全反射の世界



 チヒロさんの家の鍵を回した。
 すっかり慣れた玄関。廊下を渡って、リビングの扉を開ける。

「チヒロさん、こんにちーーー」

 は、という最後のひと言は、いつかのように手土産と一緒に床に落とした。

「おー、早かったな。どうしたオビト」
「そっくりそのままお返しします」

 食んでいる。
 ノートパソコンのキーボードを弾きながら、顔だけをこちらに向けるチヒロさん。そんな彼を後ろから抱き締めて座っているカカシが、チヒロさんの耳を食んでいた。

「ああ、これか。気にするな、最近ハマってるみたいなんだよ。耳」
「あー、そうなんですね」

 いやいやいやいや。同調しておいてなんだが、全然分からない。耳にハマるってなに。
 耳にハマって食むってどういうこと。

「すまん。後二、三分くれ。これだけ纏めちゃうから」
「お、お構いなく」

 床に落ちた土産を拾い、テーブルに置いて、チヒロさんの向かい側に腰を下ろす。必然とカカシとも目が合うわけで。

 はむはむはむはむはむ。

 感情が読めない。口を動かしたまま、黒目がちの垂れ目に凝視されると言い知れぬ恐怖を感じた。

 はむはむはむはむ、がじっ。はむはむはむ。かじがじ。はむはむ。はむはむはむ。

 かじっ、らへんで「いてっ」とチヒロさんが顔を歪めた。ところが相手にする暇もないのか、そのままスルー。そして。

「っし!悪い。待たせた」
「い、いえ」

 まるでカカシの所業を気にする素振りもなく、「何飲む?コーヒーかココアか、紅茶。酒以外ならあるぞ」と顔を上げてオレを見る。

「なんでも大丈夫です」
「じゃあコーヒーにしておくか」

 チヒロさんが腰を上げると、カカシも釣られて立ち上がる。彼はカカシを背負っている状態で台所に向かい、やかんを火にかけた。

 食器や豆を取ったり、ちょこちょこ動いているのは分かるが、ここからだとカカシの背中しか見えない。

 (器用だな)

 感心通り越して、その許容力に舌を巻いた。
 あれだけ引っ付かれたら鬱陶しいと思うんだけど。

『どうしたの、オビトったら。ふふ、仕方ないなあ』

 いや。オレもリンに似たことしてたわ。苦笑しながらも普通に受けていれてくれてたっけ。のはら家の許容力ハンパない。

「はい」
「ありがとうございます」

 三人分のコーヒーと、ミルクに砂糖。
 お盆に乗せてやってきたチヒロさんの後ろで、カカシがそれらをさっさとテーブルに並べていく。そして、チヒロさんを抱えたまま定位置に着地した。

 自分の脚の間に座らせて、やっと落ち着いたと言わんばかりに、彼の首と肩の間にぐりぐりと頭を押し付ける。

「で、オビト。メッセージ見たけど、俺に話ってなんだ」

 やべえ、この人猛者だ。
 この状況でも顔色ひとつ変えずに、自分のコーヒーにミルクと砂糖を足して掻き回している。

「すみません、チヒロさん。その前に」
「うん」
「視覚情報が強烈すぎて話に集中できないので、後ろなんとかしてもらえると……」

 オレの方が音を上げた。
 ちょっと。同年代からしても、見ているこっちがキツイ。

 リンにゾッコンで、オレの息子にベタ惚れなチヒロさんに慣れたと思ったら、今度は残念なお前に慣れろってのか。勘弁してくれ。

「ほら、カカシ。それはオビトが帰ってからな」

 チヒロさんがそう言うと、カカシはオレを見てにこりと笑って告げた。

「今すぐ帰って」
「来たばかりの人間に何言ってんだお前は」

 チヒロさんはソファに乗っかっていた茄子のクッションを後ろ手で引っ掴み、カカシの頭をぽすんっと叩く。

「オレよりオビトが大事なの」
「今はオビトの話を聞く方が大事だな」
「やっぱり帰れ」
「話がだ、ってつってんだろーが」

 チヒロさんのお腹に回した手に力を込めるカカシ。まるでこちらを威嚇するような様子は、どうにも身に覚えがあった。

『えっとね、オビト。彼、今度私がメイク担当する俳優さんなんだ。
 だから、そんな恐い顔しないでね。向こうがびっくりしてたから』

 心の中で猛省した。
 オレ、側から見たらこんな感じだったのか。

「で、どうした」

 結局。現時点で互いに妥協した。
 耳も食んでいないし、頭も擦り付けていないのでこれ以上の贅沢は言わない。

 オレは姿勢を正してから話を切り出した。
 
「実はオレ、離島に転勤することになりました」
 
 チヒロさんは目を丸くし、片やカカシはじーっとオレを見て言った。

「飛ばされた?」
「う……」

 歯に衣着せぬ言い方に、頭を垂れた。

 平たく言えばそうだ。理由を端的に言えば、命令無視した。
 殺人事件だった。泣いていた遺族の涙が忘れられなくて。打ち切られた捜査を、勝手に続けていた。
 犯人を見つけて捕まえたはいいが、上からこっ酷く叱られた。

「実は、これが初めてじゃないんです。だからこれ以上は看過できないって言われて」
「ふっ、お前らしいな」
「リンと同じこと言うなよ」

 捜査したことを後悔はしていない。
 話を聞いたリンも、カカシのように「オビトらしいね」って言って笑ってたけれど。

「リンと息子を、一緒に連れて行こうか悩んでて……」
「リンはどうしたいって?」

 黙ってオレの話を聞いていたチヒロさんから静かに問われた。一度きゅっと唇を結んで、彼女に言われた通りに伝えた。

「『一緒に行く』って」
「そうか」
「でも、向こうに何年いるか分からない。戻れるかも定かではないし。リンの仕事はこっちにあるし。子どももまだ小さい。環境を急に変えるのもアレだし。
 それに、チヒロさんとリンが会えることだって、ぐんと減るだろうし」
「俺のことまで気を回すな。リンのことだけ考えろ」
「「え」」

 これにはオレだけではなく、カカシも面食らって腕の中にいるチヒロさんを見下ろした。

 あれだけリンのこと好き好き言ってたのに。それでいいのか。

 そんな二人分の視線を受けて、チヒロさんは据わりが悪そうな顔をする。

「あのな。俺だってリンを送り出すのに覚悟してないと思うか。公務員が転勤あるのだって知ってるよ。無理なら最初からお前にやってない。
 リンだって俺になかなか会えないことくらい分かってるだろ。子どもじゃないんだから。その上でお前について行くって言ってんだ。それなら俺が我慢するしかない。それに、俺がリンの立場ならーーー」

 仮に置いて行かれたところで、遅かれ早かれ相手のところ行くだろうからな。

 チヒロさんはそう言って、どこか罰悪そうに視線を外した。どうしてそんな顔をするのか分からず首を捻ると、カカシが思い出したように笑う。

「あー、そうそう。ちなみにチヒロの『行く』っていうのは、ガチめに『行く』ってだけだから。履き違えたらだめだーよ」
「は?」
「一泊もしないからね。片道十二時間かけた癖に、ちょっと顔見にきただけで蜻蛉返りとかいう、そういうオチだから」
「だああっ!蒸し返すな!お前に会うことしか考えてなかったんだよ、あの時は!」

『ごめんね、オビト。私、船待ってもらってるから帰らなくちゃ。元気そうでよかった。無理しちゃダメだよ。ご飯もちゃんと食べてね。じゃあね』

 なんだろう。目に浮かぶ。

「オビトに少しでもその気があるなら、リンと一緒にいてやってくれ。離さないでやって。頼むよ」

 チヒロさんの声は、どこか胸を打つような切なさを帯びていた。
 膝の上で手を握って深く頷くと、安心したように柔らかく笑ってくれた。

「特別に何かをする必要なんかない。
 人生振り返った時。本当に大切なものなんて、そう多くないんだから。
 住むところ着るもの、食べるもの。
 愛してる、好きな人と過ごした時間と。これから過ごして行く日常があれば、それだけでいいんだよ」
「あの、後ろが耳まで真っ赤になってますけど」
「気にすんな。なんか、昔もそうだった」
「昔?」
「変なところで照れるんだよな、カカシは」
「……照れてない」
「今になってもツボが分からん」

 まあ、確かに。
 面前で告白じみたことを言われるよりも、人前で耳食む方がよっぽど恥ずかしいと思う。

 犬でも撫でてるんですか、ってくらいにわしわしと撫でられるのになされるがまま。大人しくしているカカシは、擽ったくて、でも恥ずかしそうにそっぽを向いていた。
 それだけ見たら、まるで、兄と素直じゃない弟みたいなーーー

 (ああ、そうか)

 チヒロさんが以前言っていた。

『うーん、どうにもそれがしっくり来ないんだよな』

 違う。

 (しっくり来ないんじゃない。全て当てはまるから選べないだけなんだ)

 家族で。兄弟で。同僚で。友達で。命のやり取りする関係がどんなものか分からないし。恋人……、かどうかも微妙だけれど。

「もういいでしょ」
「オビトの前だからって、今更取り繕う必要ないだろ。減るもんじゃああるまいし」

 嫌なら振り払ってくれと悪気なくさらりと言ってのけるチヒロさんに対し、カカシは不満げな顔をした。

 そんなことができるならとっくにしている、とでも言いたげである。

「じゃあ、オレはそろそろ」
「うん、早く帰って」
「お前な」

 カカシは早速立ち上がって、そそくさとオレの背を押す。
 チヒロさんには「決まったら、また来ます」と手を振ったら、了解代わりに振り返してくれた。

「カカシ、お前らどこまでいってるんだ」

 廊下に出て玄関に着いてからこそりと耳打ちすると、カカシは「またコイツは何を言い出すの」とじとりとした目でオレを見た。

「どこもいかないよ。今まで通りに毛が生えた程度」
「マジで?ナニも?耳食んでる癖に?」
「ないってば。腕の中に閉じ込めて、匂い嗅ぐ方が断然満たされるからな」
「は」
「チヒロも、オレに寄りかかってる時が一番幸せだって」
「それ本人が言ってたのか」
「言うわけないでしょ」
「根拠は」
「上等のブランケットより、オレを選んでくれた」
「……」

 これをドヤ顔の大真面目に言ってのけるのだから、失笑ものである。

「強いて言うなら罵倒が足りないかな」
「罵、……なんだって?」
「バカカシ、って。昔はよく言ってくれたのに。最近はお互い丸くなったから。たまーにあのやり取りが恋しくなる」

 今度機会があれば引っ掛けてみよう、と誰ともなく呟くカカシに脱力した。

 (チヒロさん、大変だな)

 とはいえ、義兄もまたいささかズレているところがあるのでお互い様なのかもしれない。

「ま!誰がなんと言おうと、これがオレたち、というか。オレだから」
「そうかよ」

 降参の手を広げた。カカシに見送られ、オレはふたりの家を後にする。

 不意に鳴ったスマホ。
 画面には、この世で一番大好きで大切な彼女の名前があった。

「ああ、リン。あのさ、今夜伝えたいことがあるんだ」

 やっぱりついて来て欲しい。一分一秒でも長く、一緒にいたいからって。

 聞いたら君は、いつものように笑ってくれるだろうか。
 
 緩やかな風が、励ますようにオレの背を軽く押した。
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