侵す毒、浸す薬
※百合夢
※女性同士の交際表現があります


リノリウムの床を歩く。リフォームされる前は板張りだった廊下は既にほころびが出ているのか、張られた膜が不自然に寄ったり角が浮いたりしていた。先程境目に足を引っ掛けてしまった私は足元に注意を払いながら来客用のスリッパを鳴らす。ぱた、ぺた、と気の抜けた音を響かせながら目的地へと辿り着き、右手に提げたビニールを持ち直した。かさかさと袋が揺れる。

「硝子ちゃん」

そう呼び掛けて引き戸を開いたが返事は無い。留守か、と思いきや視線を滑らせた先に目当ての人物の姿が見えた。椅子に掛けた後ろ姿が不規則に揺れている様子を見るに、無視をされたわけではなさそうだ。俯いた首もパイプ椅子に凭れた背中も痛めてしまいそうな寝姿にため息が漏れる。
医務室に備え付けられた彼女の作業スペースへ近付き顔を覗いた。青白い顔、閉じた目の下に滲んだ隈、腕が組まれた胸元は規則正しく膨らんだり萎んだりしている。仮眠かうたた寝か。背後に近寄っても目を覚まさないあたり、恐らく後者。そっと閉じられた目蓋へ手を伸ばし、傷付けないようそっと開く。生気のない瞳が蛍光灯の光を浴び、瞳孔がひくりと反応した。

「おはよう」
「……優しさってものがあってもいいんじゃないか?」
「あるよ。こんな身体痛めそうな姿勢で寝ちゃってさぁ。起こすのが優しさでしょ」
「屁理屈」

ギ、とパイプ椅子を鳴らしながら姿勢を正す。腕を伸ばすとこちらにまでゴキ、ポキ、と身体の軋みが聞こえてきた。腕を回しながら「治療?」と問われ、私は持っていたビニール袋を彼女の眼前へ見せ付ける。幅広い品揃えで有名な雑貨店のロゴを確認した硝子が顔をしかめた。

「何これ」
「ネイルセット」
「これを、何」
「爪割れちゃったから硝子ちゃんに補修も兼ねて塗って欲しくて」

眉間のシワが一層深くなる。先の任務で傷付いた指先の中でも横一線にヒビが入った中指を見せると五指ごとわし掴まれた。

「……、……たった、それだけの用件で、私の安眠を妨げた、と」
「椅子で寝るのが安眠なら生活改めた方がいいよ?」
「私はお前の世話係じゃない」
「そうだね恋人だもんね〜」

私のへらへらした態度に硝子はますます眉を寄せる。
いけない、調子に乗り過ぎた。
別に、爪くらい自分で塗れるけど硝子にやってもらおうと意気込んで来たのだから硝子にやってもらいたい。こういう時は、わざと琴線に触れるワードを混ぜて諦めたふりをしてやるのだ。

「うーん、硝子ちゃんがやってくれないなら五条に頼もうかな?アイツこういうのノリノリでやってくれそうだし」

いけ好かない同級生の名前を挙げれば、今すぐにでも帰れと言いたげだった顔が歪んだ。我ながらずるい言い方だな、と思う。

「……向こうの椅子、持ってきてここ座れ」
「やった。硝子ちゃん大好き!」
「都合が良い、の間違いだろ」

雑貨店のビニール袋を受け取った硝子が机に中身を並べた。ベースコートにトップコート、補修用のハードナー。どれも新品の道具たちから包装を剥ぎ取っていく。その間に壁際に追いやられた古いオフィスチェアを転がし、彼女と向かい合うように座った。

「派手な色」

エナメルの小瓶を見て硝子が呟いた。彼女の言う通り、液体に混じったパールや彩度の高い赤は“派手”と称するに相応しい。私の肌とも合わない赤色はきっと悪目立ちするし嫌味にも見えるだろうけど、そのくらいがちょうどいい気がした。

「派手だけど可愛いでしょ」
「名前にはもっと落ち着いた色が似合うよ」

ハードナーをまとったハケが指先へ近付き、ツンとした匂いが鼻を掠める。男の人の大多数はこの匂いに慣れていない。女だけが慣れ親しんだ薬品の香りは私を特別な気分にさせる。

「じゃあ、次は硝子ちゃんが選んでくれたのを塗ろうかな」
「塗ってもらう、の間違いでしょ」
「また塗ってくれるんだ?二回目は無いと思ってたんだけど」
「……はぁ、もう、指汚しても文句言うなよ」

そう言って、硝子は割れた爪にハケを滑らせた。乗せられる瞬間、指先がちょっとだけヒヤリとする。速乾を謳うマニキュア達が多忙な彼女の時間をどのくらい割いてくれるのかを考えながら、濡れていく爪を見つめていた。





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