微かな誘惑

学生達はとっくに帰寮し、職員も退勤した時間帯。シン、と静まり返った室内に時折キーボードの音のみが響く。他所から引き寄せたオフィスチェアへ体重をかけると古い金具が苦しそうに軋んだ。

「ねぇ、まだ?」
「あと少しだから」
「ソレ何回も聞いた」

名前が最初にあと少しで終わると言い出してからもう三十分は経った。時刻は十九時半。定時の概念なんて存在しない業界だけど、労働法で定められた就労時間はとっくに過ぎてるだろう。表計算ソフトで無理やり作られた書類のフォーマットに文字を打ち込む名前の横顔はどこからどう見ても疲れ切っていた。皆忙しいとはいえ、自分の彼女が仮眠室で死んだように寝てる姿を見ても痛まない心なんてものは元より持ち合わせていない。

「クマヤバいよ。ちゃんと寝てる?」
「寝てる寝てる」
「昨日何時に寝たの」
「三……二時、くらい」

嘘だね、絶対三時だ。今朝は八時前に出勤していたし、とても寝てると言える睡眠時間ではない。時間空いてるときにも寝てるから、なんて付け足してるけど仮眠を睡眠時間に含めるなっつー話である。
ここ最近の名前は明らかにオーバーワーク気味で、今やっている仕事も来週じゃ駄目なのか、と聞けば休みの日に仕事しないために残業してる、なんて言い出す始末だ。一度タスクの調整をした方がいいと思う。てか次の出勤日に僕から学長に打診する。その方がよっぽど建設的だ。

「オマエって典型的なノーと言えない日本人だよね」
「そりゃどーも」
「褒めてないよ?」

右手でマウスを動かしながら左手がデスクの上を彷徨う。何か探しているのかと動きを目で追っていると指先が果糖タブレットのケースを掠め、そろそろと引っ込んだ。そういえばさっきの一個最後だったような。予定通りに仕事が終わっていれば今頃二人で食事だったし、腹でも減ってるんだろう。何かないか、と上着のポケットを漁ると、昼間に食堂で買ったチョコレートの箱が存在を主張する。

「口開けて」

個包装のチョコレートを一粒つまんで口元へ持っていくと名前の口が「あ」の形に開かれた。いつもは恥ずかしがるくせに。予想外の反応をするものだからこっちが面食らう。人前じゃないから?などと疑問に思いつつ、口の中に指ごと突っ込む形で食べさせると無言で咀嚼を始めた。

「美味い?」
「ん」

短い返事と一緒にこくこくと頷かれた。嚥下したタイミングでもう一度手ずから菓子をやると今度は自発的に口を開く。今度は手が離れるより早く名前の口が閉じたせいでしっとりとした唇の感触が指先に残る。うわ、これめちゃくちゃエロいな。

「もしかして腹減ってる?」
「まぁ。……ごめん、お店の予約間に合わないかも」
「謝ることじゃないでしょ。すっぼかしたわけでもないし」

元々は定時に二人仲良く退勤して、名前が前から行きたいと言っていた店に行く予定だったのだが仕事じゃ仕方ないだろう。本当なら仕事を取り上げて連れ出したいくらいだけど、そんな横暴が許されないのが社会人の辛いところだ。
処理速度が遅い旧型ノートPCにイライラする名前を観察しているとうっすら開いた隙間から舌先が覗き、下唇をちろ、と舐めた。なんてことは無いその一連の仕草が下半身に刺さり、邪な思考が脳を巡る。そういえば最後に抱いたのいつだっけ、と指折り数えて三本目でやめた。不毛過ぎる。今キスしたら怒るだろうか。怒るだろうな。でも少しくらいなら平気か?己の欲と葛藤していると、名前が「そうだ、」と呟いた。彼女の座るオフィスチェアがこちらへくるりと回る。

「来週のやつで聞きたいことあって、」
ちょうど振り向いた名前の顎を掴んで引き寄せた。「え、」と困惑した声が上がったのが先か、互いの唇が触れたのが先か。

「っね、さと、……っ」

制しの声ごと飲み込むように噛み付くといよいよ言葉らしい言葉を紡げなくなる。言葉の代わりに肩を叩かれたが大したダメージにはなっていない。這わせた舌先が彼女の口の中から甘さを拾い、先程のチョコレートを連想させる。下唇に吸い付くと名前の手がおずおずと僕の襟を掴み、そのままぐっと後ろ押した。そして困惑と情欲が入り交じった表情で「いっ、きなり、何」と、口元を抑えながら言う。

「メンゴ、したくなっちゃったからつい」
「残業してる彼女見てキスしたくなるってなに!?」
「流石の僕もそんなビックリ仰天特殊性癖では無いから安心して?」

強いて言うなら口元がエロかったから、が理由なのだがそんなことを言ったらもう二度と物を食べてくれなくなる気がする。本当の事を言う代わりにイライラしてるところを見たらしたくなった、と伝えると名前がそれもそれでヤバくない?と顔を歪めた。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -