掠れるのは声ではない



 最近、チヒロに避けられている。

「チヒロ、早番でしょ。一緒に出る?送るよ」
「あー、悪い。オレちょっと寄るところあるから先行っててくれ」

 なんてことはよくあるし。

「チヒロ」
「すまん。もう寝るわ」

 伸ばした両手が空振りすることは早十回を超え。

『今日のご飯は大丈夫です』

 遅番でも当直でもないのに、メッセージで夕飯を断って夜遅くに帰ってくる。

 最初は夜遊びかと思っていた。
 しかし、どこかの誰かの名刺も持っていないし。スマホの電話帳も増えていない。

 郵送されてきたチヒロのカードの請求書を確認しても、目立った出費はなかった。強いて言うなら、宝石店での決済が気になるが。

 (また変な女に貢いでるのか?)

 アイツは、今も昔も使うとしたら精々家賃と食費と公共料金、時々の煙草や雑誌。お金を使う時間がなくてほぼ使わないタイプだ。

 だから貯まっていく。

 前世ではそこに目をつけた女に引っ掛かって、強請られるまま金も物も渡していたことがある。いわば前科持ち。
 もっと悪いのは、本人に貢いでいる自覚がないということ。それを指摘したら、

「欲しがってるもの買ってあげただけだけど」

 それがなにか?程度の、カモ発言をしてのけた。

 一度出すと決めると、通帳の桁がサクサクと減っていくことに躊躇いがないのだから、本当にタチが悪い。

 (ミナト先生の家に行った時、もう少しナルトと一緒に責めてやれば良かったかな)

 ガイとオペの打ち合わせを終えて医局に戻ってみると、既にチヒロのデスクの上が綺麗に片付いていた。

「チヒロは?」
「のはら先生ですか?約束があるからって、今日はもうお帰りになりましたけど」
「約束?」

 医師から「はたけ先生もご存知ないことがあるんですね」と、意外そうな顔をされた。いや、そりゃああるでしょうよ。

「きっと、彼女さんですよー。この間、手の平サイズの可愛くラッピングされた小箱持ってましたもん」

 耳聡いナースがひょっこりと顔を覗かせた。

「え、のはら先生って彼女いるの?」
「はっきりは言ってませんでしたけど。
 彼女さんにですか?って聞いたら『好きな人にだ』って。
 本人曰く『憎いくらいに綺麗な人』らしいから。美人さんでしょ、きっと!」
「へー。やるなあ、のはら先生」

 ふたりが話しているのをどこか遠くに聴きながら、オレは白衣を翻して自分のデスクに腰掛けてパソコンを起こす。

 (チヒロの、好きな人)

『俺も好きだよ』
『好きだよ、カカシ。大好きだ』

 それなら。

 (どうして避ける)

 オレはお前と約束なんかしていない。
 『憎いくらいに綺麗な人』って誰だ。
 お前が彼らに話していた『好きな人』って誰のことなんだ。

 ドロドロしたものが腹の底から込み上げて迫り上がって来そうなのを、ぐっと無理矢理押し込んだ。




 夜九時。
 信号が黄色、赤に変わるのを見ながらブレーキを踏んだ。

 窓の外へ視線を移すと、淡い光を纏った街路樹が道行く人を照らしている。

 (イルミネーション、始まってたのか)

 腕を組んで歩くカップルや、手を繋いで歩く家族はもちろん。家路を急ぐ人も、それとなく見上げたり。写真を撮ったり。皆、その足取りはどこか浮かれているようにも見えた。

 信号が青に変わった。右に曲がり、車線を歩道寄りに変更した時だった。

「チヒロ」

 彼の背中を見つけた。
 そして、その隣に寄り添う、見知らぬ女性の背中も。

 (ああ、クソ……)

 オレはひとり、顔を顰めた。ハンドルを握る手がじとりと汗に濡れる。

 歩道を歩く彼。その追い越し際、女性を見下ろす表情は優し気で。

 楽しそうに、笑っていた。

「ッ!」

 オレはギリッと奥歯を噛んで、ハンドルを左に切った。車を車道の脇に停めて降りる。

 歩道へ上がって近付くと、オレに気付いたチヒロが瞠目して立ち止まった。

「カカシ?お前、なんでここに」
「なーに。オレに見つかったらまずかった?」
「は……?」

 困惑の色を浮かべる彼の隣を見ると、小顔の美人と目が合った。なるほど。確かに『憎いくらいに綺麗な人』だ。

 オレはチヒロの腕を掴んで、引き摺るようにして車へ向かう。

「おい、なんだよ?!」
「帰るよ」
「待てって!彼女送らないと」
「未成年じゃあるまいし。まだ九時でしょ。学生だって塾で勉強してる時間だーよ」

 言いながら、彼をそのまま車の助手席に押し込んだ。そしてオレは、ポカンとした顔で立ち尽くしている女性の元へ戻り、財布からタクシー代を出して言った。

「悪いけど、これでタクシーでも拾ってね」

 外面だけでもニコリと笑って、その手に握らせる。

 返事を待たずに踵を返して車に戻った。
 帰路を辿りながら助手席を見ると、チヒロは何も言わずに、ただ座席に沈んでいた。

 流れる景色を見つめるその表情は、やはり気まずそうで。それで、どこか悩んでいるようにも。哀しそうにも見えた。

 (どうしてそんな顔をするんだ)

 そんなにあの子の方が良かったのか。
 口を開けば、そんな馬鹿みたいな言葉しか吐き出しそうになくて。無言の車内で、オレは黙ったままハンドルをきつく握りしめた。




 マンションの地下駐車場に停めると、車の方が息苦しさに負けたようにオレたちを吐き出した。

 車体越しに目が合う。
 チヒロが何か言おうと口を開いたのが分かったが、オレはそれを振り切るようにエレベーターへ向かった。

「っ、待てよ!」

 呼び止められて肩を掴まれたオレは、逆にその手首を握って彼の身体を駐車場の壁に押し付けた。
 そして、無防備なその喉に噛み付いた。

「いッ!?」

 首の後ろ一つじゃ足りなかったんだ。

 口を離して、付ける。一つ、また一つと首元に紅い華を咲かせていく。

「カカシ……ッ!」
「チヒロが。
 お前が誰と会おうと、誰と過ごそうと、誰と寝ようとオレには関係ない。けどな」

 帰り道を。標(しるべ)を。

「お前が、オレのところに帰って来ないことだけは。どうしても耐えられないんだ……!」

 帰る場所を。
 分かると言うまで刻み込んでやりたい。

「待て、落ち着け!聞けって!」
「聞きたくない。どうせあの子のところに行く気だろ」
「は……」
「行かせる気は、ない」

 押し返そうとする力が緩んだ隙に、片手で両手ごと捕まえた。顔の脇の髪をその耳に掛け、首筋に口を寄せた時。

「ーーー教授の娘さん!」
「……は?」
「あの子!昔世話になってた、教授の娘さんなんだよ!」

 なんだよーーーなんだよーーーなんだよーーー………!

 チヒロの声が、誰もいない駐車場にエコーした。




「学部時に、教授に頼まれて娘さんの家庭教師してたんだ。大学受験のな」
「へー」
「彼女の入学後も、学部の勉強とか見てやってたんだよ。それが最近連絡が来てさ。
 彼氏へのクリスマスのプレゼント選び、手伝って欲しいって言われて。それであちこち買い物巡りしてただけ」
「そうなんだ」

 あの後。
 お互い何事もなかったように普通にエレベーターに乗って、普通に帰宅した。

 「夕飯たらスパでいいか」と聞かれて頷くと、鞄を置いたチヒロが袖を捲り、手を洗う。

 フライパンに水を入れて沸騰させ、塩と三分茹でるサラスパを投入。茹で上がったら麺をそのままに水だけ切り、オリーブオイルをぐるりと回して、たらこを入れる。

 弱火にかけながらたらこを解しつつ、火が通ったらマヨネーズと胡椒、刻んだネギを入れ、混ぜ合わせて完成。

 洋食シェフも青褪めるような作り方をする癖に、味は悪くないのだから全くもって皮肉なもんだ。

「じゃあ、なんで最近オレのこと避けてたのよ」

 向かい側に座っている彼の首。

 喉だから、流石に痕がつくほど強くは噛まなかったけれど。遠慮なく鬱血させたところは、当然、痕が残った。

 オレがそれをじっと見ていると、チヒロはあっけらかんと手を振って言った。

「職場なら気にするな。これくらいなら、リンが置いてったファンデーションで隠せばいいから」

 向こうは気を遣わせないつもりだろうが。

 気にも止めていない様子が返って気に入らないと思うのは、人生二周したところでオレがまだガキな証拠か。

 目の前のパスタを食べ終えてから当てつけるように斬り込むと、チヒロは飲んでいたコップを置いた。

「あー……ちょっと待ってろ」

 そして腰を上げて、自分の部屋に引っ込んだ。出てきた彼の手の平には、ラッピングされた小箱が乗っていた。それは恐らく。

『手の平サイズの可愛くラッピングされた小箱持ってましたもん』

 ナースが言っていた箱だ。

 チヒロは元の席に座り、それをオレの前に置いて言った。

「チョーカーの礼。まだしてなかったから」
「これ、オレの……?」
「お前の」

 予想外のことに、オレが小箱とチヒロとを交互に見ると、彼は据わりが悪そうに頬を掻いた。

「その……、お礼すると決めたはいいけど、どんなのがいいのか、分からなくてな。
 買ったは買ったで、今度はどう渡したらいいのか。分からなくて。気付いたらその……、なんか、避けてた」

 すまん、と肩を窄めて頭を下げる彼を見て脱力した。「なんか」で避けられ続けてたのか。オレ。

 しかも、プレゼントがオレのだったってことは、つまり。

「『憎いくらいに綺麗な人』って」
「カカシのことだけど」

 だろーね。

 だからどうしたという顔をされて、呆れと疲れが仲良くよろしくドッと押し寄せる。

「もう少し語彙力磨けば?男に綺麗ってなに」
「伝わればいいだろうが」

 オレどころか、誰にも伝わっていないこと知らないのかな、コイツ。……知らないんだろうな。

「だから、鈍いって言われるんだよ。馬鹿チヒロ」
「最近は言われてないぞ」
「日本人が慎ましいからでしょ」

 オレは一応断ってから、小箱のリボンを外した。

 現れた重厚な箱を開けると、そこには赤紫がかった輝きがふたつあった。
 鮮やかな煌めきを放っているそれを一粒摘み上げ、指の腹で転がして見るとスタッドピアスだった。

「髪乾かしながら、左耳上にピアス穴の痕を見つけたから。もしかして着けてたのかなって」

 確かに、アメリカ(向こう)で着けてはいた。医師になってからは、プライベートの時だけにして。そのうち自然と着けなくなり穴を塞いだ。

「その宝石な。太陽光に当てた時と、電球の下とで色が変わるんだよ。名前なんて言ったっけな、アレキサンドリア的な」
「アレキサンドライト?」
「そうそう、それ。
 試しに太陽に当ててもらったら、透き通った薄い緑青になってさ。見てたら、カカシを思い出したんだ」
「オレを?」
「お前の髪に似てるなと思った。ほら、カカシの髪って、昼間は太陽の光浴びてキラキラしてるし。夜は月の光を浴びて、浮かび上がるみたいに見えて綺麗だろ」

 なんでそういうことをサラッというのよ。

 わざわざ塞いだ穴をまた開けろって?とか。プレゼントのセンスないね、とか。言うつもりだったことは他にもあるのに。

 はにかみながら目を細めるその顔を見たら。言うつもりだった言葉も気持ちも、ただの嘆息になって空気に溶けて消えてしまった。

 オレはチヒロの手を取って、その平に持っていたピアスを乗せて握らせて言った。

「この箱のはオレがもらうから。こっちはチヒロにあげる」
「え」
「今、道具持ってくるから待ってて」
「待てよ。道具ってなんの」
「決まってるでしょ。ピアスホール開けるヤツ」
「俺も開けるのか」
「当たり前でしょ」
「どこら辺が当たり前」
「ま!こういうのは勢いだから」

 「マジかよ……」と、ピアスを握ったままポカンとしているチヒロを残し、オレは自分の部屋の机の引き出しを開ける。

 中から、ニードルと軟膏、ペンと消毒液。鏡。綿棒は洗面所に取りに行くとして。コルクと。ファーストピアスを取り出して抱えた。一式捨てなくて良かった。

 戻るなり、テーブルに道具を並べた。チヒロをテーブルに向かって座らせてから、左耳上の内側の平らな部分を指で擦る。

「ここでいい?」
「任せるよ」

 手を洗って部位を消毒し、ペンで印をつける。耳裏にコルクを当ててから、軟膏を塗ったニードルで一気に押し開けた。

「痛みは?」
「思ったより、全然。少しズキズキする程度。お前に噛まれた時の方が痛いくらいだ」

 凄いな、と感心されたけど。
 食んでたんだから、どこら辺が痛みに強いか弱いかくらい分かるでしょ。

 ファーストピアスを付けてやってから、今度はオレ自身も鏡を見ながら、自分の左耳にチヒロに開けたのと同じように施術した。

「今付けてるのは、穴が安定するまで外さないでおいて」
「ああ」
「一日に二回は消毒。もし痛みとか、気になるようなことがあったら皮膚科行くから言って。痛み止めとか化膿止め。紅に頼んで出してもらうから」
「分かった」

 ま。記憶のある彼女に知られたら、また呆れられるかもしれないけど。

 使った道具を片付けていると、ピアスを手の平で転がしていたチヒロが、おもむろに口を開いた。

「あのさ」
「なーに」
「ここ、お前と住めたらと思って借りたところなんだ」

 顔を上げたら、臙脂色の瞳とかち合った。

「だから、俺が帰るところはここ。どこにも行かない。お前がここにいる限り、俺は必ず帰ってくる。だから、お前もーーー」

 言いかけて。チヒロは、ハッと我に返ったようにその手で口元を押さえた。

「チヒロ?」
「……すまん。最後のナシ」
「なんで」
「必死過ぎた。かっこ悪い。忘れろ。消せ」

 目を逸らして立ち上がろうとするチヒロ。オレはそんな彼の腰に腕を回し、引き寄せて覆い被さった。

「ぐぇ」
「色気のない声だーね」
「うっ、せ……。つーか、お前最近遠慮ないけど、俺もそろそろ歳なんだから労れよ……」
「二十九の時に三十扱いするなって言ったのどこの誰」
「二十代と三十代違うの。お前まだ半ばだけど、俺四十見えてんだよ。今から腰やったらどうしてくれる」
「湿布剤出してあげるから心配しなくていーよ」
「薬の問題じゃねーよ」

 これで五十代超えたら、今度は年寄り扱いするなって言うんだから難しい。

 前世で腰やっちゃって余生大変だったんだから……あんな思いもう懲り懲りだ……、と俯してぐったりしているチヒロの身体を起こしてから、脚の間に座らせる。

「で、『お前も』なに」
「……」

 無言。
 うんともすんとも言わないチヒロの後ろ頭をじとりと見遣る。

 へー、ここまで来てだんまり決め込むんだ。ふーん。

 彼には耳も首も効かない。脇腹は可もなく不可もなく。残るは、ーーー足の裏。

 俺は腕を伸ばして左手でチヒロの右足首を掴み、右手で足の裏を擽った。

「ちょ?!あひ!?ひひひひひ!ひははははは!」

 チヒロは愉快な笑い声を響かせながら逃れようと身を捩るが、後ろから抱え込んでいるのだから逃げられるはずもなく。

 明るかった笑い声は、次第にひぃひぃと苦しそうになものになっていき。

「あ、は……、も、やめ……ッ」
「言う?」
「言、う」
「本当に?」
「ひうから……!」

 あっさり白旗を揚げた。

 チヒロは、片手でオレの胸元を引っ張りながら、笑い涙か苦し涙か分からないもので顔を濡らしていた。足を離してやると、息絶え絶えで身体ごとぐたりとこちらに寄り掛かる。

「し……、死ぬかと……思った……」
「笑い死にってありそう?」
「ある。死ぬ。つか、なんで他人事だよ……」

 お前がやったんだろうが、と呟かれたが、言わない方が悪いでしょ。

 チヒロは息を整えてから、オレの服を引っ張ったまま先程の続きを紡ごうとゆっくり口を開いた。

「これからも、ここに帰って来て欲しい」
「うん」
「どこにも行かないで欲しい」
「うん」
「でも、任せる……」
「うん?」

 どうして最後でそんなに煮え切らないことを言うのよ。

 オレが首を傾げると、チヒロは目を伏せてから歯切れ悪そうに言った。

「誰のとこにいるのか、なんて。強要するようなことじゃないだろ、こういうのは」
「強要ってほどのことじゃないでしょ」

 首に噛み付いたり、痕つけたり、チョーカー付けたり、抱き締めたり、ピアスホール開けたり、押し潰したり。
 あれ?オレの方が余程強要しているんじゃないか?と思ったが、それはまあ、好きだからの一括りにして頭の隅に追いやった。

 (そういえば)

 チヒロから強要ってほどのこと、されたことあったっけ。

 前世での命の押し付け。やり取り。
 思い返してみれば、あれ以外に何もない。

 お願い、とか。その類もなかった。強いて言うなら、命を返せないって言われたことくらいで。

 ずっと、受け入れられるばかりだった気がする。

「チヒロー、オレにしてもらいことってないの」
「……して、もらいたいこと?」

 オレの言葉に、弱気になっている臙脂色の瞳が、ゆるりとこちらを見上げた。

「ねーよ。お前がいてくれればそれでいい」

 それが、いいんだ。
 そう言い切る目元が、今にも泣きそうなくらいに優しく弧を描く。

 (本当に、お前は)

 オレは気付けば手を伸ばして、腕の中のチヒロを文字通り、力一杯抱き締めていた。

「ぐ、あ……!痛……ッ!」
「好きだ」
「分かった。分かったから体重までかけるな。頼む。重いッ!痛い……!」
「命以上に重いものがある?」
「ある!ここにッ!」
「ふっ、そうだね」
「そうだね、じゃねェよ!笑ってる場合か?!いたたたたた背骨!背骨折れるッ!」

 ギブ!ギブ!と言いながら背中を叩く手。

 オレは緩む口元をそのままに、ゼロ距離にいる彼の耳に返事を落とした。

「いるよ、ずっと」

 チヒロがオレを見つけて、ずっと寄り添ってくれるように。
 オレもまた、こうしてお前を手繰り寄せるから。

 何度でも。
 何度でも。
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