その女を初めて見たのは、聖域に来て最初に迎えた夏だった。

天蠍宮のすぐそばの、大きなオリーブの木の根元に立っていた。照りつける陽射しをものともせず、涼しげな顔でおれを見ている。この世のものと思えない存在感のなさに、背筋がぞくりとした。
幽霊なんて初めて見た。
実体を持たない死人など恐れるに足らないはず――とは言え、おれの小宇宙で対抗できるものなのだろうか。
聞くところによると、蟹座の聖闘士はあの世の住人を呼び出すことができるらしい。そんな力があれば話は違ってくるが、きっと物理攻撃は効かないだろう。スカーレットニードルが効くとも思えない。生身の人間ならともかく、15発で仕留める自信がない。というか、絶対痛覚とかもってない。
蟹座の聖闘士を呼ぶか?――いや、だめだ。あのデスマスクというやつが、素直に言うことを聞くとは思えない。ばかにされるのが関の山だ。
こんなとき、前の宮も後ろの宮も無人なのはどういうことなのか。なぜわざわざこの宮に出てくるのか、くそ、あの霊はなんでおれを見てるんだ。だんだん腹が立ってきた。
――とりあえず――そうだな、とりあえず、カミュを呼んでこよう。
幼い頭をフル回転させたおれは、異界のプロではなく気の知れた友人に頼った。
「幽霊がいるから来い」などと言って来るようなやつではないと分かっていたし、気の進まない様子だったが、半ば強引に自宮へと連れてきたのだった。しかし――

「なんだ、何もいないではないか」

女は消えていた。女のいた場所には、大きなオリーブの木がひっそりと立っているのみだった。
カミュは怪訝な表情を隠さなかったが、必死の弁解によって、嘘ではないことは信じてもらえた。そのあとは、幽霊のことなど忘れて二人で遊んだ。



その女は二日後にやってきた。相変わらず、オリーブの木の根元に立っている。
目があった、というのは決して気のせいじゃない。目のあった瞬間、女はぎょっと目を丸くさせて反らしたのだ。幽霊にも感情はあるらしい。
一昨日の友人の表情を思い出して、宝瓶宮へ向かう。
あ、と思って、振り返ると女は消えていた。
どうやら他に人を呼ばれたくないらしい。おれにだけ用があるのか、ただ脅かしたいだけなのか、それはわからない。はっきりしていることは、おれは一人で決着をつけなければならないということだった。
風に揺すられる木をしばらく見ていたが、再び姿を現すことはなかった。



きっちり二日後に、女は現れた。
どうしても、木のそばから離れないのは、その場所で死んだからだろうか。「地縛霊」というのを聞いたことがある。なんでも、自分か死んだこと理解できずに死に場所に留まる霊らしい。
しかし、十二宮のど真ん中とはいえ、あの女がこんなところで死んだとは考えられない。あんな華奢なやつが、聖闘士とも、聖闘士に対抗するようなやつだとも思えないのだ。
意を決して、女のほうへと向かう。女はぎょっと身を竦めて、大きな木の後ろへ隠れた。

「おい、消えんなよ!」

今度は消えなかった。木の蔭からじっとおれを見る。

「おまえ、幽霊のくせにびびりなんだな」

一瞬、女は戸惑ったように見えた。おそるおそる口を開く。

「……蠍座の、聖闘士?」

いかにもそうだと言うと、ぼんやりとしていた女の表情は、ぱあっと明るくなる。青白かった頬は、一気に血が通ったように生命力に満ちていった。まるでおれを待っていたというように、うっとりと目を細める。
そして再び、確かめるように、繰り返した。

「蠍座の、聖闘士」

そのとき初めて、女が幽霊でないことを知ったのだった。






「ミロ」

この場所に似つかわしくない、美しい声がおれを呼んだ。オリーブの木陰から覗かせた顔は、13年前から何一つ変わらない。

「どこへ行くの」

夜も開けぬころに、宮を出ようとするおれを訝しく思ったらしい。不安げな表情を隠しきれずに、白い顔がより青白くなっていた。

「……不穏な予感がする。アテナのもとへ行く」
「アテナの……」
「そんな顔をするな。ご無事が確認できれば、すぐに戻ってくる」
「うそ」

彼女は妙に聡いところがあった。長期間宮を離れるときにはいち早く感づき、適当な誤魔化しはすぐに見抜く。
今日もまた気づいているようだった。

「お前に隠し立てしても仕方ないな」

笑ってみせたが、潤んだ瞳は一層哀しげな色を映す。

「……これは、冥王軍との聖戦だ。おれは――おれたちはこのときのために聖闘士として生まれたのだ。お前なら分かるだろう」

オリーブの元に生まれた彼女に分からないはずがない。だというのに、信じられないと言うように眉を潜める。その表情に、一瞬決意が揺るがされるのを感じて恐ろしくなる。

「……おれは行く。お前は生きるんだ」
「ミロ」

木のそばからは決して離れられないというのに、すがるような声を出す。

「……もう、戻ってこない?」
「……ああ、さよならだ」

さよなら。と、口だけを動かした。決して声には出すまいと顔を顰めて。
背を向けると、再び名を呼ぶ声を聞いた。振り返らず歩みを進めると、二度と声を聞くことはなかった。
:::::::20160610
書きたいことはいろいろあったはずなのですが……
NDに蠍座が登場したら加筆したい
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