きびだんごを下さい
末廣亭。
オレは朝一番で慣れた扉を開き、店の中へと入る。
「よう、遼」
「こんにちは、ゲンマくん」
「ああ、……は?」
呼ばれてオレは瞠目した。
『ゲンマくん』。
その呼び方で呼ばれたのはいつぶりだろうか。
馬鹿みたいに口をぽかんと開けて立ち尽くすと、ブックカバーを折っていた遼が手を止めてはにかんだ。
「なんか、この歳で改めて呼ぶのはちょっと恥ずかしいね」
「遼、お前」
「うん、ごめんね。ずっと、気を遣わせちゃって」
眼鏡の奥。その大きな瞳に張りそうになった涙を瞬きして弾き、遼は真っ直ぐにオレを見つめて微笑う。
「あの日。助けてくれてありがとう」
あの日。
それが十数年前、目の前の彼女が攫われそうになった『あの日』ことだとすぐに分かった。
これまで遼が自分からそのことを口にすることはなかったし。ましてや、オレから口にすることもなかった。
タブーというほどのものではない。
だが、敢えて本人の前で触れたりはしない。そういうもの。だからこそ。
(ああ、もう大丈夫なのか)
目の前の曇りのない、素直な笑みを浮かべる彼女に、自然と口元が綻む。
「それにしても、今更すぎだろ」
「う……、そうだよね。ごめん」
しゅんと肩を窄める遼。
いつもの軽口だから間に受けるなと額を小突いてやると、彼女は申し訳なさそうに目を伏せた。
「わたし、ゲンマくんのこと考えてるつもりで、自分のことしか考えてなかった。
不知火くんって呼んだ時に、ゲンマくんが辛そうな顔してたの思い出したの。そういえば、謝ってばかりで、ちゃんとお礼すら言えてなかったなって」
「ああ」
仕方ない。というか、気にしたことがない。
確かに初めてそう呼ばれた時は胸が痛んだが、その痛みを引き摺っている暇なんかなかった。
遼は遼で。
オレはオレで。新しい環境や仕事を目の前にして、互いに忙しくしていたし。
なにより、遼が必死に前を向こうとしていたのを知っているから。
「改めて言われることでもねーよ」
「でも」
「気にすんな」
カウンターに寄り掛かり、昔のようにポンポンと軽く頭を撫でてやる。
遼は一瞬湿った顔をしたが、すぐにまた笑ってみせた。
「ありがとう、ゲンマくん」
「どういたしまして」
素直に礼を受け取ると、少しおかしそうにふふふと笑う。そして、ふと思い出したように顔を上げた。
「そうだ。ゲンマくんに報告があるんだけど」
「なんだ」
「わたし、はたけさんとお付き合いすることになりました」
ピタリ、と。
停止したのはオレだけではない。店の空気が粒子ごと一時停止した気がした。
「ーーーいつからだ」
「え」
「いつから付き合い始めた」
声がワントーン低くなったのは、決して意図したものではない。
(嫉妬?違う。動揺だ)
不覚だった。
いつかくっ付くとは思っていたし。まあ、この二人ならいいかと考えてはいたが。
(アイツ、いつの間に手ェ出しやがったんだ)
考えていたよりずっと早かった。オレとしたことが。こんなに早く付き合うとは露も思っていなかった。
天塩にかけて育てたウチの娘を掻っ攫っていくのは何処の馬の骨だァ!と、ちゃぶ台叩きながら威嚇する世の親父たちの気持ちが今なら分かる。
ゲンマくん、ゲンマくん、と背中を着いてきた女の子。自分なりに面倒見て、可愛がってきたつもりだった。
そんな子が、想定内の男とはいえ付き合うことになったのだから、気に掛けるのは当然だろう。
詰め寄るオレの剣幕に、遼は目を丸くして答えた。
「えっと、一週間前かな」
「どこで」
「慰霊碑の前でたまたま会って、それで」
慰霊碑。
おじさんとおばさんの命日か。
「告白はどっちからだ」
「多分、わたし」
「カカシはなんだって」
「人としても、女性としても好きだって」
「それで」
「お付き合いしましょうって」
「それで」
「そ、それで?それだけだけど」
それだけ。
「手は」
「繋いだよ。というか、握ったかな」
「キスは」
「し、ししししてないよ……!」
なに言ってるの!と顔を真っ赤にして怒られた。
「十代じゃねーんだから、告白したらキスくらいするだろ」
「そそそそうなの……?!」
茹で蛸のように湯気立ったと思ったら、プシューと頭から煙が抜ける。意外だ。
あれだけ明け透けに下の話してのける癖に、キス一つで慌てふためくって。大丈夫か、コイツ。
両手をパタパタさせて火照りを取っている遼。吊られて右手で扇いでやると、むすりとした顔をされた。
「ゲンマくんのせいだからね」
「知ってる」
だから扇いでやってるじゃねーか。
そうしてようやく頬の赤みの取れた頃、店の扉が開きちょうど渦中の人物がおいでなすった。
「よっ」
「こんにちは、はたけさん」
いつもと変わらない飄々とした態度。
変わらず片手を上げて挨拶をくれるので、オレはひらりと手を振り返す。
「一昨日頼んだ本入ってる?」
「はい、今朝入りましたよ」
カカシは遼から本を受け取り、代金を支払う。それから二人きりで何か話をしたいのか。チラリとこちらに視線を寄越した。
(あー、はいはい。お邪魔虫ってことですね。スミマセン)
オレは肩を竦めて、寄り掛かっていたカウンターから離れた。
「じゃあな、また来る」
「うん。ありがとう、ゲンマくん」
「ーーーちょっと待った」
踵を返そうとしたが、突然肩を掴まれ阻まれた。
「お前いつからゲンマくんなのよ」
「オレは会った時からゲンマくんですよ」
千本を加え直しながらしれっと答えると、カカシが悔しそうに眉を顰める。
「遼」
「はい」
「オレもくん付けしてみて」
何言ってんだ、コイツ。
しかし、カカシは本気だった。
必死とも取れる形相でカウンターに手をつき、身を乗り出す。対して遼は、パッと表情を明るくして手を打った。
「任せてください!それなら出来ます!」
「ホントに?」
「もちろんだよ、はたけくん!」
はたけくん。
言った本人は「言えたよ!褒めて!」と言わんばかりに顔を輝かせているが。
「「違う、そうじゃない……!」」
「うん?」
うん?じゃなくて!
カカシはカウンターに肘を着いて項垂れ、オレは額を抑えて天井を仰いだ。
コイツの思考回路どうなってんだ。
カカシが「ゲンマくん」呼びを聞いて「くん付けしてくれ」と言うんだから、普通に考えて「名前」に「くん」を付けるだろ。
「すみません、カカシさん。何言ってんだ、コイツとか思ってて」
「そんなこと思ってたの」
「オレが浅はかでした」
「分かってくれたならいーよ……」
まだ朝にも関わらず黄昏た背中。すっかり消沈しているカカシを見、流石に気の毒に思えた。
(仕方ねーな)
オレは後ろ頭を掻きながら、おもむろに幼馴染を呼んだ。
「遼、オレに続いて言ってみろ」
「え、うん」
「カカシ」
「カカシ」
「くん」
「くん」
「カカシくん」
「カカシくん」
「カカシくん」
「カカシくん」
「コイツは?」
「カカシくん」
「「!」」
言った側と言われた側とが雷に打たれたような表情で、互いに顔を見合わせ手を取り合い歓喜した。
「言えたよ、カカシくん!」
「言えたな、遼!」
口を揃えて「「ありがとうゲンマくん!」」と感謝されたが、その……なんだ。
「そんなんで本当に大丈夫なのか、お前ら」
「「え、何が?」」
「大丈夫そうだな」
やはりオレの目に狂いはなかった。こてんと首を傾げる二人に確信した。似たもの同士だ。問題ない。
オレは「仲良くやれよ」とだけ言って店を出る。
扉を閉めて、右に曲がる。もう一度左に曲がり、路地裏に入った。誰もいないそこで、どこぞの店の壁に寄り掛かっては、ずるずるとその場に座り込み俯く。
「はー……、思ったよりキツイな」
動揺と片付けた感情。オレは右手で胸のベストを握った。
嫉妬じゃない。否、嫉妬だ。ただ、恋愛的な意味ではなく。
『あの日。助けてくれてありがとう』
あの笑みを引き出したのが自分ではなかった。その事実がどうにも悔しい。
相手がカカシじゃなくて、他の誰かでも同じことを思ったはずだ。
(ったく、傲慢も甚だしいな)
遼の側にいるのは、オレだけじゃあない。
カカシもいれば、紅やアンコたちもいる。うずまきナルトと言ったか。オレにとっちゃあ後輩だが。
そんなヤツらと関わり合いながら、彼女自身成長している。そして、これからも変わっていく。
(そうだ)
誰がきっかけでもいい。
遼が笑っていられるならばそれでいいと決めたのだから。
オレは深く息を吐き、立ち上がった。
(まあ、気に入らないが感謝はしておくか)
『ありがとう、ゲンマくん』
「こちらこそ」
微笑っていてくれてありがとう。
ズボンのポケットに手を突っ込み路地裏を出ると、晴れ渡る真っ青な空がやけに目に染みた。