平地で転倒
口布をしていなかったら間違いなく鼻先が赤くなる様な、そんな年の瀬。
火影室の椅子に腰掛け、窓の外に目をやると粉雪がぱらぱらと散り始め。その行く先を追って里を見下ろしたら、足早に帰路に着く人々が目に付いた。
「そーいえば、そろそろ大掃除の時期だったね」
「はい?」
明日の予定を読み終えたシカマルが首を傾げる。
「火影屋敷の掃除でしたら、例年通り済んでいますが」
「違う違う。そっちじゃなくて」
「ああ、チヒロさんッスか」
目を細めて肯定すると、シカマルは頭を掻いた。
「毎年思うんですけど、本人にやらせたらどうなんです?」
「させたことはあるよ。一度だけ」
遠い昔のことだ。オレが暗部に所属していて。チヒロが一人暮らしを始めた一年目。
年末さえ寝通そうとしていた彼を見かねて。
「年末の大掃除くらいしたら」
「るっせぇよ……別に掃除なんざ一月でも二月でも八月でもやるだろーが……」
「普段出来ない掃除をするから大掃除なんでしょ」
「今日寝るのは今しかできねーんだよ。いいから寝かせてくれ……眠ぃ……」
今思えば、相当疲れていたのだろう。しかし、当時のオレはどうしても彼にやらせたかったらしい。
布団を剥がし責付いてみたら、目を疑うくらいに雑だった。
トイレと風呂と台所の水回り。タワシで擦るところだけ擦って、床を箒で掃いて終了。
ソファの下とか、ベッドの下とか、棚の上とか中とか。埃が溜まりやすい隅々は完全放置。
指摘すると、当人は気にする素振りもなく「やりましたけど何か」と、この時ばかりは強情に言い張った。
ごろりとソファに横になり、読み途中だった巻物を腹に乗せたまま不貞寝する始末。
「むしろ何も言わない方が、そわそわして自分からやり出すのよ」
「それはまた」
「変なヤツでしょ」
オレがやってるのを横目で見るや。
落ち着かなそうな、気まずそうな顔をして、のそのそと起きて来ては「手伝う」と言い、雑巾片手に着いてきたことが頭を過ぎる。
「ま、アイツはああ見えて家ではほぼ伸びてるからなぁ。食わずに丸々一日寝たままとか普通だったし」
それでも、こんこんと言い続けた成果があったのか。はたまた歳には抗えないものがあるのか。
若い頃に比べて、休みの日に何も言わなくても最低一食は食べる様になったのだから上々だった。
「掃除なんか、気が向かない限りしなーいよ」
家に帰っても基本ゴロゴロするだけだから、言うほど汚れてもいないのもまた事実なのだが。
「とりあえず、今日はもうお終いでいーかな」
「はい」
「チヒロの家にいるから、なにかあったら呼んでね」
「分かりました」
じゃ、と片手を上げてオレは火影室を後にした。
▽
「ーーーよし。こんなもんか」
外も暗くなった頃。
オレは、一人。チヒロの家のリビングを見渡した。
部屋はこの前来た時に掃除したし。シャワーをほぼ病院で浴びて来ているからか、風呂場は汚れていなかった。キッチンも乾いているしな。
「後は、食器棚の埃だけ払えば終わりかな」
言ってから、何かを忘れている様な気がして手を止める。
(何を、忘れているんだっけ)
オレはハタキを片手に腕を組んで、うーんと目を閉じる。
「食器棚、食器棚……」
記憶を辿る。行き着いたのは。
『お前まさか、食器棚の下の隠し戸まで手を出したんじゃ……』
いつかのチヒロの一言だった。
「食器棚の下」
大きめのタオルを床に敷き、それを棚の下に食ませる。ゆっくり手前に引くと、確かに戸があった。
「今度はどんなしょうもないものを隠してるやら」
しゃがみ込んで、取手に指を引っ掛けた。手前に引くと、ぶわりと舞う埃に顔を顰める。
(妙だな)
言い方的に度々開けているかと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。
空間も広くない。
机の引き出し一つ分程のスペースに、お中元とかでよく見るギフト用のハムの箱が入っていた。デザインは何十年前のもの。どう見ても年季が伺える。
いくらチヒロとはいえ、まさかそんな。
思いながらも、オレはつい自分の口元に手をやった。口布を気持ちもう少し上まで。鼻筋が完全に隠れるまで覆った。
手袋の入れ口をぎゅっと引っ張り。箱に手を伸ばす。
中身を動かさない様に慎重に持ち上げ、床に置いた。念のため、二重にしたポリ袋を隣に用意する。
深呼吸をし、息を止めてから箱を開けた。
入っていたのは。
「……アルバム」
と、バースデーカード。それに、二つのインスタントカメラだった。
オレは呼吸を元に戻し、箱の中身を一つずつ手に取り床に並べる。
ケーキの絵が描かれたカードを裏返すと「カカシへ」に始まり、四つの筆跡が並んでいた。
『十三歳の誕生日おめでとう。体労れよ』
これは見慣れたチヒロの字。
そして続く文字に、オレは思わず息を呑んだ。
『素敵な日々になりますように』
覚えのある。
リンの字だった。そして。
『修行もいいけど、たまには遊ぼうぜ!』
というのはオビトのもので。
『この一年が、君にとって実り多いものでありますように』
ミナト先生のものだった。
一人。静かな室内で、自分が唾を飲み込む音だけが耳に響く。
オレはカードを置いてから、アルバムの表紙に触れた。
(きっとここには)
痛むはずのない左眼の古傷が疼く様な。気のせいだ。気のせいだと分かっていても。
オレはきゅっと口を結び、意を決してから表紙を捲った。並んでいる写真に、くしゃりと顔を歪める。
(ああ、やはり)
過去の記憶と一緒に、嬉しさと喜びと哀しみと苦みとが、胸に一気に押し寄せた。それでも流されずにいられるのは。目を逸らさずにいられるのは、懐かしさという、ほんのりとした温かみを感じているからだろう。
オビトとリンがいて。ミナト先生がいた頃の。オレがまだ中忍だった頃の写真が、そこに収まっていた。主に、修行中と休憩中のものだったが。
「盗撮でしょ、これ」
明らかに盗み撮りされたものだった。写真の中の誰の視線もカメラに向いていない。
(気付かなかった当時の自分も、忍としてどうかと思うけど)
これ撮ったチヒロもチヒロだと思う。どんな趣味してんのよ、一体。
懐かしさ半分、呆れ半分でページを捲っていると、不意に足音が聞こえて玄関が開いた。
「おい、カカシ。家の外に雑誌括られてんだけど。お前また人のもーーー」
靴を脱いだチヒロが、オレと、移動した食器棚と、オレの周りと、オレの手元を確認した瞬間。
左足にチャクラを込めて地面を弾いた。
一気に距離を詰められ、チヒロの指先が袖に触れる。その場に座っていたオレは、反射的に飛び退いた。
一定の距離を取ったが、オレの意志に関係なくアルバムを持った右腕がチヒロに向かってスッと伸びる。
(チャクラ糸)
恐らく、袖が触れた時だ。
オレがアルバムを左手に持ち直す。彼がオレの右腕を掴む。僅かにオレの方が早かった。
チヒロを近づけまいと身を捻り、腕を掴まれたままにして、肘でその身体を押し止める。
「なーに。返して欲しい?」
問うたが、返事はない。臙脂色の瞳は、アルバムに固定されたままだった。
試しにそれを彼の手の届く距離へ差し出す。見逃さずに伸びて来る手を、ひょいとかわした。
「……」
「……」
再びそろりと差し出してはーーー、
ひょいと避ける。
「……」
「……」
差し出してーーー、
ひょーい。
差し出してーーー、
「おちょくってんのか」
「おちょくってはないけど」
ようやくチヒロがこちらを見上げた。オレは体勢を解いてから、口元を引き攣らせる彼の目の前にぶらりとアルバムを垂らす。
むっとするチヒロが今度は俺の肩を鷲掴みにして、左足を軸に爪先立ちした。ところが。
「くッそォ!十センチの差が憎い……ッ!」
オレもまた爪先で立ったので、身長の差は埋まらない。精一杯伸ばしている腕がプルプルと震えている。
「ほーら。頑張って、頑張って」
あ、青筋が立った。ちょっと煽っただけで単純なんだから。
右腕だけ伸ばして、せめて触れるだけでもとぶんぶんぶんぶん手を振る姿は、まるで猫じゃらしを追いかける猫さながらだった。
「にゃろぉッ」
「んー、もうリタイア?」
「ま、だぁ……!」
ぐぬぬぬぬぬと、奥歯を噛み締めながら顔を真っ赤にしている。
ふと。
彼の指先がアルバムの端を掠った。それに気を抜いたのか。顔に喜色が差した矢先、チヒロの爪先がずるりと滑る。
「ッあ?!」
「っと」
開いた手を腰に回して受け止めた。しかし鼻を俺の肩にぶつけては、右手で覆って悶絶している。
「いきなり力抜いたら危ないでしょ」
「ず、ずまん……」
鼻筋を撫でながら涙目になっているチヒロ。ふと、気付いては顔を上げて首を傾げる。
「いや、待て。なんで俺が謝ってんだ」
「オレが助けたからでしょ」
「元はと言えばお前のせいだろ」
「根本正せば、お前がオレを盗撮したからでしょーよ」
「盗さ」
オレがじとりと見遣ると、彼は顔を真っ青にして慌てふためいた。
「違ッ、結果的にそうなっちまってるけど!これには深い訳が……!」
「ん、聞こう」
腰を離してやると、チヒロは亀のように首を引っ込めながら肩を窄めて言った。
「サプライズだったんだよ」
「サプライズ?」
「お前の十三歳の誕生日のサプライズ」
言いながら、チヒロはガシガシと頭を掻いた。
「リンとオビトが妙に話し込んでるから聞いたら、カカシの誕生日何やるか悩んでたらしくて。一緒に考えてたら、様子見にきたミナト先生がせっかくだから、サプライズにしようかって」
「それでアルバム?」
「オビトの発案なんだよ」
『なあ、アルバムなんてどうだ』
『どうしてアルバムなの?』
『アイツ、自分で作らなそーじゃん』
『作らねぇだろうな。作る暇あったら修行してそう』
『ん。そういえば、班の写真は自宅に飾ってあったね』
『オレたちでこっそり写真撮ってさ。後でびっくりさせてやろーぜ!』
『オビトったら。カカシを驚かせたいだけじゃない』
『いいんじゃないか。たまには澄ました顔崩してやるのも』
『もう、チヒロお兄ちゃんまで。
でも、アルバムはいいかも。せっかくだから、みんなで撮りたいなぁ』
「で。オレとミナト先生が時間出来たら、ちょこちょこ撮ってたって、ってわけ」
チヒロがチラリとアルバムが入っていた箱を振り返る。オレが倣って視線を辿ると、二つのカメラを見つめていた。
「ほんとはさ、ミナト先生がそろそろいいかなって言ってたんだ。でも、もう少しページ残ってるだろ。だから俺がもっと撮るって欲張ったら」
『ん、チヒロがそうしたいなら止めないけど』
『止めないけど?』
『深追いすると、カカシにバレると思うよ。
チヒロは隠し事下手だからね』
そう言われたらしい。
「お前たちが任務行ってる間、現像するために俺が預かってたんだ。まあ、バレる以前に渡せなくなったんだが」
どうして、と。
開きかけた口は自然と閉じた。
苦笑するチヒロ。眉をハの字に下げて湿った顔をする彼を見て気が付いた。
オレの十三歳の誕生日。その日が来る前に、オビトとリンが亡くなったからだ。
「あれから、捨てるに捨てられなくて。仕舞っておいたんだ」
オレはオレで。チヒロはチヒロで。
貰っては喜び、渡しては祝えるような、とてもそんな時期ではなかった。
「でもまさか。こうして開くことになるなんてな」
「チヒロ」
「まだ貼れてなかった写真はこっちにある」
彼はオレの視線を躱すように、身を屈めて箱の底から封筒を取り出した。
オレはアルバムを床に置いて、彼の隣に腰を下ろし手元を覗き込む。
ミナト先生に指導を受けている写真。オビトと歪み合っている写真。リンが仲裁に入っている写真。
よくもまあ、ここまで撮ったもんだと呆れを通り越して感心する。一枚ずつ捲られていく度に、ひとつ、またひとつと思い出が心に灯っていくように思えた。
「お。これ、貴重なやつ」
オレは、ほいと差し出された写真を受け取った。
場所はリンとチヒロの家だった。
その日は疲れていたのだろうか。テーブルに肘を付いて寝ているオレ。オビトが不機嫌そうな顔で船漕ぐオレの頭の後ろから、人差し指でにょきりと角を生えさせては舌を出し。そんなオレたちを見たリンが、手前で困ったように笑っている。
「やっとカカシ真ん中にして撮れたんだよなー、これ」
「いつのものなの」
「確か、アレだ。カカシがオビトに注意したっていう日。アイツ、お前のこと鬼だって言ってたぞ」
はて。
言われて顎に手を当てて首を傾げる。
「そーだっけ?」
「俺に聞くなよ」
心当たりが多すぎて、どれがどれだか分からない。
チヒロは見終わった写真を再び封筒に戻し、まるで届いた手紙でも渡す様に何気なくオレに差し出した。
「ん」
「ありがと。アルバムももらっていい?」
チヒロはオレの言葉を聞いて目を丸くしたが、すぐにゆるりと口元を緩めて首肯した。
「ああ、もちろん」
箱ごといるか?と訊かれたが、カメラ含め中身だけ貰うことにした。
「そういえば、チヒロの写真が一枚もないんだけど」
「あるわけねーだろ。俺はミナト班じゃないし。たまたま混じっただけの助っ人っていうか。撮る専だったからな」
あっけらかんと。当たり前のように言われた。
(言われてみれば、そーなんだけどね)
頭では納得出来ても、腑に落ちないような。喉に小骨でも刺さったような。どうにも、こう。もやりとするものが胸に残る。
オレは箱を潰しているチヒロの隣で、彼に気付かれないように、もらったカメラを観察するフリをして手に取った。
(こっちは現像済みか)
もう一つの方。フィルムの数字が九で止まっている。オレは、潰した箱を袋に入れる音に紛れさせるようにして、そっとダイヤルを巻き上げた。
「チヒロー」
「あ?」
そして、チヒロが振り返ると同時にカメラを構え。彼にピントを合わせて、シャッターを切った。
「ッんだよ、眩し……!」
よし、撮れた。撮れたのは、撮れたが。
「あーあ、なんで片目閉じちゃうのよ」
「不可抗力だろ」
多分、閉じてた。
フラッシュが閃いた瞬間、フレームの向こうで彼がびくりとしたのが分かったからだ。
残り八枚。
「今度こそ」
「撮らんでいい。枚数残ってるなら、俺よりも他に撮るもんがあるだろーが」
「他?」
「おい、マジで言ってのかよ」
聞き返すと、呆れ驚かれてしまった。
「サスケ、ちょうど帰って来てんだろ。七班で撮るとか。子どもたちと撮るとか。ガイや同期と撮るとかさ」
それでアルバムに貼ったらどうだ、と提案された。それはそれで、いいかもしれない。
「じゃあ、残りの写真はチヒロも映ってね」
「なーーー」
「言っとくけど、これ。火影命令だから」
笑顔でサラリと封殺。
この手のことは、言い合っても堂々巡りになるだけだ。手っ取り早くチヒロの口を封じるには、これが最適解。
案の定。
彼は反論する気満々だった口を素直に閉じた。代わりに口角を上げ、態とらしい笑顔を作って頷く。
「畏まりました、六代目」
そして。
「でも、お前はいつか泣かしてやるからな」
いつもいらんところで職権濫用しやがって。
と、悔しそうに噛み付いてきた。
「やれるもんならやってみたら。お前の方が先に泣きそうだけど」
「誰が泣くかよ」
けっ、と悪態付く横顔に、オレは再びフラッシュを焚いた。