真実に怯えるから黒くなる
カタン、と。
ノートパソコンが立てた抗議の音に、俺は目を覚ました。伏せていたテーブルから身体を起こすと、手元に散らばっている本と資料が目に入る。
「寝てたのか」
どうやら、論文を書きながら寝落ちしたらしい。声が掠れている。時計を見ると、もう夕方になっていた。
「ああ、起きたか」
ベランダを開ける音に振り返ると、乾いた洗濯物を抱えたカカシが北風と共に入ってくる。その寒さに目が冴えた。
「昼飯食ってからの記憶ないんだけど、俺何時間寝てた」
「三時間は寝たんじゃない」
やっちまった。
スライド作りもあるから、今日中に論文は上げようと思ってたのに。
「切羽詰まってるなら手伝うけど」
「大丈夫。最悪、当直の時にやる」
「ココアでも淹れるよ」
「ん」
洗濯物をソファに置いて、キッチンに向かうカカシ。
俺はデータを確認してから再度保存し、USBを抜いてパソコンを落とした。
どうせ休むなら休んだほうがいい。大事なのは諦めという名のメリハリ。
ぐっと背伸びをして、胡座をかいた。ソファの上の服を引き摺り下ろして、足の間に乗せから畳んでいく。
最後の一枚を片したところで、目の前にマグカップが降りてきた。
「はい」
「ありがと」
湯気立つそれを両手で受け取ると、触れた指先から温かさがじわりと伝わってくる。俺はカーディガンの袖を伸ばして、それを包み込むように持った。
(背中が寒い)
ソファに座るカカシをチラリと見遣る。
「なあ、カカシ」
「ん?」
ココアを飲みながら「どうかした」と問いかけてくる目。口を開いたはいいが。
(……あれ、俺これなんて言ったらいいんだ)
言葉に困ってそのまま閉じた。
「チヒロ?」
「あー……なんかさ。肌寒くないか」
「そう?なにか掛けるものいる?」
「あ、ああ」
カカシが自分の部屋から持ってきてくれたブランケットを受け取り、肩にかけてすっぽり包まる。そして彼と同じようにココアを啜ってみるが、どうにもこれじゃない感がひしひしとする。
(カカシの体温が欲しい)
『それって、普通に好きってことなんじゃ……?』
「ゲホッ、ゴホッ!」
突如オビトの言葉が頭を過り、思い切り咽せた。
(あの野郎、変なこと言いやがって)
違う。変なのは俺の方だ。
旅行の時。夕暮れの景色を見たあの時から、小さい棘みたいのがずっと胸に刺さってる。
口に残るココアのほろ苦さを、唾と一緒に飲み下した。
「チヒロ、口開けて」
「あ?むっ」
俺と向かい合うように座ったカカシに言われるまま口を開けたら、白いふわふわしたものをぽいと放り込まれた。
(マシュマロ?)
カカシがカップを持って飲む仕草をするので、マシュマロを咀嚼しながらもう一度飲んでみた。あ、ちょうどいい。つーか普通に美味い。
「溶かして混ぜたら砂糖入れるより飲みやすいよ」
「へえ」
これは新食感。
感嘆すると、カカシがにこりと笑った。
「ま!オレは苦いほうが好きだからやらないけど。子ども舌のお前には合うかなって」
「誰が子ども舌だ、誰が。甘いもんは甘いままのが好きなだけだっつーの」
何がそんなに楽しいのか。
やけに上機嫌なカカシの様子に、悩んでいる自分が馬鹿らしく思えてきた。
オレはブランケットを外して抱えて立ち上がり、カカシの脚の間に背を向けて座る。
嫌なら振り払うだろうと開き直って、その身体に凭れかかった。
(ぬくい)
やっと伝わる温もりに、ほっと息をつく。
ふと。
後ろ首に貼っていたテープが剥がされ、代わりに帯状のものがくっと首に巻き付いた。伸ばしている襟足を上げて触れると、レザーの手触りがした。
「なにこれ」
「チョーカー。この間の傷が隠れるように、幅が太めのものを選んだ。大丈夫そうだな」
「院内はともかく。髪伸びるまでとはいえ、いつまでもガーゼで隠すわけにもいかないでしょ」と言われて小さく礼を伝えた。
棘の正体を探るうちに、前世で右脚を失った日の夢を見た。死んでもいいと思った。でも、死ねなかったあの時。
泥の中を這ってでも、カカシと共に在りたいと願った。他の誰でもない、俺自身の願い。
カカシの側に居場所を感じた。側にいたいと思った。彼の幸せを願いながら。少しでも長く。
(愛しているから)
それで済むと思っていた。実際、それで済んでいた。ずっと変わらないものだと思っていた。
(それなのに)
カカシのことは前と変わらず大切だと言える。側にいたいし、愛しているとも言える。
言えるのに。前世より今の方が、側にいたい気持ちが、もっとずっと強くなっている。
懐古している姿を見ているだけで、どこにも行かないで欲しいと縋りたくなるほどに。
カカシの温もり。声。腕。存在。全て。二度と手放したくないと思う。
(これを愛と呼んでいいのだろうか)
恋のように甘いものでも苦いものでもない。あの時に感じた愛とも違うならば。
これは一体なんだんだ。
息苦しさの先に、何かを掴みかけて目が覚めた。
カカシが泣きそうな顔で俺を見下ろしているのを見て、また傷付けてしまったのだと気が付いた。首の痛み、それ以上に胸が痛んだ。棘よりもずっと。
オレは投げていた膝を曲げて三角座りにし、ブランケットを広げた。カカシの脚も被せて、口元まで引っ張る。
(好き)
前世では、胃で引っ掛かってもたれていたあの言葉。
オビトに違うのかと問われた言葉を口の中で転がした。
リンのことは好きだ。
妹だし、可愛いし、可愛いし。ひたすらに可愛い。
オビトのことも好きだ。
たまに余計なことを言うことがあるけれど。素直な性格は見ていて気持ちがいい。
ゲンマのことも好きだ。
気付いて声掛けてくれて。肝心な時にいつも諭してくれる。
ミナト先生や綱手様のことも好きだ。
ミナト先生にはリンのこともあってお世話になったし、綱手様は厳しいけれど医療人としても人としても尊敬している。
(カカシはーーー)
何を理由にしてもしっくり来ない。これだから好きなんだ、と言うことができない。
ブランケットの中で膝を抱えると、カカシが前屈みに体重をかけてくる。
「カカシ、重い」
「んー?」
「んー、じゃねーよ」
くっそ。退けられない。押し返すのは諦めた。
何気なく隣にいてくれる。その優しさに逃げるように、俺は瞼を落とした。