愚かで小賢しい情報操作
夜。
俺は喉の渇きを感じて目を覚ました。
(何時だ)
気にはなかったが、部屋にある時計を見る気は起きない。
俺はベッドに手をつき身を起こした。
(杖、杖……)
眠りまなこをそのままに、手を枕元に伸ばしては家用の松葉杖を手繰り寄せる。
ベッドに座り、それを脇に差し入れようとして。
「ーーーどこに行くの」
背中から服の裾を引かれ、寝起きの掠れた声に呼び止められた。俺は一旦杖から手を離し、肩越しに振り返る。
「カカシ」
「水ならオレが」
「いい。ちゃんと杖持ってるから大丈夫だ」
「チヒロ」
「一週間ぶっ通しだったんだろ。寝てろ」
カカシはきゅっと眉根を寄せる。何か言いたげに口が開くが、しかし眠気が優ったのだろう。落ちてはうすらと開き、また落ちる瞼。
俺はそんな彼を宥めるように、見た目より柔らかな髪を梳くように撫でる。
「チヒロ、……」
「すぐに戻るよ」
すると、服に引っ掛けていた指先がするりと解けた。俺はその手を布団に仕舞ってやってから、杖を脇に挟み腰を上げる。
(参ったな。まだ介護を受ける歳じゃないんだが)
反対の手でドアノブを開けながら、一人肩を落とした。
▽
俺は一度、ベッドから落ちたことがある。
あの日も喉が乾いて目を覚ました。しかし寝ぼけていたのだろう。松葉杖に手を伸ばすことも忘れ、そのまま身を起こしてはーーー
「っ、あ」
視界がぶれたと思った時にはもう遅かった。
ぐらりと右に揺れた身体。咄嗟に受身を取ったため大事はなかったものの、床に転がったときに距離感が掴めず右腕を強打する。
「チヒロ!」
音に気付いてリビングで休んでいたカカシが、部屋に駆け込んで来た。
(やらかした……!)
足があるものと思って降りてしまった。おまけに、左足先に痺れるような痛みが走り俯いた顔を歪める。
「ボルトに馬乗りにされてぎっくり腰やったからじゃないのか」
「いや。実はその前からなんだ」
辺りがすっかり暗くなり、夜風が熱い味噌汁を冷ます頃。
無口のおやっさんが切り盛りするいつもの屋台に、『九楽(くらく)』という赤い提灯が灯る。
俺がおやっさんの和えたたこわさを箸で摘みながら足先の痺れについて語ると、隣の席でかぼちゃの煮物をつついていたゲンマが眉を顰めた。
「どうして黙ってた」
「いや、いつかは治るかなって」
「今言った理由は」
「いやー、どうにも治りそうになくてなー……」
「お前な」
「俺だって言うつもりなかったっつーの。でも」
『そんなにカカシさんに言いたくないなら、ご自分で他に信頼出来る方に知らせておいてください。症状を和らげる事はできても、いつ悪くなるか分からないんですから』
『でも今のところ大丈夫だし、経過を見ながら』
『さもないと、カカシさんに言い付けますよ』
『分かった。ゲンマに言っておく』
『絶対ですよ』
「って、シズネさんに脅されたんだ」
「脅されて当然だ」
話の傍ら酒を頼もうとしたら、ゲンマが先に俺を親指で指し「コイツに麦茶と大根と巾着」と頼んでくれやがった。嬉しくない。
「で、症状はどれくらい進んでるんだ」
「それなりに意識して大事にはしてたから。たまに痺れがあるかなー、程度」
「それが酷くなったらどうなる」
ーーーコトン。
健康的なお茶の注がれたグラスと、ほかほかのおでんの皿とが遠慮気味に音を立ててカウンターに並ぶ。
俺はからしのついたおでんの皿を引き寄せ、割り箸を割りながら答えた。
「下半身の筋肉に力が入らなくなる」
腰からくる神経痛。
酷けりゃあ、座れない、下半身が動かない、歩行障害が出る事だってあり得る。
「右脚を切断した時に傷付けていたのか。はたまた受けた毒の影響か定かじゃないが。神経が少しばかりやられてたらしくてな」
直後に気付いていれば良かったが、血を止めて傷を塞ぐのが精一杯で他に気を回せなかった。
『体内に毒は残っていない。傷もしっかり塞いであるが、すぐに措置出来なかったのは痛いな。何年か経って影響が出る可能性もある。気を付けていろ』
五代目からも言われていたことだ。痛んだところで、「ああ、来たか」と思う程度だった。
「今から治療出来ないのか」
「無理だ。進行を遅らせるしかない」
大根を四つに割り、腕の縁についている芥子に付けて口に入れる。軽く奥歯で噛むだけでほろりと身が解れ、優しい醤油味がじわりと口の中に広がった。
「幸い、今のところ痺れ以外に症状ないし。腰の負担を減らしながら生活すればいい」
「言うだけは簡単だろうが」
「それな」
痛いところを突かれて、俺は肩を竦める。
平たい話、腰に負担のない生活は出来ない。立って座る以上、どうしても腰は使うからだ。
「まあ、姿勢には気を付ける」
「カカシに言った方がいいんじゃないのか」
「言えねーよ」
箸の先で残った大根をずぶりと刺した。
「アイツ、今でも俺の足を見ると時折湿った顔するんだ。……言えるわけねーだろ」
俺が脚をなくしたのは、俺が弱かったからだ。カカシのせいじゃない。
(それなのに)
切断したのが自分だから。
俺が脚をなくしたのは自分のせいでもあると思ってる。
『オレの命なんだから当然でしょ』
そう言って、容易く人の分まで背追い込もうとするヤツだから。
「やっと。やっとだ。あの歳になって、屈託なく笑うようになったんだ」
大戦が終わって。火影になって。
昔に比べて、喜怒哀楽が比較的顔に出るようになった。
『最近?大変っちゃあ大変だけど。
ま!やるって決めたからな。部下たちの手前もあるし、やるしかないでしょ』
眉を下げて笑ってる。
でも昔のようにどこか影を感じる笑みじゃない。笑う時は本当に、嬉しそうに笑うんだ。
それなのに。
「見たくないんだよ。アイツの痛そうな顔はもう、ーーー見たくない」
大根を食べ終えて見えるおでんの汁。
そこに映った自分の情けない顔を見たくなくて。俺は箸の先で摘んだ巾着を泳がせた。
ゲンマはそんな俺の様子を横目で見、徳利を傾ける。
「知らないで、後で気付く事の方がもっと辛い場合だってあるだろ」
「気付かれなければいい」
「出来ると思ってんのか」
お猪口を持ち上げた旧友は、溜め息混じりに言う。
「お前、隠し事下手だろーが」
なんでミナト先生と同じこと言うかな。
俺は、汁をどっぷり含んだ巾着を掬って齧り付いた。
しかし、他人から見た自分が正しい。その話は真だった。
「わ、りぃな、起こしちまって」
俺は落ちた衝撃で息が詰まりそうになりながらも、なんとか声を搾り出す。
誤魔化すように笑いながら体を起こすと、カカシがぐっと眉を寄せた。
(ああ、やっぱり)
そんな湿った顔をさせたくなかったのに。
(下手すぎだろ、俺)
こんなことも隠し通せない自分に嫌気が差す。
カカシは何も言わずに、こちらへ近付いて来ては膝を折る。そして膝の裏に手を差し入れ、俺の身体を横抱きにしてベッドに戻した。
「カカシ」
「水でしょ。今持ってくるから待ってろ」
言われたまま待っていると、すぐに水を持ってきてくれた。
「ありがとう」
「ん」
冷えたグラスを受け取り、少しずつ嚥下する。空になったグラスを枕元に置くと、今度はカカシがベッドへ乗ってきた。
「?カカシ」
「黙って」
ベッドが男二人分の体重に文句を言うように、ギシリと鳴った。それから彼は俺の背に回り込み、その腕がいつも通り胴へと回る。
「どうした」
「黙れ」
独裁か。
遂に「黙って」が「黙れ」になった。とはいえ反論する立場にないので言われた通り口を閉ざす。
カカシは俺の左脚が下になるよう横向きに俺の身体を横たえ、自分もまた横になる。
掛け布団を手繰り寄せるように掛けてから、布団の足りない長さを補うように俺を引き寄せた。
背中から伝わる温もり。
それはいつも通りのはずなのに。
首筋に振ってくる吐息がどこか苦しそうで。頬を擽るその髪が震えている。俺は唇の端を噛み、肩越しにそんな彼の頭に右手を伸ばした。
「俺が転んだのはお前のせいじゃねーよ」
「ッ」
「ありがとな。水、助かった」
そうして頭を撫でると「水くらい、いくらでも運ぶよ」なんて言い出すから、ほどほどになと苦笑する。
それからだ。
カカシが俺を抱えながら、同じ布団で眠るようになったのは。
「ベッド、新しくするか」
「なんで」
「いや、狭いだろ。普通に」
翌朝。
昨晩作り置きした大根と葱の味噌汁と焼き鮭。それに市販の納豆。
俺がテーブルにそれらを並べながら呟くと、炊飯器を開けたカカシがしゃもじ片手に小首を傾げて言った。
「別にいーんじゃない。オレは気にしないけど」
「俺が気にする」
それに、そろそろ肌寒い季節がやってくる。男二人でシングルの掛け布団一つじゃあ心許ない。
「せめて羽毛布団だけでもダブルにしとかないと」
「あのベッドにダブルじゃあ、羽毛の重さで擦れ落ちそうだーね」
「言うなよ」
じゃあセミダブルで、と言うと彼もまた「それならいーんじゃない」と相槌を打った。
カカシは炊き立ての白米を茶碗に装い、それぞれの席に置く。俺は自分の椅子を引き、腰を下ろした。
「「いただきます」」
カカシが座ったのを確認してから手を合わせ、納豆の器にタレとからしとを入れて掻き混ぜる。
ほかほかのご飯に納豆。これこそ正義。
「じゃあ、布団は適当に買っておくけどいいか」
「ん、任せるよ」
そうして任された五日後。
「チヒロ」
「あ?」
「これ、なに」
仕事の合間に我が家を訪れたカカシが、じとりとした目を更にじとりとさせて俺に問う。
俺は開いていた巻物片手に、胸を張って答えた。
「羽毛の掛け布団だ」
「見りゃあ分かるよ。オレはこのカバーの柄は何かって聞いてるの」
カバーの柄。
カカシが指差した布団カバーには、丸くデフォルメされたブルドックが描かれている。
「いやー、なんか眺めてたらさ。このジト目加減が小さい頃のカカシに似ててな。つい手に取っちまってーーーいたたたたた頬抓るのやめろ痛い!」
「誰が、誰の目に似てるって」
「お前の布団カバーだって手裏剣だろ!」
「こんな子どもっぽいのよりマシだーよ」
やっぱりオレが買ってくると言って、カカシは笠と羽織とを置いて消えた。
二十分後。
戻ってきた彼が小脇に抱えていたのはシックで落ち着いた色をしたチェック柄のカバーで。
「合ってんなー……」
「ま!こんなもんでしょ」
乗り気ではなかった割に、満足気に腰に手を当てるカカシ。
自分の部屋にマッチした布団カバーを見、顔がいいヤツはセンスもいいんだなと思い知らされた。