水面下の潜熱

今終わりました。これから一時間ほどで高専に戻ります。

そう送ったのが五十分と少し前のこと。予定よりも早く戻れはしたものの、相手を待たせている事実に変わりない。学生を寮まで送り届けたあと、ポケットに入れていたスマホを取り出す。
恐らくメッセージを送ってすぐに返事をくれたであろう時間帯の通知が一件。スワイプすると先ほどメッセージを送った相手……七海さんからの返事が来ていた。内容は自分も今しがた任務から帰ったところなので高専で待っている、という旨のものだった。
今晩はお互いフリーだから久々に食事でもどうかって誘われてて、私の方の任務が多少遅れはしたもののまだ定時を過ぎたくらいの時間だ。

待つならここだろうと一階の応接を覗くと来客用のソファに腰掛けた七海さんの後ろ姿が見えた。七海さん、と声をかけると振り向いたその後ろ、ローテーブルの向こうにもう一人の姿があることに気付く。それが五条さんだと気付き、内心うわ、と思ってしまった。

「お、名字じゃん。お疲れ」
「お疲れ様です……」

別に五条さんのこと嫌いとか苦手とかじゃないけど、七海さんと五条さんと私という組み合わせが極めてよろしくない。七海さんには秘密にしているけど私と五条さんはその昔、七海さんがちょうど術師を離れてる間に色々とあって、この組み合わせは個人的にかなり気まずいものだった。

「すみません、お話中でしたか」
「そうだよ」
「いいえ」

肯定したのが五条さん、否定したのが七海さん。どっちだ……と思いつつ、いつものパターンでいったらシカトする七海さんに五条さんが延々と絡んでいたんだろうと推測する。七海さんは時計を一瞥したあと、ソファに座ったまま私を見上げた。

「もう出られそうですか」
「ハイ!こっちはもう大丈夫です!」

なんなら一刻も早くこの空間から出たい。そんな心の表れか、無駄に元気に返事をしてしまったせいで七海さんがきょとんとした顔をする。

「なにお前ら、これからデート?」
「そうですが」

何か問題でも?と言いたげな口調で七海さんがきっぱりと答えた。七海さんってこういう質問ってはぐらかしそうなイメージあるからちょっと意外だ。ふーん、と相づちを打った五条さんは私と七海さんの顔をそれぞれ見る。

「あの七海が職場恋愛かぁ」
「いけませんか。特に規則で禁じられていることでもないでしょう」
「まぁ僕も後輩の色恋沙汰に首突っ込むほど野暮天じゃないしね、好きにしたら?」
「アナタに許可を頂かなくとも好きにしますよ」

ハァ、と大きなため息が聞こえる。イライラまじりのため息、七海さんは物腰が柔らかそうに見えるけどその実かなり短気で手が早い。今も見ているだけなのにすごくイライラしてるのがわかる。まぁ先輩からこれだけうざ絡みされたら誰でも苛立つだろうな。五条さんって人間を煽るプロフェッショナルが持つ検定とか持ってそうだし。

「しっかし名字が相手とはね。色々大変じゃない?」
「五条さんの相手をするよりは苦労しませんよ」
「えー?でも名前ってめちゃくちゃ寝相悪いじゃん。僕蹴られたことあるよ」

空気が凍るってこういうこと言うんだろうか。その瞬間、室内の温度が少なくとも一度下がった気がする。首は突っ込まないと宣言したあとに昔の関係を仄めかすようなこと言うなんて、五条さんは間違いなくこの世の最低レベルに性格が悪い。
死にかけたときくらい冷や汗を流す私の横で、七海さんが「そうですか」と返す。私はというと居た堪れなさすぎて座っている七海さんの背後にそろそろと隠れた。本当に最悪だ……。



「五条さんとは随分親しいようですね」
「む、昔の話です……」

めちゃくちゃ重い空気が満ちる車内を中和するかのように、ラジオからは軽快なポップミュージックが流れる。チラ、と盗み見た運転席の七海さんの表情は暗い車内と眼鏡のせいで伺えない。
あの五条さんの余計な一言のあと、七海さんは極めて淡々とした口調で退勤の挨拶をした。私は大股で歩く七海さんに引っ張られていたのでのんきに手を振る五条さんに会釈をするのが精一杯で。廊下に出たあと、恐る恐る怒ってますか?と聞いたら「それは何に対する質問ですか」と問われる。私か、五条さんか。答えを間違えたら余計に七海さんを怒らせてしまう気がして口を噤んだ。車に乗ってからも会話はなく、いつもより気持ち早めのスピードで坂を下りている。
……それにしても、これどこに向かってるんだろう。暗い山道を抜け、段々と都会的な景色が近付いてきた頃、ぼんやりと外を見ていた私の意識に七海さんの声が切り込んだ。

「確認なのですが、今晩の行き先は私が決めても?」
「ぃ、行き先?別に大丈夫、です、けど……」
「ありがとうございます」

そう言うと七海さんは駅に向かう大通りへ向かってハンドルを切る。こんな空気でいつも通りのデートってわけにもいかないだろうし、駅で降ろされるのかな、でも駅までは送ってくれるのか……なんてのんきなことを考えていると、七海さんが「あともう一つ」と付け足した。

「あまり優しくできる自信が無いので、それなりに覚悟をしておいてください」
「え、何がです?私何されるんですか」
「……」
「七海さん!?」

一向に返事をしない七海さんに身の危険を感じた頃、ようやく「命までは取りませんよ」と生命の保証を示す言葉が返ってきたが、相変わらず七海さんの目は笑っていなかった。



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