そして彼は微笑んだ


 休みの日。

 俺はいつも通り、ラグに座ってカカシに寄り掛かっていた。スマホで開いた漫画をスクロールしていると、カカシはカカシでいつも通り俺の腹部に手を回し、肩に顎を乗せては口を開く。

「チヒロ」
「なんだ」
「本当にオレのことが好きなの」
「好きに決まってんだろ」
「じゃあなんでスマホばっかり見てるのよ」
「それはーーー」

 スマホから視線を外し、カカシと視線が合うなり俺は口を閉ざした。瞼が半分落ちている、じとりとした目。明らかに不満が滲んでいる。

 漫画の更新日だから、とはとても言えなかった。

「二週間ぶりに休みが被ったのに」
「そ、うだな」
「二人で一緒に過ごしてるのに」
「ああ」
「お前はスマホばっかり見てるし」
「それは……」
「折角だからオレを連れてどこかに行こうって発想ないの」
「お前は俺のカノジョか」

 思わず突っ込むと、カカシはハッと何かに気付いたような顔をして言った。

「やぶさかではない……」
「おい」

 納得するなよ。自分で言っておいてなんだが、どう考えてもやぶさかだろ。

 ところがカカシは顎に手を当て、何やらじっと考え込む。今度は何を言い出すやら、その沈黙が怖い。

 内心冷や汗をかいていると、おもむろにカカシが顔を上げた。

「なあ、チヒロ」
「なんだよ。改まって」
「オレを海に連れて行って」
「は……?」

 何考えてんだ、コイツ。

 困惑する俺とは対照的に、期待を込めた瞳でこちらを見上げるカカシ。

「リンとは行ったんでしょ」
「行った、けどさ」

 アレは夕日見に行ったんだよ。

 まさか三十代のオッサン二人で、砂浜に座って夕焼けでも眺める気か。そんな物悲しいことすんの。かと言って、男二人が浜辺で水蹴りながら、きゃあきゃあしてたら引くだろ、普通に。

 海開き前の海なんざ、本当に何もない。寒々しい風と、打ち寄せる波と、たまに横歩きしている小さな蟹が一匹。そんなもんだ。

 (でもなあ)

 壁に掛けた時計を見上げると、既に午後三時を回っている。

 (確かに休みの日にスマホばかり見ていた俺にも非はあるし。まあ、行きたいってなら、連れて行かない理由もないけど)

 チラリと横目でカカシを見ると、相変わらずキラキラした目をしていて。

「……分かったよ」

 断るにも断れず、俺は後ろ頭を掻きながらスマホの画面を落とした。




 海に行きたい。
 オレがチヒロに頼んだのは他でもない。

 (『カノジョ』と言ったら海でしょ)

 そう思った。

 オレは女じゃないし、カノジョになりたいとも思わない。だが。

 (チヒロはチョロイからな)

 どういうわけか、チヒロともあろう者が前世よりモテる。

 ま、見た目は悪くないし、仕事中はちゃんとしているし。オビトでさえ「面倒見のいいカッコイイお兄さん」とか言っていた。

 シスコンと甥コンさえ知らなければ、好意を寄せられてもおかしくはない。おまけにカモだ。いつ、誰の毒牙にかかるやしれない。

 それならばオレがチヒロの『カノジョ』というポディションに収まり、それを阻止すればいい。『彼女狩り』ならぬ、『彼女顔』。やぶさかではないと考えた。

 (まずはデートしないとな)

 月並みの街中デートでは意味がない。もっとこう、特別な。海なんかいいな。そういえば、リンと夕日を見に行ったって言ってたっけ。リンと行けてオレと行けない理由はないはずだ。だってチヒロ、オレのこと好きって言ってたし。好きであれば一緒に海くらい行けるでしょ。

 そう、思っていた。

「……ねえ、チヒロ」
「なんだ」
「オレ、海に行きたいって言ったんだけど」
「知ってるよ」
「じゃあなんで山に登ってるのよ」
「山っつーか、坂な」

 だが一体どういう訳か、オレはチヒロに連れられて坂を登っていた。

「よし、じゃあ行くか。身体冷えるからちゃんと着込めよ」

 そう言われて、ちゃんと着込んだ。

 ヘルメットを装着し、チヒロのバイクに乗り、その背に掴まりながらすっかり海気分のオレ。ところが彼はそんなオレの気持ちを置いて、どんどん内陸へと進んで行く。

 (なんか山、近くない?)

 おかしいなと思った頃には、既に坂を登っていた。

「あのさ、チヒロ」
「もうちょっと待ってろ。そろそろ着くから」

 オレとしたことが、チヒロを過信していた。

 乗り物の主権は運転手にあり。
 己の足を任せた以上、山に行くも海に行くも彼の手に委ねられている。

 (そういえば、コイツ。言っても聞かないヤツだった)

 すっかりカノジョ気分で、カレシのバイクに乗って潮風浴びるのもまた一つのロマンかな、と思った一時間前の自分を戒めてやりたい。こんなことになるなら、自分で車出せば良かった。

 オレが嘆息したのと、バイクが停止したのとはほぼ同時だった。

「っし、着いた」

 チヒロに促されて降りてみると、小高い山の中腹付近にある休憩所のようなところだった。
 
 既に夕暮れの時は過ぎた。オレンジ色の幕は引き、紺色のベールが空を覆う。

 こじんまりとしたそこには、申し訳程度の街灯が六本に、ベンチが三つ。それに自販機が一台。転落防止用の柵が設置されているだけで、人も野生動物も見当たらない。

「ここさ、お前に会う前によく通ってた場所なんだ」

 チヒロはバイクを停めてから、慣れた様子で自販機に向かい、ホットの缶コーヒーを二本買っては一本をオレに渡す。向かい風で冷えた手に、温かさがじわりと染みた。

 それから彼はオレの袖を引き、中央のベンチへと誘う。

「そんで、このベンチが特等席」
「特等席?」
「騙されたと思って寝転がってみろよ」

 もう既に騙されてるけどね。

 その言葉を飲み込み、オレはベンチに横になった。

 とはいえ身長百八十超えの自分が収まるわけもなく。膝を肘掛けの上に乗せて、ようやく仰向けになる。窮屈なそこに顔を顰めそうになりながら視線を上げると。

「これは……」

 満天の星々が広がっていた。

「綺麗だろ。夏もいいけど、俺はこの春先の夜空が一番好きなんだ」

 金色に輝く星。白く輝く星。青く瞬く星に、ほんのりと赤みかがった星もある。散らばめられた星々の美しさに魅入っていると、チヒロは上着のポケットに手を入れてベンチの肘置きに凭れながら、自分も夜空を仰いで言った。

「ここは、リンも知らない。誰かを連れてきたのは、お前が初めてだ」

 オレが初めて。
 その一言で、海のことなど頭から吹き飛んだ。

 (ったく、いつからこんな単純になったんだか)

 あっさり溶けていく気持ちに、内心苦笑する。

「あの頃は。カカシと会う前は、誰も何も覚えてなくてさ。十五年以上経てば、いい加減慣れて、割り切れてるかなと思ったんだけど。情けない話、全然そんなことなくて」
「うん」
「考えることも億劫で。今思えば逃げてたんだろうな。試しにバイクで走ってみたら、何も考えなくて済んだんだ」

 そうだった。

 アメリカでは勉強も仕事も上手く行っているはずなのに、心はいつも隙間風が吹いていた。

 訳もなくむしゃくしゃして。夜、一人で車を乗り回した時もあったっけ。

「なあ、知ってるか。人が、星のかけらで出来てるって話」
「ああ、聞いたことはあるよ」

 オレたちの身体は、かつて星の中にあった物質で出来ているという説がある。

 宇宙空間が誕生した頃は、宇宙には水素とヘリウム、ごく少しのリチウムなどガスのような軽い物質しか存在しなかった。

 やがてそれらが集まり、星を形作り、その内部で様々な元素が生まれた。酸素や炭素、その他人間の体を構成する物質はその時に合成されたものだと言われている。

「そんな星が一生を終えて宇宙に物質をばら撒いて。それを繰り返すうちに、宇宙には元素が増えてったって話でしょ」
「そうそう。だから、俺たちの身体を形作る元素も、かつては星の内部で作られたものなんだってさ」

 チヒロがポケットから手を出して、冷えてきた缶を持ち直す。

「それなら、こうも考えられないか」
「どうやって」
「宇宙からこっちを見たら、こんな風に見えてるんじゃないか、って」

 こんな風に。

 そう言いながら、彼は空に手を伸ばした。

「こっちから宇宙を見たら、一つ一つの星がキラキラして見えるだろ。なら、宇宙からこっちを見たら、俺たちが星みたいに瞬いて見えるかもしれない。
 それならきっと、カカシはあんな感じに光ってると思ったんだ」

 チヒロが指差したのは、一際光る白銀の星だった。

「宇宙からなら、お前が見えるんじゃないかって。お前が寝てるそこから、何度も何度も手ェ伸ばしてた」
「チヒロ」
「見上げる度に泣きたくなったけど。苦しくて、胸が締め付けられるような心地がしたけど。それでも、生まれて初めて希望が持てた。それだけで、幾分マシな気がしたんだ」

 肘掛けから離れて手を組み、ぐっと頭上に回して背伸びをするチヒロ。オレはおもむろに身体を起こして、ベンチに座る。

「それで、オレをここに?」
「まあな。どうせなら、今度はカカシと、この空を一緒に見てみたいと思った」
「そうか」
「ん、だけど」
「だけど?」
「あー……」

 少しは申し訳ないと思っているのか。眉を下げた彼は「海はもう少し温かくなってからでもいいか……?」と窺うように頬を掻いた。

 (まったく、コイツは)

 オレは深く息を吐いてから、そんな彼に手を伸ばす。攫うように捕まえて、自分の膝の上に乗せた。チヒロの背中に顔を埋めて思いっきり吸うと、「ひぃっ?!」と身体を震わせる。

「な、なんだよ!?」
「んー、なんでも」
「なんでもって……」
「オレの星を、掴まえただけだーよ」

 ーーー悪い?

 そう戯けて首を傾げると。お前はオレを振り返って、はにかみながら笑うんだ。

 夜空に瞬く、星のような笑顔で。
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