ほら、今動いた
オレが初めてチヒロと会話をしたのは、アカデミーでの忍組手の時だった。いや、会話らしい会話もしていない。
彼は対立の印を組み、号令と共に駆け出したオレを躱すでもなく、一歩踏み出すだけして伸した。
視界がひっくり返り、背中が地面につく。チヒロの向こうに、カラリと晴れた空が見えた。
「チヒロの勝利!」
納得いかなかった。ただ、オレの上からの退いた彼の右手、その人差し指と中指がオレの肩口を的確に突いていたことに気が付いた。
チヒロは和解の印を交わしてから、さっさと背を向け他の生徒に紛れてしまう。
(なんだ、アイツ)
のはらチヒロ。
筆記の試験はいつも百点。実技も中の上。見た目も悪くない。だが、無愛想で無口。クールキャラを演じているというよりは、完全に人を避けていた。
「なあ」
教室で声をかけると、ふいとそっぽを向かれ。
「あのさ」
授業終わりに一緒に帰ろうと誘おうとしたら、そのまま素通りされ。
「おい」
廊下で行手を阻み、壁に手を着いて追い詰めると、あろうことか髪の毛を逆立てては容赦なく顔面に爪を立ててきた。
「チィ……!何猫だ、野良より懐かねーぞ……!?」
「荒れてんな、ゲンマ」
「ほっとけ」
「どうしたんだよ、急にチヒロに構おうなんて。そんなに組手が悔しかったのか」
「う……」
図星を突かれ、言い淀む。
オレはライドウが持ってきてくれた濡れタオルを鼻に当てた。腫れてこそいないが、傷が滲みる。
ふと窓の外に視線を落とすと、これから帰るのだろうか。オレの顔を引っ掻いた野郎が、はにかみながら歩いているのが見えた。
その隣には、彼と同じ髪色の女の子。カラカラと笑う。髪型の違い、体格差はあれど、目元がとてもよく似ていた。
「お、リン」
「リン?」
「のはらリン。チヒロの妹だ」
可愛いよなー、と言って頬杖をつくライドウを横目に、オレは別のことを考えていた。
(笑うのか、アイツ)
二人並んで歩く、チヒロの横顔。
明るい笑顔の妹を見つめる目尻が優しげに下がる。いつもはきつく結ばれている唇が綻び、言葉を紡いでいた。
当たり前だ。
人間なら笑うに決まってる。話をするのも。
(なら、どうして他のヤツには笑わない)
どうして何も言わないんだろうか。
オレは小さくなる彼の背中から目を離せずにいた。
▽
休みの日。
森の近くの演習場で修行をしていたら、木々の向こうに屈んでいるチヒロの背中が見えた。
(何してんだ)
気配を消して近付くと、摘んだ草花を一つ一つ、丁寧に竹ざるに置いていた。
「よぉ」
背後から話しかけたのはまずかった。
びくりと肩を震わせた彼は、飛び跳ねるようにして咄嗟にこちらに向き直す。土を握るように地面に爪を立て、じろりとオレを睨み上げた。
オレはポリポリと頬を掻いてしゃがみ、目を合わせて言った。
「驚かしてわりィな。何してるのかと思ってさ」
オレの言葉を聞いた彼の目が、きょとんと丸くなる。
まあ、何してるも何も。まさか草で花冠作るわけじゃああるまいし、薬でも作るために薬草をーーー、
「ーーー薬草を摘んでる」
「!」
オレの心の声を引き継ぐかのように言葉を紡ぐチヒロ。今度はオレが驚く番だった。
(喋った)
声を掛けて返ってきたのは初めてじゃないか。妙に感動してまじまじと見ていると、彼は「なんだよ」と据わりが悪そうに身動ぎした。
「ああいや、話すんだなと思って」
「……」
しまった。むくれた。口を閉じちまった。
どうしたもんかなと考えていると、彼の視線が俺の鼻、その傷に注がれていることに気付いた。
「ああ、これか。痛みは取れたから大丈夫だ」
思い返せば、迫ったオレが悪いしな。
何であんなに余裕がなかったのか。オレが誤魔化すように後ろ頭をガシガシと掻くと、チヒロが一歩、二歩、と近づいて来た。
「……すまん」
「あ?」
「引っ掻いてごめん」
「ああ」
「鼻、触れてもいいか」
「い、いけど」
また引っ掻かれないよな……?
オレが恐々としているのを知ってか知らずか。彼はゆっくりと手を上げて、オレの鼻に翳した。淡い緑色の光が灯り、鼻先にほんのりとした暖かさを感じた。
(この光は)
見たことがある。この温さも知っている。
アカデミーの授業で怪我をして、木ノ葉病院に行った時。血の出る膝を抱えて救急室のベットに座ったら、医者がこの光で治してくれた。
「お前、医療忍術が使えるのか」
「専門的なのは、まだ。今は本で勉強してる」
治った、と言って術を解いた。状況確認用に持ち歩いている手鏡を取り出して見ると、傷痕が綺麗に消えていた。何者だ、コイツ。
瞠目するオレに、彼はすっと視線を外してからポツリと口を開いた。
「妹が」
「妹?」
「小さい頃、一緒に手裏剣遊びしてて。間違えて本物の手裏剣触って、指切っちゃったことがあって」
「ああ」
「治してやりたくて。それで……」
「勉強したのか」
こくりと頷く。
「妹が大切なんだな」
「俺の全てだ」
想像を絶する答えが返ってきた。
「太陽みたいな子なんだ。赤ちゃんの時、小さい手でぎゅっと俺の指を掴んで笑ってくれた」
「へ、へえ」
「声を掛けるとキラキラに笑う。その笑顔に照らされると胸が温かくなる」
「おお……」
「守りたいって。俺がお兄ちゃんだから。リンのこと、守るんだって」
「そうか」
「だからな!アカデミー出てから、ちゃんと学んで医療忍者になりたくて俺ーーー」
怒涛の妹談義。
お前誰とツッコみたくなる程に、アカデミーとは打って変わって瞳を輝かせるチヒロ。
(すっげー喋んじゃん……)
驚いた。
相槌を打ちつつ促しながら聞いていると、そこまで饒舌に話していた彼の口がピタリと止まった。
「?どうした」
「……やっぱり、お前もおかしいと思うか」
「なにが」
「俺が妹のことを話すと、皆おかしいって言うんだ。引くか、笑うかされる」
「守りたいと思うことの何がおかしい」
俯きそうになっていたチヒロが、弾かれるように顔を上げる。
「確かに、妹愛は行き過ぎだとは思うけど。それがお前なら、それでいいだろ」
思ったことを言っただけなのに。
彼は唇を震わせ、臙脂色の瞳からはぶわりと涙が溢れ出た。
「おー、大洪水」
「う、っせぇ……!」
大粒の涙は赤らむ頬を伝い、ぼとりぼとりと草に落ちて弾ける。唇を噛む彼に、ようやく合点が入った。
「だから今まで何も話さなかったんだな」
「ッ」
揶揄われるのが嫌だったから。本気で妹が大切だから。自分の想いが軽々しく扱われたのに傷付いて、腹が立ったんだろう。それで何も言わなくなった。
(強情なヤツだな)
引っ切り無しに流れる涙を必死で袖で拭いながら、今度は鼻水を垂らし始める。
オレが呆れて手拭い差し出すと、躊躇わず受け取っては豪快に鼻噛みやがった。いい性格してんじゃねーか。
「つーか、泣き過ぎな」
「見、んじゃねーよ……!」
「はいはい。見てねー見てねー」
「見てる!」
「薬草でも摘んるだけだよ、っと」
「……それ、毒草だけど」
「え」
「ふっ!ははははっ!」
彼がオレに見せた、初めての笑顔。
それはまるで、雨上がりに割れた雲の間に射す光のように思えた。
▽
それからチヒロは自分の語った通り、医療忍者になった。
増援で駆けつけてくれた彼に、何度命を救われたか知れない。
『絶対、死なせねーから』
いつかの時。
腹を深く斬られ、意識が遠のくオレにチヒロの声が響いた。
医師は『絶対』を口にすることはない。医療の現場に『絶対』はないからだ。
昨日元気だった人が、朝起きてみたら息を引き取る。一分前まで瀕死だった人が、突然息を吹き返す。そんなことがザラにある。
人間が予測不能な「命」という領域で、『最善を尽くす』ことはできても、『絶対』の保障は出来ない。
まさかチヒロが自分の発した言葉の意味を、その重さを知らないはずがなかった。
それでも彼は、額から汗を滲ませながら言った。
「医療忍者としての掟、第一項。医療忍者は決して隊員の命尽きるまで治療を諦めてはならない」
「!」
「分かったら、ジッとしてろ。絶対、死なせねーから」
傲慢ではなく、それは患者に向き合う彼なりの覚悟だった。
(ああ、オレはまだ生きていられるんだ)
生きたい。
その願い通り、今のオレがあった。
「ーーーで、現在はこんな感じだ」
こんな感じ。
オレの隣で、酒三杯飲んではぺしゃんこに酔い潰れているチヒロ。すぴー、と気持ちよさそうな寝息で返事をしては、それを聞いた屋台の親父がカウンターの向こうで苦笑する。
今日も今日とて、何十年行きつけの屋台に来てみると、真っ昼間から酒かっくらってるチヒロがいた。
「酒断ちするんじゃなかったのか」
「今日だけ解禁する!」
「それ絶ってるって言わねーだろ」
彼女断ち出来たのは奇跡だったんだな、としみじみ思った。
最近の若い子恐い……、オジサンの話なんて誰も聞いてくれないんだ……、とメソメソしているのを、トンカツ食いながら右から左へ流していたら勝手に潰れた。
ったく、誰が家まで送り届けることになると思ってんだか。オレしかいねーじゃねーか。知ってるよ。
「どっちかが死ぬまで続く気がするな、この関係」
「フッ……、だろうな」
「!?」
「その歳にもなれば、友も一生もんだ」
「親父、アンターーー」
喋るのか。
失礼承知で瞠目すると、寡黙な彼が片頬を上げて笑う。
火影の護衛として勤めた頃から通い始めた店。
それにも関わらず、親父の声を聞いたのはこれが初めてだった。
「無口だとは思ってたが、どうして今まで喋らなかったんだ」
「必要性を感じなかった。料理人は、料理で語る。それで十分だ」
料理で語る。
『おやっさん。子どもがいるのか……?!』
ある時は、アイスで。
『ごめん、おやっさん!俺が間違ってた!』
またある時は、しじみ汁で。
(オレには伝わってこなかったけどな)
とは言えず黙っていると。
親父はテイクアウト用の握り飯と、レンジ用の容器に入った味噌汁を二人分を包んでオレに渡した。袋越しに伝わる、ほんのりとした温かさ。
ーーー分かるか?
そう、問い掛けられて肩を竦める。
「ああ、今度は分かるよ」
ここまできた仲だ。
どうせなら、最期まで付き合ってやるか。
ビニール袋を持つ手と反対の肩にチヒロの腕を回し、オレは屋台の親父に見送られ店を後にした。