定義されていない「コレ」の正体
火の国西南部。
その位置する大繁華街「短冊街」。
賭博場に飲み屋、遊戯場がひしめき合うように立ち並んでいる。道には露店が立ち並び、連日祭のような賑わいを見せている。
二日前。
三代目から新たな任務を言い渡された。
「カカシよ」
「ここに」
「短冊城に住む、太守様の御子息の護衛を任せたい」
大名といえば、忍衆を囲っている者も少なくないと聞く。ただし、基本抜け忍で構成されているため、表立って公表されることはない。
そのため、短期的な護衛や護送といった依頼は、直接各忍里へ依頼が来ることが多い。
「期間は一週間から三ヶ月」
「随分と幅がありますね」
「うむ。事情が事情じゃ」
大名の跡目争い。
(成程ね)
護衛対象は、六番目の息子。
毒殺暗殺なんでもありきの環境なのだとすれば、暗部に割り振られたのも頷ける。
「期間は決まり次第、こちらから伝令を送る」
「はっ」
依頼者との対面は一切不要とのことなので、オレは直接護衛対象の元へと向かった。
夜。
繁華街の灯りを避けるように屋根を伝い、城へと向かう。見張りの目を掻い潜り、城の前に降り立った。
(いつ見ても大層なもんだ)
城下の繁栄を象徴するような城。
水堀りを歩いて渡り、石垣を伝い登った。その瓦を足場にして跳び、降棟を二度踏む。窓から気配や中の様子を探ってから木格子を外して城内に侵入した。
(西の小天守に住んでいると聞いたが)
城の中はしんと静まり返っていた。
(人気がない)
いくら夜だとしても静か過ぎる。
子息がいるのであれば、寝ずの番をしているものが幾人かはいよう。
(その姿もない)
慎重に歩を進め、二階から三階と登った。
やはり誰もいなかった。
(たまたまなのか。そもそもいないのか)
上の階から、やっと人一人の気配を感じた。
生活圏であるはずのニ階や三階を放置し、あえて最上階である天守にいる変わり者。
オレは階段を踏んだ。
顔を出す前に跳躍し、天井の梁へと着地する。身を屈めて部屋を見渡した。
(あの男か)
床に直接肘枕をして、小天守の花頭窓から月を望む広い背中。着流しを纏い、肩には女物の羽織を掛けている。
開放的な窓から吹く夜風が、首の後ろで結った鳶色の髪を遊ぶように靡かせた。
何を食べるでもなく、何を呑むでもなく。
ただ静かに十六夜の月を眺めている。
「ーーー誰だい」
「!」
低く、水面を静かに揺らすような声だった。まさか、と思い息を凝らしていると。
「天井裏の君のことだよ」
見破られていた。
「そんなところで黙っていると『鼠ちゃん』と呼んでしまうよ」
それは御免だ。
オレは音なく床に降りた。
彼はゆるりとこちらを振り返り、「おお、本当にいたとは」と色素の薄い瞳を僅かに見開いた。
当てずっぽうだったとは露も思わず、つい面の下で眉を寄せると、彼は口元を緩めたまま眉をハの字に下げた。
「そんな不機嫌そうな顔しなさんな。当てずっぽうじゃない。私が他より敏感なだけだから」
面の下の表情まで見透かすように語る彼は、優しげに目を細める。
「君が新しい護衛かい」
「はい」
「そうか。まあ、何もないところだけどゆっくりしていってくれ」
本人が言う通り、ここには何もなかった。調度品はもちろん、箪笥も、棚も、机も、布団さえも。
部屋にあるのは、彼と彼の傍に鎮座する桐箱のみ。人間が生活する上で必要とするはずのものが何一つ見当たらない。
「普段の生活はこの階で?」
「うん、そうだよ」
ようやく話すのに不便をすると思ったのか。窓を背にして、ごろりと寝返りを打つことで身体ごとこちらを向いた。
「ああ、なるほど。鼠ではなく猫だったか」
「は」
「子猫、ではないのだろう」
恐らく、前者は面のこと。
後者は年齢のこと。
「子という歳ではありません」
「そうか。では、猫ちゃんだな」
「ね、猫、ちゃん……」
口元が引き攣る。
決して遊びで言ってるわけでないことは声色で分かった。
しかし、成人の男がそう呼ばれるのは大分キツイものがあるわけで。
「それは、やめて頂けると」
「ああ、猫より豹か好きかい。それとも虎か。虎ちゃんか」
「動物(そちら)の問題ではありません」
参った。
男の見た目の歳は、三十の半ば。こちらの気が抜けるような独特の緩い話し方。ツッコミどころは多いのに、流れるように言葉を紡がれ、どこから突いていいか分からない。
聞き良い落ち着いた声が、遮るのも躊躇わせる。
「貴方様のことは、なんとお呼びすればよろしいでしょうか」
ならば新しい話題をと思い投げかけると、彼は分かりやすく口をへの字に曲げた。
「名はあるが、長たらしくて覚えるのも言うのも呼ばれるのも億劫になるからなあ」
おい、待て。自分の名前だろう。
それとも名を隠そうとしているのだろうか。
ーーー否。単純に。心の底から。ただただ名乗ること自体が面倒臭いという気持ちが、顔からも態度からも滲み出ている。
「どうしようかねえ」
思えば、この男。寝返りを打つだけして、今いる場所から一歩どころか指一本さえも動かしていない。
(この歳でものぐさか?)
彼はうーんと唸りながらオレから視線を外し、宙を見つめて勘案してからこう言った。
「ーーー六夜。呼びたければそう呼ぶといい」
「かしこまりました」
オレが頭を下げると、彼は目尻を下げた。そして、またゆっくり寝返りを打って窓の外を向く。
ここに来た時より、月が幾分傾いていた。
「そろそろ、おやすみになられては」
「そう急くでないよ」
六夜はひらりと手を振って言った。
「太陽が登り、落ち、そして月が出づる。今日も明日も何ら変わらないのだから」
肩越しに見せた初めての笑み。
それは、夜空から地上を見下ろす月のように、ただただ静かなものだった。