武器忘れてきた
どろどろの前脚。淡い水色の液体が散布されている自室の床。
「やっちまった……」
俺は一人、呆然と四本脚で立ち尽くしていた。
▽
休みの日。
いつもなら寝ている時間だが。今朝は、目覚めてから着替えも早々に机に向かう。
昨日、解析のため回されてきた毒を調べるうちに気になる成分が検出された。そのため、データごと持ち帰っては解毒薬の調合に当たっている。
(好ましいことではないんだが)
通常、毒と分かっているものを施設外に持ち出すことは禁止とされている。ただし『急を要すると考えられる場合を除いて』だ。
解析したことのない毒。
見たことのない成分。
元々調合が仕事よりも趣味である俺からしたら、これを解明することこそ『急を要すると考えられる場合』以外の何ものでもなかった。
「っし、出来た」
窓の外の太陽がてっぺんに登った頃。
椅子の背に寄り掛かり、少量用の遮光瓶に流し込んだ解毒薬を透かして見る。無色の液体。注射器タイプにしようかと悩んだが。
「厄介な毒だからな」
摂取した人間を特定の動物に変化させる毒。本人の意思に関係なく、だ。
今回含まれている遺伝子は犬のもの。
俺のポリシーとして、解毒薬を試すならまず自分。
毒飲んで犬になったとして。注射器タイプでは自分で打つことすらままならない。
「とりあえず、瓶から皿に移して、と」
コルクを外し、床に置いた小皿に解毒薬を流し込む。俺自身も床に座り、おおよそ半日分であろう毒を口に含んだ。
「ッ、あ……?!」
ノイズがかかったように視界がブレた。高い耳鳴り。血が沸騰するかのように身体中が熱い。そして。
(い、ってぇ……!)
嗚咽を奥歯で噛み殺した。関節という関節が痛い。
歯が生える時のようなむず痒さと、歯が抜けた時の痛みとか倍々に増幅された上、同時に叩きつけてくるような感覚だった。
俺は遂に耐えきれず両腕を抱くように抱えて蹲り、額を床に押し付ける。
(どいつもこいつも碌でもねーもん作りやがって)
額から滲んだ汗が床を濡らした。
「ぐ……、あああああッ!」
意識が持っていかれる程の激痛に襲われたと思ったら、ぷつんと止んだ。俺は糸が切れたようにその場に倒れ込む。
ぼやける視界。
肩で息をしながら、焦点を合わせようと目を凝らす。
「手……」
と思ったものは前脚だった。きゅっと握ったつもりだった手の平には肉球が。身体には俺の髪色の毛が生えている。
怠い身体に鞭打って何とか起こし、四つ足でベッドによじ登った。窓ガラスに映っていたのは、紛うことなき犬だった。
犬種はなんだろう。耳が立ってるコリー。
大きさはウーヘイより一回り小さい。大型犬より小さく、中型犬より少し大きいといったところだろうか。
「あー、あー、俺、俺、俺」
言葉は人間のまま。声も変わらない。
くるりと背を見ると、ふさふさ尻尾が揺れている。
(良かった、職場でやらなくて)
流石にこの姿見られるのは恥ずかしいよな。
そう思ったら、尻尾がしょんぼりと垂れた。なんてこった。心の中丸わかりじゃねーか。早く戻らねば。
オレはベッドから飛び降りて、解毒薬の入った器の前にーーー
「あ」
バシャァン!
着地しようとして失敗した。
犬の跳躍力と距離感を間違えた。薬の中に豪快に前脚を突っ込んでしまった。
飛び散る薬品。無色だったそれが青色に染まる。
「マジかよ」
毒が複雑であればあるほど、解毒薬には小指の先ほどのミスも許されない。それこそ、塵一つでも入ったらアウトだ。
(残りの解毒薬を)
俺は散乱した解毒薬を後回しにして、遮光瓶の前に座った。が。
「どうやって開けんの、これ」
コルクってどうやって開ければいいんだ。いや、そもそも犬ってコルクを開けるのか。
(いいや、諦めるな)
とりあえず前屈姿勢。前脚で瓶を押さえて。歯をそっとコルクに挿して。噛みちぎらないように、慎重に。慎重に……。
「取れた!」
きゅぽっと空気の抜ける音がして、見事コルクを外すことが叶った。
(よーし、よーし。犬もやれば出来るもんだ)
ペロリと舌が鼻先を舐める。自分の尻尾が得意げに上を向いたのが分かった。
俺はそのままの姿勢で前脚を使いなから、少しずつ器の方へ瓶を移動させていく。後はこれを傾けて、器へ流し込んでから飲めばいい。
そんな時に、頭の上の耳がピンと立った。
人より鋭くなった聴覚が階段を登ってくる足音を拾う。
(誰だ)
顔上げ、耳をそば立てた。足音は俺の家の前で止まり、鍵を開ける。
(まさか)
鼻をすんすんと動かすと案の定、知ってる匂いだった。全身の毛が逆立つのを感じる。
(ヤバイ)
ぶるりと身体が震える。
(カカシだ……!)
嫌だ、見つかりたくない。
部屋が汚いとか、また朝ご飯抜いたのとか言われることは二の次にして。
(今、この状況を説明するのが面倒くせェ……!)
早く解毒薬飲んで証拠隠滅しよう、と焦った矢先。
瓶を挟んでいた前脚つるりと滑った。
「あ!」
という間もなく、瓶の中の解毒薬がひっくり返る。それは、びしゃりと音を立て、無情にも俺の前脚を濡らした。
「なんてこった……」
遂に、検証もへったくれもなくなった。
絶望。
致死性のない毒であることが不幸中の幸いだが。
(今日半日どうやってやり過ごせばいいんだ)
いや、それ以前に。
「チヒロ、どうしたの」
部屋に近づく足音。
「なんか音がしたけど」
入るぞ、とノックの後に開け放たれたドア。
カカシは薬品が散布された部屋を見て、右眼を僅かに見開いた。そして部屋の中を見渡していた視線が、足元の俺に行き着き止まる。
(コイツ、どうしよう)
じっと俺を見下ろす黒い瞳。降りる沈黙。
ここはいっそのこと、犬になりきる方が無難に乗り切れるのではないだろうか。
俺は自分の直感を信じて、ひと思いに鳴いた。
「ワンッ!」
「なんだ。本物か」
よし、なんとか誤魔化せーーー
「なーんてね」
「ぎゃんっ!」
なかった。
あろうことか首の後ろを掴まれて身動きが取れなくなる。
おまけに正面から見つめられると、犬の心理だろか。威嚇したい心地になり。
(何しやがる……!)
俺は床に爪を立てカカシを睨み上げた。しかし。
「忍犬使いに鳴き真似が通用するわけないでしょーよ、アホチヒロ」
「だ、だよな……」
逆に凄まれて、秒で消沈してしまったのは言うまでもない。
▽
毒の解析をして、解毒薬を作った。
効能を自分で試すために毒を飲み、解毒薬を口にしようとしてこの惨状。
洗いざらい吐いたら、カカシは「ふーん」とだけ相槌を打った。意外や意外、お咎めナシ。
小言の代わりに、ご飯は食べたのか聞かれた。食べてないと白状すると、彼は冷凍室に入っていた焼き肉用の肉をフライパンに上げる。
そして俺の目の前には、今。
カカシが焼いてくれた俺の分の焼肉が皿に盛られていた。
(ああくそ、犬の嗅覚ってキツイな)
味はほぼついていないらしい。
しかし、朝から何も食べてない俺にはなんとも魅惑的な匂いで。
(旨そう)
チラリと台所の背中を伺う。カカシは自分の分のご飯を装っている。
食っていいか?食っていいよな。だって目の前に置いたってことは、食っていいってことだろ。よし。
俺は口の端から垂れそうな唾液をごくりと飲み込み、肉に顔を近づけた。すると。
「待て」
あろうことか、茶碗片手のカカシから静止の声がかかった。
「なんで」
「待て」
ずん、と重たくなった声に、思わず息を呑む。発される威圧感に耐えきれず、俺は渋々腰を下ろした。
カカシは自分の皿をテーブルに置いてから、俺がいる側の椅子を引いて座った。そして、こちらに向かって右手の平を差し出す。
(なんだ?)
意図が汲み取れず首を傾げると、カカシはニコリと笑って告げた。
「お手」
やりやがった。やりやがったよ、コイツ。
(だから言いたくなかったんだ……!)
まさかな、と思う反面、カカシならやりかねないと心のどこかで思っていた。
「お前、一体俺を何だと思ってんだ」
「今日一日は犬になり切るんでしょ」
「ぐぅ……!」
「躾けてあげるから。ほら」
ほら、じゃねーよ。
誰が躾けてくれなんて頼んだ。楽しくもねーし、嬉しくもねーわ。
「早くしないと。ご飯食べられないよ」
あくまで俺を犬扱いする気らしい。お咎めがなかったのはこのためか。
(しかし、これ以上はダメだ。看過できん)
人として。男として、ここは一発ビシッと決めにゃあならん。
俺は差し出された手の平にドン!と自分の前脚を置いて言い放った。
「いいか!お前の料理で、俺が容易く犬になると思うなよ!」
そうして啖呵を切った、三十分後。
「……っはー、美味かった」
「お前さ、自分の言葉覚えてる?」
別にいーけどね、と洗い物をしながら呆れた視線をくれるカカシ。
俺はその足元に伏した。前脚に顎を乗せては、欠伸をする。
この短時間にいくつもの芸を覚えた。
待て、お手、おかわり、伏せ、おまわり、ハイタッチ、ごろん。
(どんなもんだ。どこの犬でも、こんなに一度には覚えられまい)
おかげで美味い肉も食えて、腹も膨れた。今の俺にはもう、恐いものなどなかった。
うとうとしていると、蛇口を閉める音に目が覚めた。
「じゃ、少し休んだら散歩行くぞー」
「あ?毒が切れるまで、家でゆっくりすりゃあいいだろ」
「それは猫。今のお前は犬なんだから。一日一回くらいは外出ないと。太るよ」
太る。
言われて、俺は自分の腹を見下ろした。
別に太る体質ではないし。飯もそんなに食わないし。しかし、食っちゃ寝が体に良くないのも確かだ。
「分かった」
このまま家にいたら、動きそうにないからな。俺はカカシに促されるまま家を出た。
▽
階段を降りきる手前で、カカシがおもむろにこちらを振り返って言った。
「いい?これから散歩に行くけど、注意点が一つ」
「注意点?」
聞き返すと、カカシが人差し指を立てる。
「勝手に女の人について行かないこと」
「は」
「チヒロならやりかねないからね」
ふざけてるのか、と思ったがそうではない。彼の右眼は、あくまで真剣な色を帯びていた。俺は鼻から息を抜き、肩を竦めて言った。
「あのな。見た目これでも元は人間なの。お前も知ってんだろ。人を盛りのついた犬みたいに言うなよ」
そうして歩き出すこと、十分後。
「わ、珍しい色の子だぁ」
「可愛いー」
俺は道行く女の子たちに囲まれていた。
「カカシさんの子ですか」
「ちょっと触ってもいいですか」
言われるまま大人しく撫でられて尻尾振るだけで、きゃあきゃあ言われる。
(犬、最ッ高だな)
鼻腔を擽る優しい香り。頭や背を撫でる柔らかい手の平。俺は今、生まれて初めてモテ期を迎えていた。
「カステラ食べる?」
「ワンッ!」
キタ。念願のあーんってヤツだ。
俺が上機嫌で差し出された鈴カステラを咥えようと口を開けると、あろうことか割って入ってきた手に塞がれた。その瞬間、自分が誰と一緒にいたのかを思い出す。
「コイツ、今ね、甘いものお医者さんから止められてるのよ」
「あ、そうなんですね。すみません……!」
残念だけどまた今度ね。そう言って、手を振って行ってしまう俺の青春たち。
(そ、そんな……)
名残惜しさに佇み、しゅんと尻尾を垂れていると、隣に立つ野郎がじとりとこちらを見下ろした。
「ねぇ、ちょっと前に自分が言ったこと覚える?お前の脳味噌は鳥より小さいの」
「なんだよ。少しくらい良いじゃねーか」
人生初だった。
カカシは歩いてりゃあ振り返られるし、店に入りゃあ女子からの熱い視線を受ける。対して俺は今しかないんだ。犬になっているこの時しか。
(どうせなっちまったんだから、満喫する他ないだろ)
よし。
かくなる上は、カカシの目を盗んで逃げ出し、モテ期を再びこの手にーーー!
「それとも首輪とリード、欲しい?」
「すまん。いらん。俺が悪かった」
触らぬカカシに祟りなし。
束の間の憩いを頭から追い出していると、嫌なニオイが鼻を掠めた。俺は咄嗟にカカシのベストを咥えてぐいと引き寄せ、左肩腕に前脚、そして後脚をかけて右手に弾き飛ばす。
宙で返り着地して見ると、俺たちがいたところに、クナイが刺さっていた。
(このニオイ。木ノ葉の毒)
しかも暗部で使われているものだ。顎を上げて鼻先で風の来る元を辿る。
(そこか)
俺は地面を蹴った。
チャクラを四肢に溜め、幹をかけ登り、枝に立つ。そして、こちらを振り返った面の男の武器を持つ腕に噛み付いた。
「っ!」
男は俺を振り払おうと腕を振る。
(させるかよ)
身体を捻り、面を後脚で蹴り飛ばす。
「ぐあっ!?」
ぐらりと体勢を崩した男。
俺はわざとそのまま体重をかけて、木から共に落下する。男が地面に叩きつけられるより早く、野郎の腕を離して距離を置き着地した。
「お前、暗部だね。何の用」
威嚇を続ける俺の頭にポンと手を置いて、カカシは男に問うた。しかし、彼はそれに応えようとはせず、黙って巻物から召喚した忍具を構える。
「はたけカカシ。お前の命、頂くぞ」
「悪いが、そりゃあごめんだ」
言うが早いや、俺は忍具を避けて男の脹脛向かって駆け、犬歯の先端で腱を切った。動けなくなる男の腹に突進し、その身体を木に叩きつける。
「殺らせねーよ。コイツの命は俺のだからな」
項垂れ、ずるりと木に凭れる身体。
気を失ったらしい。カカシを襲った理由は分からないが、まあ、イビキに引き渡せば吐かせるだろう。
俺はそろそろと近付いて完全に意識がないことを確認してから、情報部に身柄を引き渡すため自分の背中に乗せようとした。
「おい、カカシぃー。ちょっと、背中に乗せるの手伝ってくれ」
「チヒロ」
呼ばれて顔を上げると、カカシが俺の前に片膝をつき、どういうわけか右前脚を握った。そして、眉を凛々しくキリッと上げてはこう言った。
「オレの忍犬にならないか」
「は……?」
俺は自分の耳を疑った。
(にん、けん)
俺が、カカシの、忍犬に、なる。
考えようとしたが、思考回路が拒否をした。これ以上考えてはいけないと本能が警鐘を鳴らす。
「カカシ、お前さ。俺が人間だってこと覚えてるか」
「当たり前でしょ」
「俺に忍犬になれというその心は」
「惚れた」
「は」
「犬のチヒロに惚れた」
返す言葉がなかった。
(なんだろう、これ。俺、今告白されてんのかな)
なのに、なんでこんなに嬉しくないんだ。
ふぅと鼻で息を抜く。ガキの頃でも見たことのないキラッキラな瞳の彼の手を、俺は反対の前脚でそっと解いた。
「いいか、カカシ。深呼吸してから、今の自分を鏡で見てみろ。各国に名を轟かせる写輪眼のカカシともあろう者が、犬に惚れたってどういうことだ。言うのムカつくけど、くノ一人気No. 1の男が犬に惚れてどうするんだ馬鹿野郎」
「惚れちゃったんだから仕方ないでしょ」
「開き直んな!」
いっぺん頭冷やしてこい!と。
チャクラを練り上げ、瞬時に足の裏に集中させて蹴飛ばした。向こうの池で水柱が立った気がするが、知るもんか。
(ったく、俺の攻撃受けるなんざ。犬に弱いにしても程がある)
俺は男の腹に潜り込み、自力で背中に乗せた。そして、たまたま情報部の前に居合わせたイビキに引き渡す。
「そういうわけだから、よろしく」
「ああ。ところで、お前はどこの忍犬だ」
聞かれて俺は、キリリとした顔ではっきり答えた。
「はたけカカシじゃないことだけは確かだ」
そうしてイケてる感じに踵を返したはいいが。
「……家に入れない」
どうしたことだ。カカシがいなければ自分の家にも入れないなんて。
(かくなる上は)
俺は同期のアパートに足を向ける。
階段を登り、ドアの前ですんすんと鼻を動かしたら、なるほど覚えのある匂いがした。
前足でドアを叩くと、少し間があってからベストを着ていないゲンマが現れた。彼はオレを見るなり、しゃがみ込み眉を顰める。
「なんだ、お前。迷子か」
「似た様なもんだ。自分ちに入れなくてな」
言うと、ゲンマがポカンと口を開けた。
「その声、チヒロか?」
「おう。やっちまった」
「やっちまったって……」
お前な……、と呆れた目で俺を見る。
「もう少し危機感持てよ」
「今後は善処する」
「鍵はどうした」
「ポストに入ってるけど、背が届かないんだ」
「あー……」
彼の視線が部屋の奥、窓の外を振り返った。
もう夕暮れ時だった。
少しすれば街灯が灯り、夜になる。ゲンマは少し考える素振りをして、俺に向き直って言った。
「もう遅いから泊まってけ」
「悪いな」
「ああ。じゃあ片付けるから、ちょっと『待て』ーーー」
『待て』。
ピクリと耳が反応した。聞いた途端、脳内で野郎の声に変換される。
気付けば、自然と腰を落としていた。ビシッと背を伸ばし、その場に座る。そして。
「……」
「……」
沈黙。
ゲンマはお座り状態の俺に瞠目し。俺は俺で、己の身体が起こした条件反射に愕然とした。
(まさか、ここまで)
泣きたくなった。これじゃあ、まるで犬じゃないか。
(いや、違う。俺は犬じゃない)
犬だけど、犬じゃない。
認めたくなかった。認めたくなかったから。
俺は最後の意地を張った。垂れそうになる耳尻尾に神経を張って、辛うじて奮い立たせる。
「……仕込まれたんだ」
「そうか……」
「仕込まれちまった、だけなんだ……!」
「ああ、分かってるよ」
まあ、片付いてはねーが入れ。冷えるぞ。
ゲンマは「誰からだ」とも聞かずに、背中をぽんぽんと労わるように叩き招き入れてくれた。その優しさが胸に沁みる。
熱くなった目頭から一筋、悔し涙が流れた。