笑った顔が見てみたいだけ
弟が。シリウスが帰るのを見送ってから、私は食卓に戻った。
(食べきれないだろうと思ったのに)
空になった食器を片付けながら、自然と口元が緩む。
「シリウスと一緒に屋敷に帰ることもできたが。本当にこれで良かったのかの。ミス・ブラック」
「私にマグルの世界を勧めたあなたが、それを仰るとはねダンブルドア」
本当は戻って欲しくないくせに。
部屋の奥から現れた年配の男性。大柄な彼は、白い髭を撫でながら、ローブを床に引き摺っていた。
学生の頃も、そして今も。眼鏡の奥でキラキラする彼の瞳は苦手だった。それに見つめられると自分が正直者になりそうな気がしたからだ。
私は片付ける手を止めて、スッと腰を屈め視線を伏せて言った。
「冗談です。貴方には感謝していますわ。住む場所も、職も与えてくださいましたもの。そして、弟のことも」
「ほっほ。シリウスのことならば、ハリーに感謝すべきじゃ。彼を救い出したのは彼なのだから」
「お戯れを」
若干十四歳の少年が、大人を。ましてや組織を言葉ひとつで動かせるとでも?本人は大冒険でもして、大層な宝を手に入れたつもりでしょう。
けれど、そうして広がる目の前の世界だけを信じているのならばとんだ笑い種だわ。そして、それを側で信じている者たちも。
(ほんと、おめでたいわね)
それはちょうど、舞台のようだ。
彼らはキャスト。ダンブルドア(彼) のしたためる筋書き、帝王の補正に従って演じる役者たち。そして私は舞台から降りるよう促された、一介の観客に過ぎない。
「でもまあ、そうですね。一度くらいはお会いしたいものですわ。リリー・エバンズの息子さん」
「そういえば。君はリリーと親しかったかな」
「親しいというほどではありません。図書館で見かけたら勉強を教えてあげる程度でした」
彼女は優秀な後輩だった。
一を教えたら十を知ってしまうくらいに聡明な子。表裏がなく白黒はっきりしている答え方をする。とても礼儀が正しかったから、他寮であっても好意を抱いたのを覚えている。
「セブルスに言わせれば、父親似らしいがのう」
「では贈り物にしておきましょう。クリスマスはプレゼントをシリウスに送るつもりなので、その『ついで』に」
「それが妥当じゃ」
笑いかけられて、微笑み返した。
本当に、この人は意地が悪い。私がジェームズ・ポッターを好きになれないと知っていてこんなことを言うのだから。
(彼の存在は、私の弟の人生を十二年間も棒に振ってくれた。好きになれるわけがないでしょうに)
『牢に入ってまで誰かを庇うなんて馬鹿げてる』
レギュラスの言葉が脳裏を過ぎる。
けれど、そうでもしないとポッター(彼)の好き放題されてしまう。
(シリウスが私を避けてしまうじゃないの)
大好きな私の弟。ポッターと一緒にいるようになってから、輪をかけて反抗するようになった。
反抗する子を叱っても反抗するだけ。それならば庇って味方だと信じてもらう。周りさえ巻き込んで。疑う余地がないくらい、完璧に。自らをマグルの世界に堕とすことになったとしても。
シリウスには見せてあげないと。
レギュラスは諭してあげて。
ふと。
壁にこじんまりと飾ってある、幼い頃の姉弟の写真が目に入った。
その裏には、愛する末っ子がくれた、手紙とも言えない一通の短い紙切れが貼ってあった。
『僕の身に何かあっても、どうかクリーチャーを問い詰めないでやってください。彼は僕のために深く、酷く傷ついています。もうこれ以上傷つけたくないんだ。
ごめんなさい、アトリア姉様。ごめん。姉様の弟で心から良かったと思います。本当にありがとう。
追伸・アルファード叔父さんが気に入らなくても仲良くしてくださいね。叔父さんに逃げられたら、もう嫁の貰い手はないんですから。僕は責任持てませんよ』
「ごめん」の文字が滲んでいた。
分からないと言っていたのに、やはり分かってくれた。私のことも、あの日のことも。
夫とは不仲ではなかった。なれなかった。
アルファードの側にいれば、自ずとシリウスにも会える。故に、大人しくしていたからだ。
「アトリア、お前は俺と暮らしながら何を考えてる?」
「もちろん弟のことですわ、アルファード」
唯一、包み隠さず明かした一言。叔父はそれだけで全て察してくれた。「相変わらずだな」という呆れ顔は今でも覚えている。なんたって「ブラコンも程々にしとけよ」が彼の遺言なのだから笑えない。
私は弟たちを。
シリウスは親友を。
レギュラスは家族を愛した。心の底から。
そして、父と母は子ども(私)たちを愛していた。
子どもたちがこうなんだもの。
ましてやその両親が、愛を知らなかっただなんて思わない。
本当に愛していなければ、私は早々に帝王に捧げられていただろうし。シリウスだって、勘当することで闇の勢力から遠ざけたと考えることもできる。そして、レギュラスに対しては言わずもな。
(なんて素敵な家族だろう)
だからこそ私は、この身体に流れる血を誇ろう。私たちを繋いでくれる、この血を。
鼓動が止まる、最期の一瞬まで。家族(彼ら)に恥じない生き方をすると誓おう。
来た時みたいに、闇に溶けるように帰って行ったダンブルドア。
蝋は落ち、月明かりが照らす家で、一人ボトルを傾ける。窓を開けると、水面が星々を映した。
それを溢さぬように、私はワイングラスを目の高さに上げて言った。
「Tonjours Pur(純血よ、永遠なれ)!」
永久燦然輝き続ける星のように。