好きじゃないなんて嘘ばっかり
命を救う術を知っていた。そのための技術も磨いていた。
(それなのに)
及ばずに手から溢してしまった命。
里のために、任務のためにと正当化して殺めてきた命。
『誰だ、お前』
今はその報いを受けているのだと、そう思った。
▽
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
この世に生まれ落ちた時から、俺には「のはらチヒロ」としての記憶があった。
だからこそ、「俺」は「俺」であると認識できたのだと思う。
そして奇しくも、
「お前の名前は『チヒロ』だ。のはらチヒロ」
同じ名前を与えられた。
同じ両親の間に生まれたので当然と言ったら当然なのだが。決定的に違うものがあった。
母乳とおむつの恥辱から解放され、二足歩行への移行を無事に果たし、乳歯が生え揃った頃。
母さんと洋服を買いに行った時のことだった。自分の服を選びに来て売り場で悩んでいる母さんに、俺は好きそうなものを数点抱えて持って行った。
「母さん、これ似合うんじゃない。これとか、好きだろ」
「あら、どうして分かったの」
「だって母さんが昔着ていたのって、このデザインの服多かったし」
「……昔?」
母さんが困惑した表情を浮かべた。
「私、こんな服は買ったことがないわよ」
ひゅっと、喉が鳴った。
(そんなはずはない)
前世では好んでよく着てただろ。
だから、初めての任務で報酬を貰った時にプレゼントしたんだ。喜んでくれたじゃないか。
「母さん、って」
「うん?」
「これ、好きじゃない……?」
持ってきた服を差し出したら、眉を下げて微笑んだ。
「興味はあるし、好きだけど。そうねえ、チヒロが勧めてくれるなら一枚買ってみようかしら」
ああ、そうか。
(母さんに俺の記憶はないんだ)
そう、知った。
父さんも同じだった。
「木ノ葉の里?子どものアニメか何かか」
と言われたので、夢で見たのだと誤魔化した。
妹が生まれ、「リン」と名付けられた。
彼女が言葉を話せるようになってから、両親がいない時にこっそりと話して聞かせた。
里のこと。忍者のこと。仲間たちのこと。
けれど、リンはまるで絵本を読み聞かせている時のように、じっと俺の話に聞き入るばかりで。
「なあ、リン。何か覚えてないか」
「?なにを?」
「なに、って……」
「それよりお話の続き聞きたい!面白いんだもん!ねぇ、お兄ちゃん!」
ーーーオシエテ。
こうして俺は、前世について話すことをやめた。
▽
小中高と進み、大学は国立の医学部に進学した。
薬学部にするか迷ったけれど、前世の現場での記憶が俺をそちらの道へと誘った。
(それだけじゃない)
何でもいいから、少しでも前世との繋がりを感じていたかった。この道に進めば、また「俺」が「俺」でいられるような気がした。
研修医期間は目が回るような忙しさだった。
やっと終えて大学附属病院に勤務したら、今度は医局内の派閥やら人間関係に揉まれる羽目になった。
(面倒臭い)
カンファレンスや研修はいい。上司や先輩からの雑用も甘んじて受けよう。
だが、間違っていることを間違っていると言えないこの環境は何とかならないものか。
隣の診察室で聴きながら、「それは違う」と思うことがあっても角が立つからと言えやしない。
悔しさともどかしさを幾度となく押し殺した。
「忙しさにかけては今も昔も変わらないし」
三日ぶりに1LDKの自宅に帰宅してベッドにダイブした俺は、茄子のクッションを手繰り寄せて、サンマの抱き枕を抱き締めた。
『付き合ってください!』
今世はなぜか前世よりもモテた。
中学高校で幾度と告白されたが、付き合う気にはなれなかった。
(そもそも恋愛対象として見れない)
ミライやサラダの面倒を見ていたからだろうか。
同年代は庇護対象であり、制服を着ている女子は尚更、どう頑張っても娘にしか見えなかった。
大学に入ってできた彼女も、
『えー、私サンマの抱き枕なんていらなーい』
『いや。これ俺のだから』
水族館デートしたその日に別れた。
お土産コーナーでアザラシやラッコのぬいぐるみを見ていた彼女を放っておいて、円柱の傘立てに頭から突き刺さっているサンマの抱き枕に目を奪われた俺が悪かった。
(アイツ、好きだったよな。サンマ)
そう思ったら、自然とヤツを救出していた。連れて帰らなければならない気がして、両腕で抱えたまま一人でレジに直行した。
そして研修医の時。
ヘトヘトになりながら、お惣菜を買いに寄ったスーパーのワゴンセールで見つけた『茄子のごった煮ー茄子をあんまりなめるなよ、コラー』。
スレたごった煮の正体は、茄子柄の掛け布団カバー、茄子の形をした枕とクッションの寝具セットだった。
名にそぐわぬ緩いフォルムに惹かれて購入したはいいが、肝心のお惣菜を買い忘れてその日の夕食は白米と梅干しだけだった。
だが、不思議なことに。
どんなに疲れていても、どんなに辛いことがあっても。サンマを抱いて茄子に寄りかかれば気持ちが幾分安らぐため、双方よろしく愛用している。
「はー……」
今日も今日とて、やっぱり落ち着く。
俺は、茄子柄の掛け布団を肩まで引っ張って瞼を下ろした。うとうとと微睡み、夢の世界の扉を開けるまで秒読み。そんな時に、
−−−ピリリリリ。
無慈悲にもスマホが鳴った。
待機医の連絡かと思って枕元に手を伸ばしたら、画面に表示されたのは学友の名前で。
「……もしもし」
『そんな嫌そうな声出すなよ』
スピーカー越しに苦笑を漏らしたのは「不知火ゲンマ」、前世で散々世話になったその人だった。
▽
ゲンマとは、中学で出会った。
廊下で見つけた、記憶の中の彼と瓜二つの容姿。
着ているものが学ランで、咥えているものが棒キャンディーになっただけで、話し方も笑い方もそっくりだった。
「ゲンマ」
ところが目の前の彼は俺を振り返り、
「誰だ、お前」
馴れ馴れしいヤツだな、と眉を顰めて背を向けた。
俺はチャイムが鳴ったのも気付かないまま、一人廊下に立ち尽くした。
その日はどうやって授業を受けたのか、家に帰ったのか覚えていない。
自分の部屋に入るなり、バッグが肩から滑り落ちた。
部屋の壁に寄りかかって、ずるずると座り込む。電気も点けない部屋で俯いたら、目頭から涙が流れ出た。
「はっ、なんで……」
なんで俺だけが記憶を持っているのだろう。
(きっとこれは罰なんだ)
前世で人を殺めた罪。命を救えなかった罪。
ゲンマにも同期たちにもたくさん迷惑をかけた。
『誰だ、お前』
訝しげな視線も。警戒する声も。
胸が抉られる。痛いなんてもんじゃない。息ができないくらい苦しい。
「くっそ、堪える……」
家族も友人も。
名前も姿も同じなのに、本人じゃないということが。
知っているはずの人が、知らない人だという現実がとても耐えられなかった。
(こんなことなら、記憶なんていらなかった)
「懐かしい」と「また会えた」と。喜び合えるわけでもないのに。
いっそのこと、みんな違う名前だったら。眼差しも声も姿も俺の知らないものなら良かったんだ。
「こんな思いをするくらいなら出会わなければ」
「チヒロお兄ちゃん」
ゆっくり首をもたげると、妹がドアの隙間から遠慮がちにこちらを窺っている。
呼ぼうとした名前を飲み込んで「どうした」と尋ねると、彼女は部屋に入ってそろそろと近付いてきた。
「お兄ちゃん」
その声で呼ぶな。
思わず口をついて出そうになった言葉。それを既のところで堰き止めて、低く、吐き出すように言った。
「今は、来ないで」
「嫌だよ。だって、お兄ちゃんが苦しそうだから」
「苦しくなんか」
「隠したって無駄。ちゃんと見てるよ。お兄ちゃんが隠れて泣いてるって知ってる。だから」
彼女は固く握っていた手を広げて、俺の頭をその胸に抱えた。
トクン、と。妹の鼓動が耳の奥を打つ。
「独りになろうとしないで」
優しく響く、声が。
『お兄ちゃん』
初めて、記憶の声と重なった。
俺は嗚咽を噛み殺し、震える手を伸ばした。小さな温もりを、縋り付くように抱き締める。
「り、ん」
「うん」
「リン……!」
目の前のリンは俺「を」知っているリンではなかったけれど。俺「が」知っているリンだった。
▽
翌日、ゲンマに会いに行った。
昨日は悪かった、とか。知り合いに似てたんだよ、とか。言い様は他にもあったと思う。しかし、俺は言ってやった。
「将来糖尿病になりたくなければ、棒キャンディーはやめておいた方がいいぞ」
「は……?」
言ってやってスッキリした。
変なヤツだなと言われたが、変なヤツだろうと放って置けないのがゲンマの変わらぬ性なのだろう。
結局のところ、中高大同じ学校に通い、社会人になってからも、こうしてたまに連絡を取り合うような関係が続いている。
向こうは法学部を出て弁護士として働いているので学部も畑も違うが、会って飲めば愚痴を溢すにしても思い出に花を咲かせるにしてもちょうどいい相手だった。
「で、どうした」
『お前に会いたいっていうクライアントがいたから紹介しておいた』
「は?」
ちょっと意味が分からない。
俺は渋々サンマを手放して身体を起こし、ナスのクッションを背中に敷いてからベッドに座った。
「紹介って、患者としてってことか」
『違う。どっちかってーと、医師同士としてってところだな』
守秘義務があるため詳しくは聞けなかったが、新しく病院を設立するクラアイントがいて、ゲンマの上司がその顧問弁護士を勤めることになったらしい。
契約のため居合わせたゲンマがちらりと俺の話をしたら、クライアントが食いつき。今日、その上司と共に当人が俺の家に来るというのだ。
「待て、今何つった」
『悪いな。今回のクライアント、せっかちな人なんだよ』
「おい、守秘義務」
『お前とは契約交わしてないだろ』
しれっとしやがってコノヤロウ。
前世で苦労かけた仕返しか。記憶はないけれど、魂は覚えていますってレベルでの仕返しなのか。
言い返そうとしたところで、呼び鈴が鳴った。ベッドから立ち上がり、玄関横のモニターを覗いて目を剥いた。
(嘘、だろ)
危うくスマホを取り落とすところだった。
返事がないのを不審に思ったゲンマが、俺の名前を呼ぶ。
『チヒロ、どうした』
「いらしたみたいだ。掛け直す」
通話を切って、インターホンを取った。
「……はい」
『こんにちは。不知火ゲンマの上司の波風ミナトで』
『ったく、回りくどいことを言うなミナト。
チヒロ!私を覚えてるなら開けろ!』
画面に映っていた金髪の男性を押し退けたのは、前世の美人上司で。
「忘れるわけ、ないじゃないですか……!」
ミナト先生。綱手様。
震える声でそう呼んだら、二人が画面の向こうで不敵に笑った。