覚悟はいいかい、臆病者
※ 前半錯乱描写注意。苦手な方はこちらをクリックください。後半(描写なし前半内容も含んでいます)に飛びます。
夜の十一時。
マンションの地下駐車場に車を停めた。シートベルトを外し、鞄片手に車を降りてロックをかける。
(二日分の仕事終わらせようとしたら遅くなったな)
明日明後日は休みだ。
首に手を当てて、肩を回した。エレベーターのボタンを押す。
(明日は天気がいいらしいから布団干して。賞味期限の近い食品あったよな。本でも読んで。明後日はガイが車出してくれって言ってたっけ。日帰りとか言ってたけど、どこまで連れ回す気よ、アイツ)
考えながら、六階の廊下を歩く。玄関の鍵を回して部屋に入ったが、電気がついていなかった。
(まだ寝てるのか)
チヒロは当直を終えて、お昼過ぎに帰宅したはず。普段であればひと眠りして、今頃起きて夜食食べている頃だと思ったが。
自分の靴を彼の靴の隣に揃えて置いてから、リビングに向かい照明をつけた。
やはりその姿はない。
シンクの中も綺麗なままで、何かを食べた形跡もなかった。
オレは鞄をソファに置いて、チヒロの部屋をノックする。
「チヒロ」
静かにドアを開けた。
布団を被って丸くなっているチヒロの姿を認めて胸を撫で下ろす。
(杞憂だったか)
単に寝過ごしているだけだろうと、部屋のドアを閉めようとした。その時。
「ひ……、ぐ……」
チヒロが突然苦しげな声を漏らした。
見ると、右脚を抱えるようにしてガタガタと震え出す。
その姿には見覚えがあった。
『あー、これな。精神的なもんなんだよ。痛みがないはずなのに、急に痛くなったり。脚を無くした時のことを思い出すんだ。大丈夫、気にすんなって。その時だけだから』
前世での話だ。
大戦が終わって、半年くらい経った頃だろうか。
夜、寝ている時に魘されていて。
それが何度も続くから問い正したら、オレに責任や心配をかけたくないと思ったのだろう。あくまで、あっけらかんと笑いながら白状した。
オレがオビトとリンを亡くした時と同じようなものだと理解した。
それでも話をしたことで幾分楽になったのか。それを境に、徐々に魘される回数が減っていったのを覚えている。
(転生してからはもうないと思っていた)
少なくとも、オレが日本に来てからは、このチヒロを見たことがなかった。
「くそッ」
オレはジャケットを脱ぎ、ネクタイを外して袖を捲る。
(何が原因だ)
これまで普通に過ごしていたはずなのに。
「アァーーー!」
耳をつん裂くような絶叫。
夢なのかうつつなのか。
まるで分からないように泣き叫ぶチヒロ。その目は虚空を映し、喉が引き攣っていた。
オレはそんな彼に跨って、暴れようとする手足を抑え込む。チヒロはそれを振り解こうともがき、俯せになって自分で顔を枕に押し付けた。
「ふー……、ふー……」
そうだ。帰って来い。
「帰って来い、チヒロ」
過去じゃなくて、今に。ここに。この時間に。
とりどめない涙が枕を湿らせた。見下ろす背中が痛々しく震えている。逸らしたくなる目を必死に凝らした。
オレは抑えていた右肩を離した。頭が動かないようにチヒロの額に手を当て、その後ろ首に歯を立てる。
「ぁ、」
突然の痛みに漏れた吐息。
抱えた身体の震えが小さくなっていく。
(こっちだ)
薄らと滲む血を、舌先でそっと舐め取った。
(この痛みだけを感じて)
今だけを見て。戻ってきてくれ。
(頼むから)
食んで。噛んで。舐めて。食んで。
やがて、その身体が大人しくベッドに沈んだ。ゆっくり仰向けに返してやると、薄らと開いた目から残った涙が零れ落ちる。
虚だった瞳が、ようやく色付きオレを映してくれた。
「カカシ……」
「ああ、おかえりチヒロ」
謝ろうとする唇に、親指を当てて首を横に振る。
「おあいこ。そうだろ」
首の後ろを指したオレに、チヒロは眉を下げてぎこちなく笑った。
▽
首の手当てをしてやって。魘されていたチヒロを寝かしつけた。後ろから抱えると、右手でオレの左腕を掴み自分から身体を寄せて来る。
(いつもとは逆だな)
その髪に顔を埋めた。
『お前とチヒロさんって付き合ってんの?』
ふと、オビトの言葉が思い起こされる。
(違う)
付き合いたいわけではない。
恋人らしいことがしたいわけでもない。
(それに)
この気持ちは恋と呼ぶには重過ぎる。
前世でチヒロに言われたような、愛と呼ぶには歪んでいる自覚があった。
側にいたい。一緒にいたい。オレの命だから、って。
今はそれだけじゃ足りない。いや、元々あったのかもしれないが、もうひとつ自覚してしまった。
(離したくない)
前世の自分にすら妬くくらいに強く、そう思った。
(チヒロは誰にもやらない)
過去にも未来にもやるものか。
ただ。
ただ、今、ここにいる。オレの側にいて。
他の誰でもなくて。今この時間にいるオレだけを見て欲しい。
我ながら抱く、あまりに身勝手な願望に自らを嘲笑った。
「悪いな、チヒロ」
彼の首。白い包帯が、暗闇の中で浮かび上がる。
結んだばかりのそれを解いて、真新しい咬み傷に啄むように口付けた。
『だからぁ!それが好きってことじゃねーのかよ!?』
どうして、だとか。なぜ、だとか。
理由(それ)が分かるならば、こんなに悩んではいない。
(好き)
そうだといえば、持て余しているオレのこの気持ちも許されるのだろうか。
オレはそのまま瞼を下ろし、温もりを抱きしめる手に力を込めた。