僕らの遺言
学生時代に付き合っていた男の子がいた。私がまだ呪術高専と呼ばれる機関に籍を置いていた時の話だ。
神様が丹精込めて作ったのだろう上品な顔立ちに軽薄で友人からクズと罵られる性格、それとちょっとわかりにくい優しさを持ち合わせていた同級生。そんな子と思い合って交際するまでに至って、学生らしい思い出を作った後に自然消滅した。三年生の終わり、私が呪術界から逃げるように一般の大学へ進学したことがきっかけだった。
向こうからの連絡が怖くて番号もメールも全部拒否していたから相手がどう思っていたか知る由もない。幸いと言うべきか、大学進学後も連絡を取り合っていた友人からも彼の話を聞くことはなかった。呪術の世界から足を洗った私が彼と会うことはもう二度とない。怒って罵って、それで私なんかじゃない素敵な子と恋をしてくれればそれで良いと思っていた。の、だが。

「色々と肩身が狭く感じることも多いだろうが、またよろしく頼む」
「また一から鍛え直すつもりで頑張ります。こちらこそよろしくお願いします」

どうしてまた呪術界に戻ってきてしまったのか。理由は色々とあるのだけど、今更それを思い出したところでどうこうなるわけではない。今日からまた、術師としての人生が再スタートする。

「硝子にはもう会ったか?」
「後で顔出しに行くつもりです」
「悟はしばらく出張でいないだろうが、まぁそのうち帰ってくるだろう」
「はぁ」

出来る事なら会いたくない人物の名前を挙げられて顔を引きつらせる。記憶の中より大分ビジュアルが凶悪になったかつての恩師は、私の内心を知ってか知らずか「そう嫌そうな顔をするな」と言って頭を撫ぜた。

医務室の場所は私が在学していた頃と変わりなかった。思い出の中の風景を辿りながら廊下を進み、学生時代からの友人である硝子へ挨拶を済ませる。
つい先週に会ったときよりも硝子の目に刻まれたクマが濃くなっており、話を聞けば昨晩からずっと詰めているのだと言う。忙しそうな様子に早めにお暇しようとしたのだが、医療用スツールを足で押してきた硝子にそこへ座るよう促される。

「ちょうど休憩しようと思ってたトコだから気にしないで。紅茶とコーヒーあるけど」
「紅茶で」
「もうオリエン終わったんだ?」
「うん。明日から簡単な講習受けて来週にはもう現場」
「忙しくなると思うよ。この間の大規模案件で人ごっそり抜けたタイミングだし」
温かな湯気が立ち上るマグカップを手渡される。私は紅茶、硝子はコーヒーを注いだマグ同士を乾杯の如く突き合わせた。

「復帰オメデト。死なないように頑張って」
「ドライだなぁ」
「久々ってわけでもないしね。歌姫先輩に名前の復帰伝えたら喜んでたよ」

あと五条も、と言い忘れを付け足す様に呟いた。硝子は私達の顛末を知らないわけじゃないのに何故その名前を出したのか。喜んでいたなんて嘘みたいな言葉だけど、硝子がこの手の嘘を吐くような人間とは思えない。だからきっと、彼が私の復帰に対して「喜ぶ」反応を見せたのは本当なんだろう。
─五条悟。呪術界の頂点に立つ男で、元同級生にして元恋人。私が五条悟の文字から読んでいる肩書は他の人よりちょっとだけ多い。

「昔のことを引き合いに怒る奴でもないからちゃんと顔見せてやりな」
「どうかな。硝子が知らないだけですごく怒ってるかもしれないし、その時は一緒に来てくれる?」
「私はパス。忙しい」

マグをテーブルに置いた硝子はポケットから端末を取り出して操作を始める。ややあってから私の端末がぶるりと震え、画面を見ると硝子からの通知が一件。内容は番号とアドレスだった。

「アイツの番号とアドレス。メッセージのアカウントは番号から引っ張って」
「……こういうのって相手の許可取らないとだめじゃない?」
「別にいいでしょ。知らない奴に教えてるわけでも無いんだし」

後は仕事で使う連絡先、と言って硝子は何件かの番号をトーク画面に投げつけてくる。液晶に浮いた番号をなぞり、五条悟にとって名字名前という人間はどんな位置付けになっているんだろうかと考える。数年の空白を得た元彼女に対する感情なんて赤の他人以下が相場だろうに。
私は、今の五条悟にとって“何”なんだろう。




「や。名前」

彼と顔を合わせる機会は思っていたよりも早くやってきた。
階級証に印字された四の数字が三に変わる頃、記憶の中よりも年齢の分だけ低くなった声が私を呼び止める。
特徴的な白い髪と日本人男性の平均をゆう超える身長は記憶の中と変わらない。見た目の変化といえば目を隠している物がサングラスから包帯のような布に変わったことくらいか。サングラスと違って顔の半分近くを隠しているにも関わらず、くっきりした鼻筋や形の良い唇から彼の容貌の良さが伺える。

「十年ぶりくらい?」
「……そんなに経ってないよ」

つい敬語は外してしまったが、名前で呼んでもいいのか名字で呼ぶべきか迷って「五条さん」と口にした。前は悟と呼んでいたけど、当時の気安さを持ち込める度胸はない。

「そうかしこまんなくていーよ。数少ない同期なんだしさ」
「じゃあ、五条くん」
「及第点ギリギリってとこだけどまぁいいか。よくできました」

ぽん、と肩を叩く手のひらが優しい。私の記憶の中にいる五条悟はもっとぶっきらぼうで、人を思いやりこそすれどそれをわかりやすく表に出せる人では無かったのだけど。目の前にいる彼は大人らしい態度と変わらない軽薄さが絶妙なバランスで成立している。

「昇級したんだって?オメデト」
「あ、ありがとう……?」
「なんで疑問系?相変わらず素直じゃない奴」

自分より下の階級の術師を雑魚呼ばわりしていた相手に三級昇格を褒められてもなんだか嫌味を言われている気がしてならない。教師を始めたと聞いているのでその辺りの価値観もだいぶ丸くなったのかもしれないが、それにしたって変な感じだ……。

「わかってると思うけど万年人手不足な業界だからね、経験者大歓迎!バリバリ働いてもらうよ」

それじゃあ、と言って五条くんは踵を返す。何とも思ってませんって接し方をされて拍子抜けというか、同じ職場で働いていく上での最低限のコミュニケーションは問題なく出来そうな温度感に胸を撫で下ろす。私ばかりが気にしているだけで、五条くんにとってあの日々のことはとっくに終わったことなのかもしれない。寂しい、なんて思ってはいけないのに心の中はそればかりで、私はこの日からますます五条くんを避けるようになった。


「名前ちゃんさぁ、このあと用事無いでしょ」

ただ、私がどんなに避けようとしても向こうからやってくるものは防ぎようが無い。高専付きでまだ階級の低い私は学生に混じって任務に出されることが多く、任務の前後は校内に待機していることが殆どだ。今日だって事後報告のために高専へ寄った帰り、背後から間隔広い足音が聞こえたかと思うとまるで暇人扱いの声掛けをされた。

「明日の授業の準備手伝ってくれない?」
「……そういうのって生徒に手伝わせるもんじゃないの」
「学生の限りある貴重な時間を使えってこと?名前ってば意外と白状だね〜」

私がどれだけ距離を置こうと、五条くんは校内に顔を出す日があるとこうして私に雑務を押し付けたり、意味のないちょっかいまでかけに来る。お陰で一部始終を目撃していた補助監督や学生から名字さんと五条さん/先生って仲良いんですね、なんて言われる始末だ。顎で使われたりイジられているだけで仲良くはない、はず。

「あぁもう、何を手伝えばいいわけ」
「明日の授業で使おうとしてた資料が見つかんなくてさ、結構マジに困ってんの。オマエよく図書室こもってたじゃん」
「司書さんいなかったっけ?」
「二年前くらいに辞めたよ」

人手不足の寄る波は校内各所に及んでいるらしい。最後の頼みの綱も無くなったところで、図書室へと歩き出した五条くんの後ろを黙って歩き始める。


メモ用紙に羅列された文献を探し出す作業は想定よりも手短に終わらせることが出来た。基礎的な呪術の手引や結界術のいろはの本は学生時代に自分でも手に取ったことのあるタイトルで、こういう初心者向けの本は五条くんみたいな天才型には無縁のものだろう。だから彼には見付けられなかったのかもしれない。
机の上に指定の文献を並べ終え「これで全部」と言えば見当違いの棚を探していた五条くんが「早いね」と感心しながらこちらでやって来る。もう用事は済んだ。早くここから去らなければ。

「五条くん、私そろそろ行かないと」
「名前ってさぁ」

遮るように口を開いた五条くんは剣呑な雰囲気を纏っていることに気付く。出入り口は五条くんがいる方にある。部屋の外へ出ようと踏み出した足が五条くんから離れるために一歩退く。

「僕のこと避けてるよね」
「……そんなことないよ」
「ある。絶対、確実に」

また一歩下がると五条くんも一歩近付いてくる。じっくりじっくり静かに追われ、下がる余地の無くなった体が壁にぶつかった。五条くんは徐にしゅるしゅると白い布を解き、宝石みたいな二つの瞳で私のことを見下ろしている。
ふと、まだ私達が恋人と名付けられる関係だった頃、五条くんの目が呪力を帯びて微かに光っている様を見るのが好きだったことを思い出した。悟、と名前を呼ぶと優しげに細められる双眸が目の前にいる五条くんと重なる。

「だって、五条くんだって関わりたくないでしょ。私、自分のことしか考えてなくて、五条くんのこと全然……」
「相談無しに消えたと思ったら着信拒否だもんね。流石にあの時は悲しくて泣いちゃったな〜」

壁と五条くんの間に閉じ込められ、守るよう胸の前に上がった腕は壁へと押し付けられる。五条くんの体が半歩分近付くといよいよ逃げる隙間さえ無い。

「僕も好きな女を束縛して喜ぶタイプじゃないし?名前が普通の生活を送って普通の幸せを掴みたいんならって納得してたけど」

ぐ、と手首を掴む力が強くなる。痛いほどの力じゃないのに、解こうとしても固定されたみたいに動かなかった。

「まーたコッチの世界にひょこひょこ戻ってきちゃってさぁ」
「……ごめんなさい」
「責めてるわけじゃないよ?可愛がってた飼い猫が戻ってきた気分っていうか、僕のこと意識して避けまくってるの正直面白かったし」

じっと見下ろしてくる目が語っている。まだ好きなんだろう、と。
違う、違わないといけない。ちゃんと五条くんには私以外の人と幸せになってもらいたい、この数年間それだけを考えて生きてきたのに。

「私、もう五条くんのこと好きじゃないよ」
「じゃあまた僕のこと好きになって」
「だめ」
「駄目じゃない」

鼻先が触れそうなほど顔が近付く。息ができない。心臓がうるさい。

「いい加減観念しなって。つーかまた逃げるつもり?」
「五条くん、」
「僕がこんなに焦がれる女の子は名前だけだよ。ちゃんと責任取ってよね」

全部オマエのせいだよ、と五条くんが私の肩へ顔を埋める。求められるより責められる方がずっと良い。でも五条くんは器用な人だから、その両方を同時にやってのけてしまう。私に報いを求めている五条くんへどんな言葉を返せばいいのかわからなくて、言葉を紡ごうと唇を動かしては音になり損ねた空気を吐き出した。きっとこの先にどんな言葉を知ったとしても、置き去りにしてしまった五条くんへ送る言葉を見つけることは出来ないのだろう。私は、そのくらいの行いを五条くんにしたのだとようやく自覚する。
せめてもの償いために「悟」と馴染みのある呼び方で彼の名前を口にして、あの頃よりもずっと広くなった背中に両腕を回した。私の腕じゃ足りないくらい、悟の背中は大きくなっている。



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