小さな手すら振りほどけない


 オレは、二ヶ月ぶりに日本の地を踏んだ。

 帰りにはニューヨークの実家に寄った。父さんはいつもの笑顔で俺を迎えてくれた。話は当然日本の、一緒に住んでいるチヒロのことになるわけで。

「ああ、お前が子どもの頃に話してくれた『チヒロ』か」
「え」
「良かったじゃないか。会いたかったんだろう」
 
 そう言って微笑んでくれた。

「でもね、相変わらずカモなのよ」
「カモ?」

 オレはステーキを切りながら、改善する見込みのないチヒロのカモ具合について父さんに淡々と語る。

 いかんせん、前世からの筋金入りだ。

 オレの知らない場所で、また誰かに騙されているんじゃないかとか。騙されていることも気づかないままカモられているんじゃないかとか。いっそのこと、騙しているわけじゃないけど貢がされているんじゃないかとか。

『それならきっと、カカシはあんな感じに光ってると思ったんだ』

 あんな歯も浮くようなことをサラッと言ってのけるから。尚の事心配になる。

「にも関わらず、オレ不在中のチヒロの動向が掴めないからさ」

 顔が見たいなと思って写真を送ってくれと頼んだら、あろうことか届いたのは忍犬たちの写真で。

 チャットをしても、交わすのは業務連絡や「了解しました」「おはよう」「おやすみ」などの定型文のみ。打つのが面倒なのか、単に文字下手なのかは分からないが、彼がどう過ごしているのかさっぱりだった。

「見守りカメラでも設置すれば良かった」

 失敗した。帰ったら即設置しよう。

 それから周辺を固めて。チヒロの話だと、運良くゲンマの記憶が戻ったらしいから、プライベートはアイツに任せるとして。職場はガイとエビスと紅に。本当はリンにも頼みたいけど、子どもが小さいからなぁ。負担かけるわけにもいかないし。オビトに話だけでも通しておくか。

 ランチドレッシングをかけたサラダを咀嚼していると、相槌を打ちながら聞いていた父さんはいつかの同期たちのように眉を下げて言った。

「過保護だなぁ、カカシは。向こうはとっくに成人した男性で、お前より歳上だろう。心配しすぎだよ」
「父さんは甘いんだよ。年上どうこうじゃなくて、アイツはただのお人好しなんだから」
「お人好し?」
「そ。どれくらいお人好しかって。単身アメリカに住んだら、ものの三ヶ月で身包み剥がされるくらいさ」
「それはまた」
「言っとくけど、ジョークじゃないからな。好きだと思った相手のためなら躊躇いってもんがない。ったく、見てて歯痒いよ」
「へぇ」

 オレがフォークの先を軽く振り肩を竦めると、父さんは意外にもどこか興味深そうに目を細める。

「お前がそこまで言う相手なら、オレも会ってみたいな。今度は彼と一緒に帰ってくるといい。ああ、でも彼も忙しいか……」

 顎に手を当て、スケジュール帳を開きながら何やら考え込む父さん。あの様子だと、オレがチヒロ を連れて行くよりも、父さんがこちらに来る方が早そうだなと苦笑する。

 それから実家に一泊して、日本へ出発。通常であれば、着いた日は空港のホテルで一泊するところを、夜中タクシーを走らせて帰宅した。理由は一つ。

 (チヒロを肺一杯に吸いたい)

 いくら御託を並べたところで、結論はそれだった。チヒロが足りない。なんたって二ヶ月だ。再会してからこんなに離れていたことはない。

 嗅ぎたい。それから声が聞きたい。寄り掛かられたい。抱き締められたい。なんなら抱き締めたい。それ以上だってーーー、

 (なーんてな)

 チヒロ が男に趣味がないのは知っている。ただ、アイツとなら。触れたいし、触れられてもいいと思っている。

 (もしも)

 もしもあの手が他の誰かと繋がれたら。
 髪を、横顔を、肩を、背を、オレじゃない誰かに触られたら。

 いつかの夢がザッと脳裏を蘇る。チヒロの世界にオレがいない夢。オレがいなくても笑っているチヒロの横顔。

 手を伸ばしても届かず。声を掛けても響かない。まるで彼にはオレがいなくても構わない、と突き付けられているようで胸の奥が痛みに疼き自嘲する。

 (は……、いつからこんなになったんだが)

 自覚していなかっただけで前世からそうだったのだろう。チヒロの周りに人が増えるに連れて。チヒロが誰かと一緒にいるのを見るのが、正直面白くなかった。

 誰かから好意を寄せられていると分かったら、腹の底からじわりと何かが迫り上がってくるような感覚がした。

『いっそのこと、捕縛して部屋にしまっておこうか』

 前世で側近に溢した愚痴は、満更冗談ではない。

 いつ、誰に取られるや分からない。オレの命なのに。オレのーーー、

『誰のとこにいるのか、なんて。強要するようなことじゃないだろ、こういうのは』

 お前はそう言うけれど。

 (強要してくれていいのに)

 もっと、思っていることを言ってくれ。そうすれば、オレも心置きなく伝えられる。

 いつも、どれくらいであっても。オレのことを受け入れてくれるチヒロだから。

 (ひとつも取り零したくないのよ。お前の気持ちは)

 オレは疲れている身体に鞭打ち、タクシーから降りる。キャリーケースを引っ張って、足早にエントランスを抜けた。

 とはいえ、寝ているチヒロを叩き起こすのは忍びない。その時は慎重に布団を捲って、オレもその隣で寝よう。

 エレベーターに乗り、六階のボタンを押す。
 扉が閉まり、わずかな振動が伝わる。階数ボタンの上の電子パネルに階数が映し出された。

 (一、二、三……)

 六まで数え、エレベーターのドアが開くと同時に大股でフロアに踏み出す。角の部屋に着き、鍵を回した。

 玄関のドアを開けると、既にオレの気配を感じ取った忍犬たちが揃って出迎えてくれる。

「ただいま」
「「ワンッ」」

 キャリーケースと荷物を玄関に置き、靴を脱いで家に上がる。しゃがんでから頭や背を撫でてやると、嬉しそうに擦り寄って来た。

 顔を上げると、リビングの電気は消えている。

 (やっぱり寝てるか)

 ひとまず荷物片手に家に上がる。リビングのソファ横に荷物を置き、チヒロの気配を辿ると。

 (どういうことだ)

 つい足を止め、パックンたちを振り返る。

「チヒロが、オレの部屋にいるのか……?」

 訝しんで訊ねると、彼らは揃って首肯した。

 オレは自分の部屋のノブをそっと下げる。
 扉を開けると、確かにベッドが膨らんでいる。見ると、横向きになってオレの掛け布団を鼻の上まですっぽり被り、寝息を立てているチヒロがいた。

 ドアの隙間から差す光が足元を照らす。オレはカチューシャを彼の枕元に置いて、ベッドに座った。

 (どうして)

 どうしてチヒロが、ここで寝ているのだろう。

 手を伸ばし、人差し指で顔にかかる髪を慎重に払う。それでも擽ったいのか、むむと眉根を寄せた。その仕草に自然と口元が弛む。

 (今まで、オレに無断で部屋に入った事は一度もないのに)

 気紛れか。
 いや、気紛れで人のベッドで寝るようなヤツじゃない。だとしたら。

 (寂しかったからーーー?)

 いや、まさかなと頭を振る。

 その頬に触れると、咄嗟に腕を掴まれた。

 起きたのかと思ったが、違う。
 オレを見上げる虚ろな瞳。ぼんやりとしている、夢とうつつの狭間にいるような。そんな顔。

 チヒロはオレの腕を離し、代わりにこちらへ両腕を伸ばす。誘われるままベッドに膝を付いて屈むと、彼の手が突如オレの頭をぐわしと掴んだ。

 (え、なに?)

 戸惑うオレなどお構いしに、チヒロはオレの髪を思う存分とばかりに掻き回す。

 そうしてボサボサになった頃、ようやく満足したのか。今度はその右手をオレの後頭部に、左手を首の後ろに回して自分の肩へと引き寄せた。そして。

 ーーーチュッ。

「……は?」

 キスされた。おでこに。チューされた。

 (こ、これが)

 これが俗に言うラッキースケベってヤツか……!?

 予期せぬ展開に、ドッと胸が高鳴る。

 ラッキースケベ。
 それは前世で読んだイチャパラ(上)に書いてあった、アレ。主人公が躓いた拍子に、偶然にもヒロインの胸の谷間に顔を突っ込んじゃった的な。そんな俺得ラッキーハプニング。

 これからどうなってしまうんだろう、と頭を抱かれるまま固唾を飲んでいると。

「ぐぁ……っ?!」

 なぜか両脚で腰をホールドされた。倒れ込みそうになるのを、チヒロの顔の横に肘を付き、ギリギリのところで耐える。

 前のめりだった体勢。そこに大人の男一人分の負荷が腰に加わるのだから、普通に重い。

 (何がしたいのよ、コイツは……!)

 まるで木の枝にぶら下がるナマケモノさながら、オレに引っ付いている。髪を撫でられ、掻き混ぜられ、抱き寄せられ、ラッキースケベ発生かと思いきや、今度は謎の苦行。

 このままでは身体が保たない。
 オレはチヒロの背中に左手を差し入れて、彼を抱えた。右手でベッドを押しながら上体を起こし、胡座をかいた状態で彼を抱く手の力を緩める。

 重力に従ってずるずると落ちては、遂にオレの脚に座るチヒロ。流石に何かが変だと思ったのか。オレの頭の後ろに回っていた手が離れ、代わりにペタペタと顔面を触ってくる。

「チヒロー」

 試しに呼ぶと、うすらと開いた臙脂色の瞳。ゆるりと首を傾げては。

 (あ、起きた)

 チヒロが覚醒した。ぼうっとしていた目に、突如光が宿る。
 彼は右を見て、左を見て、目の前(オレ)を見て。ついでにオレの腰に回した自分の両脚を見下ろして。

 とも思えば、顔を両手で覆い、オレの腕から転げるようにして自ら布団に沈んだ。

「おかえり……」
「ただいま」
「めっちゃリアルな夢だなとは思ったんだ……」
「そっか」
「もしかして俺さ」
「うん」
「もしかしなくてもお前にその……、き、きす、とか……」
「したね」
「だよなぁ……」

 夢の中だからいいかなと思ったんだすまん……、とか言ってるけど。え、なに。夢の中ならキスするの。

「夢の中のオレと何してるのよ、お前」
「めっちゃ甘えてくるから、めちゃくちゃ甘やかしてる……」

 なんて羨ましいことしてるんだ、夢の中のオレ。めっちゃ甘えてくるからって二倍にして返してるチヒロもチヒロだ。夢より現実のオレを三倍にして甘やかして欲しい。

 そんなことを言えずに考えるだけしていると、未だ羞恥に悶える彼がオレの服を着ていることに気が付いた。サイズが合っていないのか。全体的にたぼっとしている。

「チヒロ、その服」
「あ」

 聞くとチヒロは、隠していたエロ本が見つかった時ような顔をして、手を振りながら弁明し出した。

「あ、いや、この服は!か、借りたら毎回洗ってっから、その……!」
「借りる?なんで」
「ッ、あ、だ、から……、……さ」
「さ?」

 ーーー寂しくて。

 彼は消え入りそうな声でそう言っては、更に身体を縮こませた。

「カカシがいない間、あまり眠れなくてさ……、カカシの服着て、お前の布団に包まれば抱き締められてるみたいで、ちゃんと眠れたから。帰ってくるまでと、思って……、借りてたんだ……」

 勝手にごめん。

 そう言って、いつの間にか端に追いやられていた掛け布団を引っ張り、横向きになって顔を隠してしまった。

 (どうして忘れていた)

 トップスの裾は太腿まで届き、袖は手の甲まで隠れている。膝をくの字に追ってズボンの裾から覗く爪先は、気まずそうにきゅっと丸め込まれていた。

『行って来いよ。お前のオペ待ってる患者さんがいるんだろ』

 送り出されたから平気だと?

『お前にはお前の人生があるだろ』
『俺の命なんて持ってても邪魔になるだけだ。必要なんてな』
『いや、だって俺はお前を自由に』

 オレのためならと。
 自分の気持ちを飲み込んで、蓋をする。

『チヒロー、オレにしてもらいことってないの』
『ねーよ。お前がいてくれればそれでいい』

 彼が望むのは、ただそれだけだったのに。

「チヒロ」

 呼ぶと、びくりと肩を震わし、余計に布団を抱き締める。オレはそんな彼を抱き起こしては、腕の中にきつく閉じ込めた。

「これからも、向こうに行くことがあると思う」
「ああ」
「寂しいなら寂しいって言っていーから」
「……いい歳こいて言えるかよ」
「そう?オレはチヒロと離れてて寂しかったけど」
「カカシはいいんだ」
「ふっ、なにそれ」

 苦笑すると、チヒロは染まる頬を隠すように口を尖らせた。ぽすぽすとオレの頭を撫でる手を受け入れながら、オレもまた彼の髪を梳くように撫でる。

 そして、その手がオレの耳を包むように添えられたと思ったら、そのまま親指で薄い透き通った緑青色の粒にそっと触れた。

「『いつでも貴方を見守ってる』。だから、これからも安心して行ってこいよ」
「!お前、贈る意味分かって贈ってたのか」
「人を何だと思ってんだ」

 驚いて顔を上げると、チヒロの口元が引き攣った。

「アクセサリーだぞ。何も考えずに贈らねーだろ普通は」
「それならーーー」

 オレはチヒロの背中に手を回し引き寄せた。首に向かって左手を伸ばし、チョーカーに人差し指と中指の爪先で、引っ掛けるように触れる。

「これ、どういう意味か知ってる?」
「捕まえておきたい、的な感じだろ。首だし」
「『独占したい』し『束縛したい』。お前が、オレの……、オレだけのものであれば良いとも思ってる」
「そうか」
「えっ」
「え」
「いいの?外すなら今だよ」

 思っていたより薄い反応にオレの方が驚くと、彼は瞬きをしてから考える間も無く首を横に振った。

「外さねーよ」
「なんで」
「なんでって、そりゃあ。相手がカカシだからじゃないか?」

 疑問を疑問で返された。答えになっていない。
 じとりと見遣ると、オレが納得していないのが伝わったのだろう。チヒロは後ろ頭を掻きながら「あー……」と罰悪そうに視線を逸らしたが、やがて嘆息し、オレの胸に凭れかかるようにして項垂れた。

「本当はこの二ヶ月間、ずっと会いたかったんだ」
「ああ」
「家族も友人も好きだけど。
 昔も今も、これから先も。前世も今世も来世も。なんならその次の世でも。俺がずっと一緒にいたいと願うのはカカシだけだ」
「チヒロ……」
「俺の命はお前のものだろ。心でもずっとお前のこと考えてるし。後は身体だけだけど、ナルトにも、俺のこと『オレのカモ』だとか言ってたし」
「言ったね」
「前世ではいらないって言われたけど、お前が欲しいなら命も心も身体も全部やるよ」

 まさかの丸投げ。
 オレの肩に顎を置いて「持ってけ泥棒ー」とか言ってるけど。コイツ、言葉の意味分かってるの。だからカモだって言うのよ、アホチヒロ。

 しかし貰えるものは貰える時に貰っておくに限る。オレはチヒロの肩を軽く押してベッドに横たえ、またオレもその隣に横になった。

「チヒロ」
「なんだ」
「抱き締めて」
「ああ、来いよ」

 こちらを向いて腕を広げるチヒロ。オレはそんな彼の左肩に額をくっ付け深く息を吐く。

 チヒロ は向かい合うオレが寒くないようにと、オレごと布団を被り直す。そんな彼の傍ら、オレは脇から手を差し入れてはチヒロ を抱き締め、その胸に顔を埋め目を閉じる。

「ここは……、チヒロの両腕の中はリンの場所だと。ずっとそう思ってた」
「え……」
「お前に好きって言ったあの日。
 リンからチヒロを任されて。お前の両腕に抱かれたあの時。本当に、許されたような気がしたんだ。だから伝えた。伝えられたんだ」
「カカシ、お前」

 「許された」。
 それは、リンを殺めたこと。仲間を守れなかった、後悔と後ろめたさ。ずっと自責の念に駆られていた。

 大戦後。オビトと話してから随分軽くなったものの、いつも心のどこかにはあって。ふとした時に過ぎっては、小さな棘のように胸を刺していた。

 こんな自分がチヒロの側にいてもいいのかと、何度問答しただろう。けれど。

『お兄ちゃんのこと。お願いね』

 そう頼まれて、ようやく解放された気がした。チヒロと一緒にいる自分を、肯定してもいいように思えた。

 聞いていたチヒロはぐっと息を詰め、答える代わりにオレを抱く手に力を込める。

「チヒロ、貰ってもいい?お前のこと」
「ああ」
「好きでいても、いいか」
「ああ、いいよ」

 当たり前のように返ってきた返事に、熱くなる目頭。溢すまいと彼の着ている服を握ったら、不意に小雨がパタパタと降ってきた。

 仰ぎ見ると、チヒロの頬を涙が伝っている。どうしていいか分からず手を伸ばし、親指で拭ったらますます溢れ。親指どころか、頬に触れている人差し指から中指、薬指までびしょ濡れになってしまった。

「どうしてお前が泣いてるのよ」
「お前が泣かないからだろバカカシ……!」
「フフ、そっか」

 オレの代わりに泣いてくれる、お人好しな彼。
 その心がどうか早く晴れますようにと。オレは祈りを込めて、チヒロの目尻にそっと唇を寄せた。
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