歪曲のスカーレット
※Xのフォロワーさん主催の冥冥夢合同誌「誘惑」に寄稿させていただいた作品の再録となります。


 「ふふ、動揺しているのかな。君はいつも可愛い反応をするよね」

 だから飽きないんだ、と冥さんが笑った。握り締めていた手はそっと解かれ、手の甲を上にするように返される。ベージュのエナメルで彩られた指先が私の薬指にある銀色の輪っかを撫でて、かり、と引っ掻くように指をかける。そのままゆっくりと指輪が引き抜かれる様子を私は呆然と見ているだけしかできなかった。肌見離さず身に付けていたものが無くなったからか、指先に久しく血が通ったような感覚がした。

「こんな粗末な指輪より、名前にはもっといい物をあげる」

 冥さんのかんばせがまた近付く。おおよそ同じ人とは思えない美しい顔を歪め、薄らと微笑む様子は捕食者の舌なめずりのようだ。

「め、冥さん」
「あらかじめ言っていた筈だよ。強引な手段だって」
「冗談ですよね。私達、女同士……」

 だから、と続けようとした言葉は音になることなく飲み込まれる。私の口か、冥さんの口か。きっと誰にもわからない。
 ――恩人で師匠で、良き先輩である冥さんと何故こんな展開になってしまったのか。原因を探るために、昨晩からの記憶を手繰り寄せる。
 

 □
 

「男ってホンット、サイテー……」

 ガン、と机に置いたグラスがけたたましい音を立てる。怒り心頭とはいえ店の備品に当たるつもりは無かったのだが、無意識に力がこもっていたらしい。
 対面に座る歌姫先輩が「行儀悪いわよ」と窘めてきた。歌姫先輩の台詞は最もなのにその正論すら耳障りに聞こえて、わざと返事をせずに通りすがりの店員を呼び止める。空になったジョッキを差し出し次の注文を伝えると店員はにこやかにオーダーを繰り返した。

「名前、歌姫先輩に失礼だろ」
「今日は見逃してあげるけど、明日から他の人にそういう態度取っちゃだめよ?」
「……わかってます。今のわたし、超最悪」
「あーもう泣きそうな顔するんじゃないの。こっちがいじめてるみたいじゃない」

 感情があっちこっちに散らばって、先程まで全身が燃えるんじゃないかってくらいに怒っていたのに今は途方も無く悲しい。

「何年付き合ってたんだっけ?」
「……六年……」
「で、例のクソ男は恋人との六年と浮気相手との二年をかけて二年を取ったと」
「馬鹿な男ねぇ」

 女友達の良いところは、どんな時でも私の味方でいてくれるところだ。
 ……私は良い彼女じゃなかった。職業ははぐらかすし、前もって決めていたデートより仕事を優先するし、突然長期の出張に出ることもあった。それでも別れ話を切り出されなかったから、そんな私のことを受け入れてくれているのだと思って――相手のことを省みることなく、甘えきっていた。その顛末が昨日のことである。
 二人で借りた家に出張から帰ると玄関には知らない女性ものの靴、中には恋人と靴の持ち主と思しき女、開口一番に「誤解だ」の三文字。なにが、と吐き出した自分の言葉は片言じみていたと思う。
 話し合おうと言われて一度は席についたものの、聞くに耐えない言い訳ばかりされて十分も座っていられなかった。
 キーケースから外した合鍵を投げつけ、出張の帰りキャリーを引きずって家を飛び出す。幸い必要なものたちはキャリーの中に揃っているし、あの家に置いてきたものは後で送らせればいい。もしもあの女が使っていたらと考えると捨てても良い気がしてきた。とにかく、話し合うまでもなく私達は終わっていたのである。

「気持ちが離れたんなら関係終わらせてから手出しゃいいのに」
「そういうのわからないんじゃないですか? 馬鹿だから」
「……あんまりバカバカ言わないでください。昨日までは好きだったんですから」

 私の言葉に歌姫先輩が目を丸くし、硝子は眉間にシワを寄せる。当たり前だ。浮気男を庇うとか、頭がおかしい。

「……思った以上に重症みたいね、この子」
「そうですね」

 二人の言う通り重症だと思う。罵倒してこき下ろして、さっさと過去にしたいのに六年の思い出が邪魔をした。忘れたい。早く忘れないと、頭がめちゃくちゃになりそうだ。運ばれてきたアルコールを後先考えず一気に呷る。ふわふわとした酩酊感だけがささくれた気持ちを受け止めてくれる。

「名前、そこまでにしておきな」

 誰のものかもわからない言葉が頭に溶ける。もう前も後ろも、上も下も何もわからない。浮遊感に包まれた意識の中、最後に覚えていたのはムスクの香りと気遣わしげに背中を撫でる感触だった。
 
 眠っているが、意識は覚醒している。とろりとした頭の中に昨日の出来事が蘇る。家を飛び出してしまったから、どこかホテルでも取ったんだろうか。それか歌姫先輩から硝子の家。彼女らの家にこんな広いベッドはないから、きっとホテルだ。心地の良い微睡みを揺蕩いながら思考を巡らせる。
 もう一眠りしようと寝返りを打つと頭の奥が軋むように痛み始めた。……あぁ、これ二日酔いだ。あれだけ飲んだのだから当然っちゃ当然か。水でも飲もうと起き上がり、初めて自分が眠っていた部屋を認識した。
 瀟洒にまとめられたインテリアに一人では有り余るくらい大きなサイズのベッド。硝子の部屋どころか、ビジネスホテルでもなさそうだ。酔った勢いで上等なホテルのスイートでも取ったんだろうか。昨日は相当酔っていたからありえない話ではない。
 いまいち状況を読み込めずにいると、寝室の外に繋がるであろう扉が開いた。歌姫先輩か硝子か、現れたのはその二択から外れる予想外の人物だった。

「……、冥、さん?」
「おはよう。よく眠れたかな」

 たっぷりとした髪の隙間から冥さんがにこりと笑う。任務の時に身に着けている夜闇を思わせる装束とは異なったクリーム色のワンピースが彼女の印象を塗り替えていた。

「お、おはようございます……」
「うん。元気そうでなにより」

 元気、と言える程の体調ではない。頭は痛いし、飲み過ぎで全身が浮腫んでいるだろう。それに加えて気分もずっしりと重かった。

「昨日歌姫から近場で飲んでるからどうかって連絡を貰ってね。顔だけ出すつもりだったのだけど、君が気持ちいいくらい潰れていたからこちらで引き取らせてもらったんだ」

 ミネラルウォーターを手に持たされる。髪を撫で付ける手つきがいつもより優しい気がした。
 私の自意識過剰じゃなければ、冥さんは他の術師よりも少しだけ私のことを気に掛けてくれている。私が術師になるきっかけが冥さんのスカウトだったこともあるのだろう。師弟関係とまではいかないけれどそれなりにつきあいがあり、術師としての身の振り方から私生活に至るまで色々とお世話になっている。
 もちろん、受けた恩は出世払いの名の元にしっかりと徴収されているのだけど。

「すみません、冥さんだって暇じゃないのに」
「いいんだよ。後でしっかり返してもらうから気にしないで」

 ベッドに浅く座った冥さんが親指と中指で輪を作る。清々しい笑みを浮かべる彼女からはバラエティ番組でよく使われているお金のSEが聞こえてきそうだった。一先ずタクシー代にホテル代、介抱代まで含めるといくらかかるのか。特に一番最後のやつは冥さんのさじ加減で決まるので、つけられるであろうゼロの数に背筋が震えた。

「怯えることはないさ。知ってるだろう? 君には特別甘いんだ」
「でも冥さんそう言っていつもむしり取っていくじゃないですかぁ……」
「貸しはきっちり回収するタイプだからね。私は」

 例え親交のある相手からも取れるものを取っていく。冥さんらしい考え方だ。

「シャワーでも浴びてくると言いよ。見えていないだろうけれど、寝癖すごいよ」
「……そうします」
「着替えはある?」
「キャリーの中に予備があります」
「そう。ゆっくりしておいで」

 使われた痕跡のないバスルームに足を踏み入れた。ぬるいお湯を浴びていくとひどかった頭痛がいくらかマシになる。後で水分もたっぷり摂らなければ。
 そういえば、右手に奴から貰った指輪をつけたままだったような。恐る恐る視線をずらすと見慣れた形のリングが鎮座している。引いた頭痛がひどくなった。なんでこれも鍵と一緒に置いてこなかったんだろう。指から外して排水口にぶち込みたくなる衝動を堪えながらため息をついた。名前の刻印が入った指輪は安く買い叩かれるのが相場だろうから、あとで欠片も残らないほどにしてこの世界から抹消させてやる。
 シャワーを浴びていくらかスッキリした頭で朝食を摂る。冥さん曰くチェックアウトまではまだ時間があるとのことだ。私は体調が整うまでゆっくりしていたいし、冥さんも今日はオフだからと部屋に留まっていた。なんだか三日目の旅行の朝みたいだなと思う。

「名前が正気を失うまで飲むなんて珍しいね」
「正気じゃいられなかったもので、つい」
「彼女達がとても心配していたよ。あとで連絡するように」

 端末のロック画面に列なっている通知は歌姫先輩や硝子の名前ばかりが並んでいた。スクロールを何度か繰り返した後、ふと通知をなぞっている指が無意識にあの男の名前を探していることに気付く。昨日の今日で未練があるのは仕方ないとして、浮気男からの連絡を欲しているなんて流石にどうかと思う。……私って意外と女々しいのかもしれない。

「……あの、依頼料は必ずお支払いするので記憶操作の術式を持っている術師もしくは呪具を探していただくことは可能でしょうか」
「構わないけど、相当の時間は掛かるよ」
「ずばり、見積もりは」
「最短三ヶ月。捜索の範囲を広げるとなると年単位になるだろうね」

 最も、そんな便利な術式があるなら高専側が手元に置いているだろうけど。そう言って冥さんは口元に笑みを結ぶ。要するにそんなモンはねぇ、という返事である。

「はー……」
「相当参っているようだね」
「そりゃまぁ、愛がなかったら六年も付き合ってないし。あんな男でも昨日までは好きだったので」

 浮気されたショックの傷が想定よりも大きい。初めての彼氏ってわけでもないのにやばい、あんな男に執着しているみたいで凄く嫌だな……。

「そんなに忘れたいのなら、私が忘れさせてあげようか」
「……出来るんですか?」
「勿論。強引な手段にはなるけれど」

 頭の中にショック療法の言葉がよぎる。こんな職業だから並大抵の衝撃じゃ忘れられなさそうだけど。是非お願いしますと頷いた私に冥さんがぐっと距離を近付ける。心臓がどきりと跳ね上がるのと同時に品の良い香水が鼻腔を擽った。

「ふふ、動揺しているのかな。君はいつも可愛い反応をするよね」

 だから飽きないんだ、と冥さんが笑った。握り締めていた手はそっと解かれ、手の甲を上にするように返される。ベージュのエナメルで彩られた指先が私の薬指にある銀色の輪っかを撫でて、かり、と引っ掻くように指をかける。そのままゆっくりと指輪が引き抜かれる様子を私は呆然と見ているだけしかできなかった。肌見離さず身に付けていたものが無くなったからか、指先に久しく血が通ったような感覚がした。

「こんな粗末な指輪より、名前にはもっといい物をあげる」
 冥さんのかんばせがまた近付く。おおよそ同じ人とは思えない美しい顔を歪め、薄らと微笑む様子は捕食者の舌なめずりのようだ。

「め、冥さん」
「あらかじめ言っていた筈だよ。強引な手段だって」
「冗談ですよね。私達、女同士……」

 だから、と続けようとした言葉は音になることなく飲み込まれる。私の口か、冥さんの口か。きっと誰にもわからない。

 
 □
 

「別れたんだって?」

 人の口に戸は建てられないと言うけれど一体どこが出処だ? 歌姫先輩や硝子が言い触らすとは思えないし、この男が私の恋愛沙汰を積極的にリサーチしてるとも思えない。熱々のお茶を引っ掛けてやろうと無意識に前に出していた右手を引っ込める。

「どっから聞いたの、ソレ」
「若い補助監督たちが噂してたよ、ずっとつけてた指輪してないってさ」

 指輪の有無で噂が立つのか。その若い補助監督たちの言う通り、実質交際解消だから別れたという解釈は正しい。間違った噂を流されるより確かな情報を流された方がよっぽど精神衛生に良いので、特に訂正するつもりもない。ついでに私のことを好きな素敵な殿方がフリーの噂を聞き付けて口説きに来てくれれば一石二鳥だ。

「あーあカワイソ。めちゃくちゃ尽くしてたのにね」
「五条に人の気持ちが理解できるとは到底思ってないけどもうちょい言葉選びってモンがあるでしょ」
「慰めてほしいなら最初からそう言えっつーの。察してちゃんだからフラれたんじゃないの?」
「アンタに慰めてもらうくらいなら電柱にでも抱き着いた方がまだ有意義」
「二人とも医務室で騒ぐなよ」

 五条と二人で占領した作業台の後ろ、ノートパソコン等が設置されたデスクに座っている硝子が振り返る。いつもより数段深く刻まれたクマに加えて舌打ちのおまけ付き。相当苛立ってるらしい。

「五条にナマエを励ましたい気持ちがあるのはわかったらもうちょい言葉選びな」
「嘘、アレを励ましてるは無理あるでしょ」
「隠しててもわかっちゃう? 僕の細やかな気遣い」
「アラサーなんだから舌出すのやめろよ。腹立つ」

 舌を出してカワイコぶっている五条の横っ面を何とかしてやりたいな……と考えていると、硝子が思い出したように「そう言えば」と呟いた。

「冥さんに引き取られたあと大丈夫だった? あのとき結構飲んでたから」
「そりゃもう大、……」

 大丈夫、そう言おうとした瞬間に例のホテルで冥さんからキスされた時の記憶が鮮烈に蘇った。感触とか匂いとか、そういったものがついさっきの出来事のように体にフィードバックされ、言葉を詰まらせる。アレのお陰で元カレの件は大分忘れた、というか衝撃が大き過ぎて完全に上書きされている。忘れさせてあげようか、という彼女の言葉は概ね達成されているが、それにしたって。

「え、何その反応。もしかして冥さんに食われちゃった?」
「は!? ばっ馬鹿、ヘンなこと言わないで」
「へー。いいじゃん冥さん。高身長高収入と……後なんだっけ」
「冥さんと恋愛とかぜって〜無理だろうけどな。あの人ヒトのカオが金に見えてるし」
「冥さんとはそういうアレじゃないから、ホントに」

 本当に冥さんは師匠で仕事仲間で、恋愛対象として見たことは一度もないのに。キス一つでこんなに意識してしまうなんて、人間って単純だ。それに私が冥さんに恋愛感情を持ったとしても五条の言う通り冥さんはお金が全てな人だから、きっと好きです! と言えば小切手にいくつゼロを書けるか試される顛末しか見えない。

「つーか明後日の任務、名前と冥さん随伴だったよね」
「あっ、」
「ホレ見ろやっぱりヤられちゃった女の反応じゃんこれ。ねぇ女同士ってどんな感じ?」
「だから違うんだってば」
「そういう話はヨソでやって」

 品のない話へ転がそうとする五条の脇腹を硝子が突いた。お得意の無下限呪術で防いでいるくせに「わー痛い」などと吐かしている。

「因みに硝子はどっちに賭ける? 僕丸め込まれるに一票」
「賭けにならないだろ。名前の意志薄弱っぷりじゃ九分九厘流される」
「私にも冥さんにも無礼だと思わないわけ?」

 顔を見合わせた硝子と五条は、二人で声を合わせて「思わない」と言い切った。

 
 □

 
 某日高専ロータリー。気持ちの整理がつかないまま冥さんとの任務の日を迎えた。待ち合わせ場所で色々考えていると、「名前」と今まさに私が悩まされている人物の声が聞こえる。
「う、っわ! 冥さん、今日はよろしくお願いします……」

 任務の内容は呪物の回収。いたってシンプルな内容だった。一級術師に準一級術師が選ばれた理由としては、一般家庭から発見された呪物のため封印の状態・呪いの性質が不明であること、場合によっては祓いを行う必要性があるためとの理由だった。二人で任務へ向かうことに不満はないけれど、この間の出来事があるせいで若干気まずい。遅れてやってきた補助監督も私が匂わせる気まずさの空気を感じ取ったのか、彼は比較的おしゃべりなタイプなのだが移動中も含めて事務的なこと以外の一切を喋らなかった。こういう時にこそ喋ってほしい。
 
 高専から東に車を走らせること一時間、今回の任務地となる下町の古道具屋へ到着する。依頼人となる女性店主と簡単な事務手続きを行った後、呪物を見つけたという屋根裏へと案内された。戦闘になった場合、大物を振るう冥さんは不利なので一先ず私が先行して呪物の状態を確認する。木製の箱に物々しい札が貼られており、前回きちんと封印されていたのであろう痕跡が残っていた。現在の店の主である女性はこの呪物について知らないと話していたし、入手の経緯は骨董品として出された呪物を先代の店主が入手したってところだろうか。幸いにも下手に封印が弄くられることもなかったようで、ほころびも無く維持されている。

「冥さん。回収で済みそうです。」
「わかった。何かあったら都度報告するように」

 通話は切らず、スピーカーモードにした端末を傍らに置いて呪物の再封印に取り掛かる。最初に封じた術師の腕が良かったのか、多少呪力が漏れて下級を引きつけている程度だった。影響もこの建物の中くらいだろう。彷徨いている雑魚呪霊たちも呪物が撤去されればあちらこちらに散らばっていくはずだ。
 わざわざ一級準一級二人で出向くような任務じゃないなと思いながら呪物を封じるための式を結んでいく。

「優秀な弟子を持つと仕事が楽でいい」
「楽だとお金にならないから冥さんとしては損になるんじゃないですか?」
「もちろん報酬が増えた方が得ではあるけれど、出来た時間を愛弟子との触れ合いに当てられるからね。これも十分なリターンになると思っているよ」
「な、なるほど……?」

 冥さんの言葉にきっと深い意味はないだろうに、顔に熱が集まってきた。接し方に大きな変化があったわけでもないのに、今日はやけに冥さんの言葉の一つ一つが私の羞恥心を煽る。ゆるりと向けられる眼差しもつやつやの唇も、何でもないものとして見ていたそれらが私の心を焼いている。
 
 無事に呪物の回収を終えて高専へ戻る道中、冥さんから「今晩時間ある?」と聞かれた。バックミラーに写った私の顔は困った様な焦った様な、それらがまぜこぜになった表情を浮かべているのに対して冥さんは柔和な笑みを刻んでいる。

「目黒に気に入っているバーがあるんだ。名前さえ良ければどうかな」
「……因みに参加者は」
「君と二人だよ。生憎と歌姫たちは捕まらなくてね」

 二人で飲みに出掛けることは今まで何度もあったことだ。この後はスケジュールも空いているので断る理由もない。すぐに首を縦に振れない理由はただ一つ、この間のホテルの出来事だけだ。冥さんの顔を見ているとキスのことを思い出しそうで直視できない。

「いや、このあとは、用事があって……」
「そう? 付き合ってくれたらこの間の貸しはチャラにしようと思ったのだけど」
「……この間の、とは」

 結わえられた三つ編みの隙間からアンダリュサイトの瞳が覗く。すっと上がった冥さんの左手が何やら不穏な様子で指折り数え始めた。指は数回の往復を繰り返した後に私の前へ二本掲げられる。

「前にキミと宿泊したホテル代やその他諸々についてだけど、今は利子がついてちょうど――」
「お、お付き合いします! したいです!」

 丸め込まれるに一票。九分九厘流される。
 友人たちののんきな声が脳内にこだまする。

 
 待ち合わせの時間となり、駅前の広場で冥さんを待つ。時刻はちょうど十九時を過ぎたあたりで、会社帰りと思しき人の姿も多い。やがて、人混みの中ではよく目立つ銀繻子の髪を揺らす女性の姿が見えてきた。冥さんだ。
 片方へ流すようにゆったりとした三つ編みを結わえており、耳元には品のあるアクセサリーが光っている。彼女の顔がいつもより遠く感じるのはきっとヒールの高さのせいだろう。手を上げて冥さん、と呼ぶとこちらに気付いた彼女と視線が交わった。

「待たせたね。行こうか」
「ここから歩いていけるお店なんですか?」
「ああ、前に歌姫と来た場所でね。名前も気に入るだろうから連れて行ってやれと言われたんだ」
「歌姫先輩が、なるほど」
「会員制のバーなんだ。個室もあるから仕事の話もしやすいよ」

 駅前からほど近いテナントへ入り、階段で地下へ降りた。階段の先には看板の出ていない扉が一つ。合法の店なのか? と思うような黒塗りのそれを冥さんが叩く。少しの間をおいてウェイター風の顔を出し、彼は冥さんの顔を一瞥すると何も言わずに私達を中に招き入れた。洒落て落ち着きのある内装の中、カウンターに並べられた日本酒の瓶が浮いた雰囲気を醸し出している。お酒の中でも日本酒好きな歌姫先輩のおすすめだと言うのも頷ける。
 手前のカーテンを引けば個室になるボックス席へ通され、私と冥さんはそれぞれカクテルと軽食を注文する。

「ノンアルか。珍しいね」
「酔うとまたご迷惑をおかけするかもしれないので、一応……」
「それは残念。また可愛い君が見られると思ったのだけど」

 そう言って口元に笑みを浮かべた。酔っているところを可愛いと形容されたのはこの二十数年の人生で初めてのことで、「そ、そうですか」と言葉を詰まらせながら彼女から目を逸らした。またしても気まずい。恐らく、私だけが一方的に。
 それから間もなく注文したドリンクが運ばれて来て、グラス同士を触れ合わせた。幸いなことに一緒に注文した軽食もすぐに運ばれてきたので、食事に意識を向けながら何気ない会話を展開させる。
 そうやって私ばかりが話す形で一時間が経った頃、冥さんがふぅ、と息をついた。どうかしたのだろうかと様子をうかがう。そして「今日は来てくれて良かった」と柄にもないことを言い出すので、私は呆けた声を出してしまった。

「あの件以降、君に避けられている気がしたから話がしたくて。少し強引に誘わせてもらったんだ。悪かったね」
「そんな、冥さんは悪くないです。あの、ちょっとビックリしたというか、気持ちの整理がつかなくてですね……」
「嫌だった?」

 主語のない会話だが、きっと想像しているのは同じものだろう。無意識に唇へ左手を当てていたことに気付き、その手でグラスのふちをつついた。……嫌じゃなかった、けど。嫌じゃない理由を私はまだ理解出来ていない。

「名前は私のことを好きなのかと思っていたよ」

 好き、という言葉にビクリと肩が震えた。冥さんのことは尊敬しているし、恩もある。迷うまでもない。

「……好きですよ? 勿論」

 師匠として、と心の中で後付する。どうかそういう意味の会話であれと思いながら。だが、そんな願いも次の言葉でバッサリと斬り捨てられてしまう。

「なら良かった。私も名前のことが好きだよ。恋愛的にも、性的にも」
「せっ、冗談ですよね、まさか」
「回りくどいのは嫌いなんだ。結構わかりやすくアプローチしていたつもりだったのだけど、信用されすぎるのも疵だね」

 私の好意は信じてもらえていないようだけど。
 思い込みだろうけど、言葉に圧を感じる。目も笑っていないように見えて、本能的に退いた体が背もたれのシートに当たった。

「……私よりも強い術師はたくさんいます。それにお金だって、沢山は持ってません。冥さんに好きになってもらう理由がないですよ」
「君は理屈で恋愛するタイプでもないだろうに、何故そんなことを?」
「冥さんが見返りのない無意味な行為をするとは考えられないので」
「見返り、ね。確かに私は金儲けが好きだし、無価値なものを好んで所有する趣味もない。ただ、それは全て私の指標に基づいての行いだ。路傍の石も蒐集家に渡れば値が付くし、時代を辿ると山ほどの紙幣が紙くずに成り下がったこともある」

 冥さんが語る石ころも紙幣も、私から程遠いものだ。誰かに好かれる珍品でなければ多くの人に求められる有用性もない。途方も無い例えに呆けていると、ふっと顔を綻ばせる。花が咲くような笑みではないけれど、雲の隙間から顔を出した月みたいだと思った。見た人の気持ちを丸くさせる、そういう微笑み。照明が頬に落としている睫毛の影がぱちりと瞬く。
「私はナマエに対してカネ以上の価値を見出しているってことだよ。こう言えばわかりやすいかな」
 長い付き合いだからこそ殺し文句だとわかる言葉だった。お金より大事だよ、なんて普通の男に言われたら何を言ってるんだと言いたくなる言葉でも、金に換えられない物に価値はないとチャーミングな笑顔で言い切ってしまう彼女が発したならそれは大きな感情を秘めたものとなる。言葉の中に秘められた好意の重さを理解して、頭の中がじくじくと熱くなった。どうしよう、私いま泣きそうになってる。

「君に想い人が出来たと聞いたときは身を引いたさ。それに、可愛い弟子として手元に置いておくだけでも十分満足だったよ」

 しなやかな指先がとん、とグラスを叩く。表面にまとわりついた水滴が玉になってコースターへ滲んだ。
「でも、思いがけずチャンスが巡ってきたものだから傷心の君に付け入ることにした。もう横からかすめ取られるのはごめんだからね」
「……つまり冥さんも誰かを好きになったりするってことですか?」
「誰か、というよりも名前だけ、が正しいかな」

 私が冥さんの唯一になるなんて、どんな罪よりも許し難いことだ。烏滸がましいとさえ思う。でも、私は差し出された誘惑に抗う術を一つだって持っていない。

 
 □
 

 引っ越しを始めとした様々な手続きに追われている内にあっという間に二週間が経過した。新居は高専内の独身寮。すぐに入居できたのはありがたいのだが、任務を振られる頻度が明らかに増えている。また一つ都合のいい人間の階段を上がってしまったような気がした。

「で、付き合ったの?」
「……、……言わないと駄目? 言いたくないんだけど」
「どう思います解説の家入氏」
「付き合ってるんじゃない?」
「雑!」

 そうして今日も前ぶれなく振られた任務をこなし、所用のために医務室に顔を出した折。ちょうど居合わせた五条からあれやそれやの出来事を詰められている最中だった。私の沸切らない解答を二人は都合よく解釈し、結果が聞ければ満足と言わんばかりに五条はマイク代わりにしている丸めた教科書を放り投げる。きれいな放物線を描いた本は医務室の奥に設えられたベッドにぽすんと落ちた。コントロールがいいのか悪いのか。

「ってことで賭けは僕と硝子の勝ちね」
「えっ賭けにならないって言ってなかった?」
「名前、あの時そういうんじゃないって言ってたじゃん。一対二なら賭けは成立。で、僕達の勝ち」

 イェーイ、と言って二人は拳を付き合わせた。今日の二人は随分と仲がいい。

「横暴が過ぎない?」
「まぁ僕ら二人ともオマエより稼いでるから? 掛け金の代わりにソレの話でもしてよ」

 五条が指差したのはわたしの右手薬指へ新たに収まった指輪だ。以前のものがシンプルなシルバーリングだったのに対し、いま指に嵌っているのはゴールドを貴重としたシックなデザインで、台座に小粒のスモーキークォーツがあしらわれている。
 貰った。誰から? 冥さん。とペースの早いキャッチボールが行われる。
 この指輪のお陰で先日から復縁しただの新しい男を見つけただのと囁かれているらしいが、私の知ったことではない。愉快な話題を提供出来ているなら何より。

「元カレから貰ったやつは冥さんが持ってっちゃったから、お詫びにって」
「だからって指輪渡す? 虫除けじゃないの」
「女同士のプレゼントに深い意味なんてないよ。ねぇ硝子」
「人によるんじゃない?」

 興味ゼロと言わんばかりに硝子は背を向けてデスクに向かい始める。彼女の中の休憩時間は終わりのようだ。私と五条は仕事の邪魔だと医務室から放り出され、各々の目的地へ歩き出す。いつもなら長いコンパスでさっさと歩いていってしまう五条が珍しく歩調を合わせているので何かと思っていると、「あのさ」と口を開いた。

「その指輪、スッゲー呪いが組み込まれてるって言ったらどうする?」
「えっ」
「ジョーダンだよ。でも術師からの贈り物なんてどう足掻いても呪いがこもるもんだし、その内カタチになるんじゃない?」

 僕達は愛すらも呪いにしてしまうからね。そう語る五条の声は達観の色が滲んでいる。
 知り合いが十人いたら十人がクズと指をさす男がこれみよがしに愛を語っている様子が面白くて、喉から笑いが込上がってきた。くすくすと笑う私を見て五条は気味悪そうに唇を歪める。笑わせてきたのはそっちだろうに。
「別に、冥さんからの呪いならいくらだって受けてもいいよ。それも愛ってことならね」
 視線を落とした先で透き通ったブラウンがきらりと光る。その様子があの晩に見たあの人の瞳によく似ている気がした。



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