、放課後だからではない。
体育館に響くボールの音、道場から聞こえる奇声、ホールに重なる音色――いつもの賑やかさはまるで無く、試験を控えた生徒たちは非日常へと誘われた。
黒尾鉄朗も例外ではなく、普段留まることのないこの箱で試験範囲の問題を解いていた。部活のできない苛立ちを抑え、淡々と解答欄を埋めていく。
別段頭の悪い方ではないが、勉強しなくても良いほどの余裕はない。部員には、赤点など取ったら停部だと伝えている。万が一にも、主将がそうなったらと考えると笑えない話だ。
やるだけのことはやる。当たり障りのない点数を取る。そして、何の気がかりもせず、バレーに打ち込む。それだけのために今は目の前の問題に取り組むのが黒尾の、バレー部のやり方だった。
ふと、黒尾は周りが無音であることに気づいた。
左後ろの席から聞こえるはずの音がぱったりと止んでいることが気になり、振り返る。と、同時にぎょっとする。

「何にやにやしてんだ」

左後方、窓際に座っている宮下より子が口を押さえて笑っている。一人で、にやにやと笑っている。
黒尾に問われて、宮下は慌てて顔を背けた。依然、その目は三日月型のままだ。

「なんだよ。気持ちワリーな」
「な、なんでもない」
「なんでもないこたないだろうが」

黒尾の目が、宮下の目をとらえる。
逃れられない、といったようにどぎまぎとした。
やがて観念したらしい宮下が、押さえた手を離さないまま口を開く。

「黒尾のね‥‥プロポーズってどんなのかなあと考えてまして」
「‥‥?」
「弧爪くんが脳で背骨で‥‥えーと何だっけ、そういうのでしょう。プロポーズもそんな感じなの」

心臓――そう正そうとして、口をつぐむ。彼女の間違いはさして問題ではなく、重要なのは何故そんな考えに至ったのかということだからだ。
呆れながら後ろ髪をガシガシと掻き、溜め息をついた。その様子を見て、彼女はやはりニヤニヤと笑っている。とらえどころのない性格を承知していたつもりだが、その思考はいつもナナメ上をいった。
しかし、ぐるぐると適当な線を引いたノートが捗らない勉強を物語っている。
黒尾は鋭い目を細めて、口を開いた。

「くだらねーこと考えんな。お前テストやばいだろうが」
「でも、黒尾がいると集中できない」
「俺のせいかよ」
「‥‥ね、知ってる?一目惚れ同士に生まれた子どもは賢くなるんだって」

借りたまんがで得た知識を、惜しみなく披露する彼女に黒尾は疑問を抱いた。ただ一つ、単純な疑問である。
しかし、黒尾にはそれを問いただすことができなかった。もし、自分の思い過ごしであったら、深い意図がなかったら――そう思うと、恐ろしくて口を開くことすら躊躇われた。自分はこんなにも臆病であったか。
ふと目視界に入った窓の向こうでは、いつの間にか夕陽が沈んでいた。夜を切り裂いたような三日月が異様に輝いている。暗い雲を纏っているというのに、切り裂かれた部分が鋭い黄金であった。
黒尾は、いよいよ箱に取り残されたような気分だった。
室内から漏れた光と僅かな月光で廊下が形作られているが、人の気配は感じられない。
――不気味だ。
黒尾はこの独特な雰囲気が好きではなかった。
部活のできない苛立ちこそあるが、やはり人のいない学校は異質だった。


ガタン、と大きな音がして我に返る。
黒尾が視線を戻すと、目の前でニヤニヤと笑っていたはずの宮下が机の間を歩き、やがて教室の前に着いた。蛍光灯のスイッチを全てオフにして一言、「月がきれいだね」と呟いた。
刹那、黒尾は自身に渦巻いていた違和感が、ふっ、と吹き飛んだのを感じた。閉ざされた箱が月明かりに照らされた心地よい空間へと変わるのと同時に、彼女がこの放課後が好きだと言っていたのを思い出した。
――そうか、俺はこのために取り残されていたのか。

不明瞭な影が近くへ寄るのを感じて、黒尾は先ほどの疑問を投げかける。
それはただ一つ、単純な疑問であった。

「なあ、なんでお前『一目惚れ』だって知ってんの」

表情が見て取れないが、おそらく笑っているのだろうと黒尾は直観した。
「帰ろうか」と呟く声が静寂に広がって、やがて消えた。
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